逃走する乙女、歩み寄る悪魔
走る、奔る、
駆る。
何処までも、終わりのなき路へと。
世の中にはこんな諺がある。
"逃げるが勝ち"
その名を示す意は異なるものの今彼らにとって最優先事項は兎に角逃げる事だ。
見えぬ格子、監視、手錠、枷からこの男が幻の解除鍵で解き放ってくれたのだ。
こんな二度もない機会を簡単に無理だから、とかあの男から逃げるなど不可能などとと無力な人間ほどよく云う言葉を馬鹿らしいとばかりに切り捨てこの男、ポートマフィア最下級構成員・織田作之助は云った。
呼吸を乱し少女の手を力強く引きながら、
「逃げる事など負狗がする事だろうと思うが今の君にはそれしか生き延びる方法がない。太宰が頭を冷やすまでの辛抱だ。…時には物事から逃げる事も成長の一歩というのは俺の持論だが」
ヨコハマの街頭を走って行く中で途中で通り過ぎる家々や街灯が右流れに溶けていく様に消えていくのを尻目に織田は紫琴を引き連れと或る場所へと避難させる。
▽倉庫
ヨコハマ市内であるものの本拠地から遠く離れた倉庫に辿り着いた彼らは何時ポートマフィアが嗅ぎつけられるか警戒しながらも互いに息を潜め合っている。
しかし、紫琴にとってこの沈黙は息苦しく感じたのか織田に小声で且つ周りに響かないように口を開いた。
「あの…一つ質問をして宜しいでしょうか」
「…ああ」
質問する事を許された紫琴は今迄の引っかかり事を話題に乗せた。
引っかかり事といってもその質問内容とは実に素朴な質問であった。
紫琴は真っ直ぐに織田を見つめ話しかけた。それと同時に尻目で織田が纏っている駱駝色の外套の脇の部分を確実に捉えていた。
「貴方はポートマフィア、此方は捕虜な上に脱獄犯という不名誉な称号を頂きました。この関係性上ならば今此処で貴方は此方を撃ち殺したとしても誰も咎めないでしょう。寧ろ…その事について賞賛され昇進すらあり得る。なのにそれをしないのは何故ですか。その…外套に隠された銃で」
「止めろ」
恐怖から来ているのか震えた手を必死に動かし指を差したのは尻目に捉えていた銃。
今は見えないものの先程の逃避行によってコートが翻った時に見えた一丁の銃。
てっきり自分はその銃で殺されるのかと思っていたのだ。
「俺は…人を殺さない」
力無く呟かれたその言葉はまるでその言葉に縋っているようにも聞こえた。
人を殺さない。
それはポートマフィアにとっては決してあってはいけない意義だ。
それを組織の人間の誰かに聞かれた場合彼は一体如何なるのか。
殺しを教える調教。
何処かの敵対組織の諜者であるかどうか確かめる為に拷問。
或いはそのまま殺され、生涯を終えるか。
しかし、最下級構成員の織田にとって敵対組織との抗争に参加することは無いだろう。
組織の管轄内の取り締まり位だ。
今、紫琴という一人の女を手段を選ばない方法で見つけ出そうとしている最年少幹部殿と比べれば自分の任務など彼の任務の足元にも及ばない。
「人を殺さない…ですか」
不意に今迄黙り込んでいた彼女が口を開いた。
「それって…」
"人を殺せないの間違いなんじゃないですか"
彼女がそう口にしようとした瞬間、織田は何かを感じ取ったのか紫琴を抱き締め地に伏せた。
突然の事で頭が真っ白な紫琴は今何が起きたのかすら分からなくなっている。
だが、そんな気も
突撃銃の射撃によって頭が真っ白なのが顔も含め一瞬で恐怖に塗り替えられた。
必死で状況を説明欲しいものの恐怖で震えが収まらず口が思うように動かない。
必死に表情筋を動かしやっとの事で口にしたのが動揺が大きく出てしまったのか素っ頓狂な内容だった。
「な、何…」
「連中に追いつかれた」
"連中"その単語だけで一体どれだけ彼女を震え上がらせるのを彼は知る由もないだろうが、今の彼女の顔は顔面蒼白。その表現が相応しかった。
「連中って…真逆っ」
「静かにしろ、気付かれたいのか」
悲鳴を上げそうになる所を織田が間一髪でその口を塞いだ。
織田は気付いていた。
自分が逃げ出した事でそれに気付いたあの部屋主がもう既にこの場所まで歩み寄っていることを。
だが、総てが無駄事ではない。
少しだけ、本当に少しだけ息苦しく閉じ籠っていた彼女にちゃんとした呼吸場所を与えてやれた。
気が気でなかった。
己の友人が真逆少女を誘拐、挙句に手篭めにするという彼の奇行が目立つという噂を聞いたのは何時もの事。
しかし、その噂は時が経つ連れに収束していった。これも何時もの事。
そう。何時もの事だ。
何時もの噂、何時もの空気感、何時もの任務、何時もの友人の奇行。
どれも何かが変わるようなものは無かった。
なのに、それらの"何時もの"元凶である【彼】だけが変わっていた。
何か遠くを見ているような。
酒屋で何時ものようにじっと酒を見つめ酒を飲んで、だけど…その隔離された中で漂う色付きの湖を見つめる目は湖越しで誰かを映しているかのように見えた。
だって、何も話題がないのに酒を見つめて顔を蕩けさせる程に笑うとは可笑しいと思わないか?
