迷走
Vagus
一方、ポートマフィアの幹部専用事務室では帰還した一人の男が愛し君の不在に珍しく酷く困惑した様子だった。
「嗚呼…紫琴、紫琴何処に居るんだ」
男は事務室のありとあらゆる場所を確認し捜した。
己の不在の間に部下や幹部の出入りは禁じた筈。これは首領を通じて全幹部、構成員に伝わったのだ。
それに加え、彼女は利口だ。自分が逃げられない立場である事は分かりきっている。
その他にも疑うべき事は総て完璧であった。
それでも己が狂おしい程に求める彼女は居ない。
何処に居る、何処に居るんだ。
ふと過るのは先日愛し君を散々な目に遭わせた黒外套の部下。
あの男は心底彼女を恨み妬んでいた。
確信は出来ない。
だが、可能性は総て潰さなければならない。
総て潰した後で初めて真実が見える。
「……」
▽
革靴の靴底を地面に叩きつける音すら苛立ちがしみじみと感じさせるということは彼自身の怒りは最高潮までに達するということだ。
その怒りに任せた状態で向かう先は只一つ。
その向かい先に辿り着いたのか太宰はノックも無しに突然入り込んだ。
唐突な太宰の訪問に当人は当然の如く驚愕に染まりその顔には少しばかりの恐怖が見て取れた。
彼の姿を見た直後太宰が投げかけたのは、愛し君の安否の質問だ。
「紫琴を何処へやった。…芥川君?」
そう云って彼の目線の先にあるのは何時しかの黒外套の彼。
そして、紫琴が彼は死んだと宣告されて後悔と罪悪感に沈んでしまった元凶でもあった。
唐突に訪問され且つ彼女の居場所を問い詰められ言葉を失って居るも、それが黙秘だと感じた太宰は彼の胸倉を掴み壁に押さえつけた。その右手には或る日に使用した拳銃が一丁彼の眉間に設置された。
「異能力で防御が出来るようになって最後の一発が効かなかったのは本当に運が良いと思うと。神には愛されていないだろうけど、助けられる価値が自分にあることに感謝しなよ」
「貴方はっハッ…残酷な人間だ。高が一人や二人そこら辺に居る様な女子の為に殺人を犯すとはッ」
「殺人じゃない…未遂だよ?それに今私は質問しているのだよ。早急に紫琴の居場所を白状した方が身の為だよ。芥川君、私は君の様な有能な部下を無くしたくない」
よく、よくぞ云った。
己が執着した女子一人のために"部下如き"と云わんばかりに好き放題発砲したのにも関わらず、その癖、今は掌返したような態度に芥川は動揺を隠せない。
しかし、上司の問いへの答えは否だ。
あの一件以来、彼女を目にした覚えはない。
何より目の前に居る他責的なこの男がそうしたのにだ。
「あの女は恒久、貴方の監視下にあったのではないのですか」
「そうだよ。でも今はこうして逃げられた。その逃亡に君が加担して居ると思ったんだけど…如何やら見当違いだったようだね」
芥川が本当に加担者ではないことに気づいた太宰は眉間に突き付けていた銃を下ろし、長らく芥川を解放した。
そして側に居た構成員の一人に声を掛けた。
「全部隊にこのヨコハマ一帯に包囲網を張るよう伝えろ。脱獄者が逃げた、絶対にヨコハマから逃すな」
ヨコハマから逃げないようにというよりも自分の籠から逃げないようにが正しいだろう。
そして、その脱獄者もとい愛し君の彼女の逃亡に加担した主犯には死よりも辛い天罰を。
「あと、彼女の逃亡に加担した集団がいるのであれば主犯以外全員殺せ」
今の彼はポートマフィア最年少幹部の顔であり一人の女子を略奪された事による怒りを表す一人の男の顔をしていた。
既に動き始めようとしている太宰に芥川が駆け寄る。
