絶え間なく蝉の鳴き声が聞こえる。短い命を振り絞るようなしゃがれた鳴き声が重なって、生ぬるい空気が音で飽和される。喧騒を振り払おうと首を振っても、鼓膜から夏の響きは消えない。この夏からは逃れられない。
 夏という言葉の裏には人それぞれの思い出や戻れない過去や青春の輝きが渦巻いていて、だから夏という季節は毒々しいんだよ、と漫画の登場人物が言っていた。もしそれが本当なら、私の夏はただの無だ。何も纏っていない、裸の夏だ。
 だって、私には記憶なんてものがないから。


 目が覚めたときは悲惨だった。知らない場所の知らないベッドで知らない男(しかも黒スーツを着た強面のおっさん)に監視された状態で、私は昏睡状態から意識が戻った。わけがわからない状態に軽い過呼吸に陥ったくらいだ。そうして部屋に入ってきた綺麗なお姉さんに名前を呼ばれるも、その名前が全くもって聞き覚えのない名前だったからさらに驚いた。記憶喪失なんてドラマや映画、その他フィクションの世界の中の話だと思っていたのに、私は自分のこれまで生きた人生の記憶をごっそり失ってしまったらしい。
 ヨコハマを牛耳るポートマフィア暗殺部隊所属、みょうじなまえ。それが私だと、お姉さん――もとい、尾崎紅葉さんは教えてくれた。仕事中に重傷を負い、ここ数日はずっと意識が戻らなかったらしい。暗殺、と紅葉さんの口からいとも簡単に発せられた言葉に気が遠くなった。今の私には殺しを犯した記憶すらないというのに、どうして自分のことを人殺しだと認識しなくてはならないのだろう。
やっとのことで呼吸を落ち着かせた私に、紅葉さんは優しく言った。
「首領には私から伝えておこう。今は暫し、休め。なまえや」



 それからリハビリを経て、体の方は全快となった矢先に、ポートマフィア構成員という例の強面のおっさんから首領とやらが私のことを呼んでいると聞いた。ついに来てしまった、と思った。暗殺者でも何でもないただの小娘となってしまった私はどうなるのだろうか。海に沈められてもおかしくない。
そんな状態で今、ついてきてくださいと言われるがまま強面のおっさんの後ろを歩いている。そもそも私に対して敬語でいいのか、おっさん。マフィアでの私の階級は一体どうなっているんだ。
広い廊下をずっと歩くと、大きな昇降機(エレベーター)が現れた。ここから先はお一人で。そう言われてしまったので一人で乗り込み最上階のボタンを押すと、昇降機はぐんぐんと空に向かって駆け上った。ガラス窓超しにヨコハマの夜景が視界に飛び込む。ライトアップされた観覧車やビル、橋。一見穏やかに見える港街の風景に、ここがマフィアの蔓延る都市だということを忘れそうになった。
 昇降機のベルが目的地に辿り着いたことを告げた。廊下に出るとひんやりとした空気に体が包まれる。震える膝を隠せないまま、豪勢な扉を控えめにノックした。
「入りたまえ」
 薄暗い部屋には長テーブルが待ち構えていて、その奥にポートマフィアを束ねているという男がいた。纏っている白衣が闇の中に浮かび上がって見えるのがやけに不気味だ。
「……怪我の方は万全かい?」
発せられた声が想像以上に穏やかで、私は拍子抜けしてしまった。
「はい、おかげさまで」
「そうかい、それは良かった。それで、記憶がないというのは本当かな?」
「はい。自分が何者なのか、今までどうやって生きてきたのか、何もかも覚えていません」
「そうか……」
 やはり使えない組織の人間はゴミのように処分されるしかないのだろうか。それは勘弁していただきたい。急に湧いて出てきた生への執着。まだ死にたくない。必死の思いで唾を飲み込んだ。

「よし。君、今日から夏季休業に入っていいよ」
「……いま何と?」
「だから、夏休み。有給休暇が貯まっていただろう。それ全部消化したまえ、折角だから」
「マフィアにも有給あるんですか」
「それだけ君が組織に貢献をしていたということだ。ずっと仕事一筋だったからね。たまにはゆっくり休みなさい」

 そんなにバリバリ活動していた暗殺者だったのか、自分。ますます記憶を失くす前の自分がよくわからなくなった。とりあえず、海に沈められなくて良かったと胸をなでおろした。

 こうして私の夏休みは幕を開けたのだった。



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