然程気にしなかった時に或る話題を振って己を見た瞬間驚いた。
己の顔を見て話している筈なのにあの男の目は己の何かを探るようなそれでいて魅惑的な瞳で己を見ていた。
しかし、その目は己の瞳越しにまたしても同人物を浮かばせている。
ここで思ったのだ。
此奴は何かを隠している。
それも、大々的に公言したら友人である己が簡単に殺されるくらいに。
それで少し茶化してみたのだ。
「太宰、好きな女でも出来たのか」
ほんの遊び心で。しかし、その話題は結果的に深い後悔の念を生み出した訳だが。
その質問をした時にあの男は何と返してきたと思う?
「織田作、私は彼女を将来の伴侶にすることにしたよ。彼女はとても魅力的だ…私が詰め寄ると大型犬に睨まれて震える仔犬同然にその華奢な身体を震わせ、瞳には酷く混乱した中でもはっきりと私という姿を映す、それも私だけを。それが私は嬉しくて仕方ないのだよ」
これを聞いて初めて知った。
あの噂は本当だという事。
そして、彼の証言からするに今でもその彼女はこの男の支配下に置かれている事を。
それから時は戻り現在の状況下に戻る。
黒装束の男達は突撃銃を構え何時でも銃撃戦に備えている。
織田は彼らの人数を確認して少し息を整え異能を発動した。
織田作之助____異能力「天衣無縫」
「あの…貴方の異能って」
「俺の【天衣無縫】は5秒以上6秒未満の未来を予測する。取り敢えずこの状況から逃げ切れるかどうか…」
何故、そこまでする。
紫琴はそう問いたくなったが開きかけた口を閉ざす。
その質問はまるで自分に誠意を尽くそうとする者への扱い方だ。
あくまでこれは己の逃避行に助力してもらっているのだ。野暮な質問は却って失礼だろう。
「おい、君…否、…君、名前は何だ」
「清水…紫琴です」
「では清水行くぞ」
行くって何処に…と思ったが織田の視線を追って己も確認すると、そこには数カ所に倉庫が立ち並んでいる。それらを障害物として利用するという魂胆だ。
つまり、彼の言葉は只単純に行くことに関して同意を求める意味でもあり、一種の大きな決断をしろという意味も込められている。
要は、覚悟を決めろということだろう。
「では清水行くぞ」
これは織田の異能によって描かれた理想であり未来から生み出された言葉。
一瞬の隙を見つけた織田は紫琴を連れて一気に隣の倉庫へ移る。
言葉に込められた意味を理解した紫琴は深く頷いた。
それを見た織田は少し本当に少しだけ口角を上げたのを紫琴は見た。
では、逃避行の続きを…と思うだろうがその場には数知れぬ怨念が漂っている。
その怨念から導かれ正体を晒したのが悪魔。
悪魔とは神出鬼没。
いつ何処から現れるのか誰も分からない。
譬え、"5秒以上6秒未満の未来を予知できる人間"でも例外なく。
そうだな…。現実味を帯びる為に表すのだとしたら、未来予知者にも分からない人間。
この世界の言葉を使うならば、未来予知の異能が通用しない人間。
友人である織田でさえ分からないあの男の行動。
それは未来予知という異能が男に効かなかったから。それよりも、彼自身何を考えているのかが理解できないから。
「おーい、織田作ぅー」
丁度一歩踏み出そうとした所に響いた紫琴にとって煩わしいこの上ない声。
まるで謀ったかのような。
そして、何より織田にとって起こって欲しくなかった出来事だ。
「居るんだろー?隠れてないでー…早く出てきなよ」
その声色から憤りを感じて居るのは明白だ。
ちらっと織田は紫琴を横目に見た。
急速にまたよじ登って来た恐怖という怪物。
紫琴の顔は再び恐怖という怪物に押し負けた。
嗚呼、最悪だ。