太宰さんと別れて家に帰ったあとも、結局深い睡眠は得られないまま、起きて鏡を見ると目の下にはひどいくまが出来ていた。
(こんな顔、中原さんには見せられない)
ちょうど最近買ったコンシーラーが優秀だったことを思い出し、あれで隠してしまおうと思えば気が少し楽になった。どんなにひどいくまでも綺麗に隠してしまうのだからメイクはすごい。好きな人にさえ「素顔」なんて見せられないんだ、と自嘲して顔を洗った。
食事は夕方からだと言うのに、どうもそわそわしてしまい落ち着くことはできなかった。せっかくの休日だというのに、人の顔を見たくなくて自室でぼんやりと寝転ぶ。着ていく服も、アクセサリーもすでに決めた。あとは心の準備さえつけばいいのに、それがいつまでもできないでいる。昼寝でもしようか、と目を瞑った途端に、携帯の着信音が鳴った。送信元は――
「……嘘、」
私をポートマフィアに送り込んだ――そしてつい最近壊滅状態になったはずの――組織のボスからだ。
体が震える。思い出したくなかった。自分が、本当はポートマフィアの一員ではないことを。ボロ雑巾のように扱われ、無理矢理に異能を使わされ、傷ついていった自分の体を。目の前で冷たくなった、救えなかった人のことを。
それでも電話に出ないわけにはいかなかった。
「はい、みょうじです」
「お前、生きていたのか。なぜ連絡を寄越さなかった」
「……それは、」
「まあいい。マフィア内で聞いているかもしれんが、俺らはもう終わりだ。ポートマフィアの中原、あの化け物に何人殺されたかわからねえ。なんとか俺と幹部の一部が命からがら逃げきったが、今の拠点もいつ奴らに嗅ぎつかれるか。その前に遠くへ逃げるしかない」
しかしだ、とボスは続けた。
「最後にやりたいことがある。いいか、これは命令だ」
そして告げられた言葉は、ひどく残酷なものだった。
「中原中也を、殺せ」
******
あのあと、どうやって自分が支度をしたのかわからない。それでも気づけば向かいには中原さんがいて、ワイングラスを傾けて乾杯をしていた。
「中原さんってワインに詳しいですよね」
「そうだな。いつか家にワインセラーを買うのもいいなと思ってる」
「自宅にワインセラー……?」
そんな中原さんおすすめのワインなのだから美味しくないわけがない。手に持ったグラスの中で、透き通った赤い液体が揺れた。照明が反射してきらめく。目の前には、ひそかに想う相手がいる。信じられない光景だ。
楽しい時間はあっという間で、コース料理も気づけばデザートが運ばれていた。
「そういえば、太宰さんは数日前から行方不明なんでしたっけ」
「あの青鯖野郎のことだからどうせまた自殺でもしているんだろ」
「中原さんでも太宰さんの居場所ご存知ないんですか」
「あいつの行く先なんて知るかよ、俺としては太宰の野郎が遺体で発見されれば万々歳だぜ」
太宰さんのことだから本当に自殺に成功するのか、甚だ信じられないが、中原さんの声は突然に不機嫌になった。二人はそこまで仲が悪かっただろうか。それでも、平常より少し低い中原さんの声もかっこいいと思ってしまう自分は末期だ。
******
店を出ると、夜風が少し肌寒かった。
「送るから車乗れ」
「え、いいんですか」
「当たり前だろ」
ほら、と中原さんが助手席のドアを開けた。ありがとうございます、と車に乗り込むと、中原さんの香水の香りが仄かに鼻孔をかすめた。ずっと遠く感じられた中原さんとの距離が、急にすぐ指先にまで近づいた気がして、心拍数が上がる。気を落ち着かせるために、すうと息を吸って再び吐いた。
ヨコハマの街が真に美しくなるのは夜だ。サイドミラーに移り込む大観覧車を眺めてそう思った。ビルの明かり、暖色に灯る港、ゆるやかに回りながら色鮮やかに輝く観覧車。その煌めきの影に潜んでいるのが裏社会の闇だ。昼間の電話の内容を思い出してまた溜め息が出た。能力の差から考えて、私が中原さんを殺せるわけがない。返り討ちに合えば私の命はないだろう。だからといって、暗殺を実行しないと未だ組織の監視下にある私の両親の命はないと脅された。そうなれば私はただ、命令に従うしかない。
「……結局、」
中原さんがぽつりと呟いた。
「みょうじが悩んでることはこんな気まぐれじゃ解消できないんだな」
「そんな、今日楽しかったです、すごく」
「いま深い溜め息ついただろ。食事中もどこか上の空に見えたぜ」
「……それは、」
「言いたくないことなら言わなくていい。ただ、俺が知りたいんだ」
我儘だよな、そう言って中原さんの瞳が私を捉えた。
言えることなら言いたい。異能のこと、組織のこと、中原さんを殺さなければいけないこと、そんなこと出来るはずがないこと。そんなの言えるはずがないのに。
車はもう私の自宅のマンション前まで来ていた。
「中原さん、今日はありがとうございました。本当に楽しかったです」
おやすみなさい、と車のドアを開け、体を横に向けたそのとき、中原さんが私の右手首を掴んだ。
「……好きだ」
だから、行くな。静かに発せられた声は、夜の街の中に溶けて沈んだ。