仕事終わり、なんとなくあの閉塞感に包まれた家に帰りたくなくて、ふらりと山下公園に立ち寄った。広大な海を目の前に、ベンチに座ってぼんやり明日のことを考える。明日、だ。中原さんと食事。約束したその日の夜に送られたメールによると、どうやらそこそこ良いレストランに連れて行ってくれるらしい。嬉しいのか苦しいのか、よくわからない感情がごちゃまぜになって、自分でもどうしたいのかわからなかった。中原さんと一緒に時間を過ごせるのはとてつもなく嬉しい。でも、中原さんの前でどう振舞えばいいのかわからなくて不安に思ってしまう自分もいる。何か粗相をして嫌われたらどうしよう。そんなの杞憂かもしれないのに、そう考えずにはいられない。
 面倒くさいなあ、私。
 そう一蹴りして、遠くに浮かぶ船を眺めた。潮臭い風に煽られた髪が顔に当たってくすぐったい。空はだいぶ暗くなっていて、みなとみらいの夜景が灯り始めていた。
 『面倒くさい』と自覚しても、何かが変わるわけじゃない。組織からの連絡は未だ来ないし、私は約束通り明日中原さんと食事に行く。そろそろ、覚悟を決めなくちゃいけない。すうと冷たい空気を吸いこんだその時だった。

「やあ、なまえちゃん。奇遇だね」

相変わらず痛々しく包帯を巻いた太宰さんがそこにいた。
「……私、太宰さんと会ったときって半分は奇遇なんかじゃないと思ってますよ」
「それは手厳しい。確かに今日は少し話があって来たのだよ」
隣失礼、と太宰さんがベンチに腰かけた。太宰さんの柔らかな髪がふわふわと風に舞う。それさえも絵になるのだから、世の中不公平だ。
「何、見惚れた?」
にやにやとこちらを見る太宰さんに、ふと我に返る。
「絵になるなとは思いましたけど、私、太宰さんに変な感情抱いてませんから」
「えー、つまらないの」
大げさに肩をすくめられた。つまらない、と言われたって困る。
「私は太宰さんの遊び道具じゃありません!」
「ああ、そうだね。それになまえちゃんの心は中也一直線だもんね」
「ッ、あっ、げほ、噎せた、」
げほげほ咳をする私に、太宰さんが苦笑しながら背中をさすってくれた。大丈夫?と言う彼に貴方のせいですという意味をこめてこっそり睨む。
「それで?何か進展はあったのかい?」
「けほっ、うーん……なくはないですけど、」
言うのは少し憚られる、そう続けようとした矢先。
「まあ、どうせ中也がなまえちゃんを食事にでも誘ったんだろうけど」
「なんでわかるんですか!?」
「なんでって、今日の任務中、中也がずっとにやにやしていて気持ち悪かったから」
「は、はあ……」
何ともなしに事のあらましを暴いた太宰さんが末恐ろしい。
「で、どうなんだい?」
ずいと迫られては答えるしかない。観念して口を開いた。
「明日、中也さんと食事に行くことになりました……」
「へーえ!良かったじゃないか!おめでとう」
声のトーンが少し上がる太宰さんとは対照的に、私は困ったように笑うことしか出来なかった。

「やっぱり、喜ぶべきですよね」

スカートの上に置かれた自分のてのひらを見つめる。気がつけば辺りは夜の気配に包まれていた。
「その言い方だと嬉しくないのかな」
「違うんです!嬉しいはずなんです!」
それは嘘じゃない。決して嘘ではない。
「ただ、」
「ただ?」
「最近の中原さんがわからなくて……、」
 そっと、目の前で静かに波音を立てる海と遠くに浮かぶ船に視線をやった。あの日からずっと抱えていた感情を、自分でも咀嚼しきれないまま羅列していく。
「以前にも増して優しいというか、車で送ってくれたり、スキンシップが増えたり……。その度にときめいちゃうんです。どこかで期待してしまう自分がいるんです。でも、もしそれが私の見当違いだったら、とか、そもそも私じゃ中原さんに釣り合わない、とか、自己防衛してしまうんです。そんな自分が情けなくて、どうして私はこういうときに素直に喜べる女の子じゃないんだろうって、どんどん嫌になっていくんです」
 水平線近くでチカチカと光を放つ漁船が、やけにピントがずれたように見えた。こうしていざ気持ちを形にしてみれば、いかに自分が小さい人間なのかが垣間見えるようで、また落ち込んでしまう。何層にも重なった負の無限ループだ。

「……なまえちゃんは臆病なんだね」
ぽつんと、静かに太宰さんが放った言葉が木霊した。臆病。そう、私は臆病な人間だ。

「でも、中也はなまえちゃんが思っているほど器の小さい男じゃないよ。こうして褒めてあげるのは癪に障るけどーー少なくともなまえちゃんに対してはね。そもそも中也は気に入らない人間をわざわざ食事になんか誘わない」
「それは……そう言われても困ります。また期待しちゃう」
「じゃあその期待の波に乗ってしまえばいい。私が保証する」
それに、と太宰さんは続けた。
「万が一なまえちゃんが中也に泣かされるなんてことがあったら、そのときは私が攫ってあげるよ」
どうだ!と言わんばかりのドヤ顔でキメてきたものだから、思わず笑いがこみ上げてきた。全く、喰えない人だ。
「そういうのは冗談じゃなくてちゃんと本当に好きな人に言ってやってくださいよ」
「えー、決まったと思ったのになあ。ときめかなかった?」
「今更ときめきません!!」

 そうしているうちに、ここ最近抱えていた黒いもやもやとした感情は幾何か消えていた。時計を見ればかなり時間が過ぎていた。

「もう寒いですし、そろそろお開きにしましょうか」
「そうだね」
ではまた、と挨拶をして別れる。太宰さんは恐らく本部ビルへ。私は自宅へ。
一つ引っかかることを思い出したのは、山下公園を出てしばらく歩いた頃だった。
(……そういえば、太宰さんが最初に言っていた『話』って何だったんだろう?)




「マフィアを抜ける前に、最後に君と話をしたかったと言ったら君はどういう顔をしたんだろうね」
 同じ頃、太宰さんが小さく独り言を漏らしていたのを、私が知ることはなかった。



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