「太宰さん、僕は…」
「嗚呼…君は待機だ。これはあくまで私の部隊を動かすだけで他の幹部や構成員達には内密だ。特に中也には知られたくないから…見張っていてくれないか」
待機。
その言葉が芥川の心に重くのしかかる。
自分が身勝手な行動をしたからなのか。
それとも、只々己が未熟で無能だからなのか…理解できない。
太宰が下した命に不服を感じた芥川は反論しようとしたその時、構成員が使う部屋に数人の黒服を纏った男が入って来て太宰の前に横に一列に並んだ。
「ん?私に用かい」
「はい。実は太宰幹部に少しお耳に入れたい事が」
それと同時に男の視線は太宰を越えて芥川へ。如何やら内密な内容なので退室を願いたいという事だろう。
それを見兼ねた太宰は構わないと云って話を続けさせた。
「で、私の耳に入れたい事って?」
「はい。実はビル内にて見回りをしていた男が云っていたのですが、ビル内の玄関先で赤髪の長身な男がベージュのコートで頭を覆った性別不明な者を連れて其の儘ビル内から出て行ったという情報がありました」
それを聞いた瞬間、太宰の世界が静止した。
先程まで余裕な笑みを絶やさずに部下を脅していた口元は微かに震え、安定に鳴っていた胸の高鳴りは焦燥を表すかのように突如速度を速めた。
そして、震動する口元を必死に操作しやっとの事で口を開いた。
「赤…髪…?」
「…はい?」
「その男は…本当に赤髪だったのかい?」
太宰の中で一つの気がかりなことを感じた。
数日前、己が抗争の鎮圧へ向かった帰り織田とすれ違ったことに素直に疑問を持てば良かった。
織田が…最下級構成員の織田作之助が本部に居ることは首領の命令以外有り得ない。
首領の命令なのかとそんな低確率で何とも脆い希望にかける。
しかし、答えは無情にもそのどちらかではなかった。
「はい。あまり見慣れない後ろ姿のことでした。しかし、我々の本部の人間で赤髪の者など稀に見るくらいです」
誰か、誰か嘘だと云ってくれ。
先日まで愉快に飲み合っていた友人の中に一人、赤髪の男が居た。
若し仮にも、その友人が彼女を連れ去ったのだとしたら自分は如何すれば良い?
彼の事だ。
きっと一人で彼女の華奢な腕を引っ張り夜のヨコハマを駆け抜けているだろう。
主犯以外殺せと先刻、部下に命じたばかりだ。
そして、その主犯は友人。愛し君は彼の腕を未だに取って走っている。
今太宰の中に黒い鉛のようなものが深く深く無限にある心の底へと沈んでいく錯覚に陥る。
許せない。
彼女は自分のものだ。
譬えそれが友人だとしても…。
「…ですので、今から部隊を向かわせ」
「良いよ」
殆ど話の内容を頭に入っていない太宰だったが大体は判ったのだろう。
しかし、その良いよという無数の意を示す言葉は一体彼のどんな気持ちを読み取り発せられた言葉なのであろうか。
「太宰幹部、良いよ…とは」
「…部隊を包囲網の部分毎に張らせろ。私も行く」
それを聞いた部下は急いで部隊に知らせるために部屋から飛び出そうとするが太宰の制止の声に立ち止まる。
「あァ、あと『主犯以外全員殺せ』って云ったけど良いや。脱獄犯を連れているのは主犯だろうし、軽く怪我させても問題ないよ」
そう云って不敵な笑みを浮かべる彼は本当に赤髪の彼の友人なのだろうか。
今から友人を殺しに行こうとする者に友人と名乗る資格はあるのだろうか。
太宰は、自室に戻り掛けていた黒いコートを纏い部屋を出た。
その黒いコートの色は今の太宰自身の気持ちを表しているかのようだが、そんな事誰も知り得ない事だ。
「…やってくれたね。織田作」