私が目覚めたときにいた場所はポートマフィア管轄の病院である、ということは聞いていたが、自宅があることは知らなかった。というより、考えもしていなかった。首領から「家まで送ってくれる人を用意しといたから」と言われ、馬鹿みたいに背の高いマフィア本部のビルを出ると、黒いコートを肩からかけ帽子を被った小柄な男が煙草を吸いながら黒い車の前に立っていた。

「おい、 」
 帽子の男が口を開いた。
「記憶がないって本当か。本当に俺のことがわからないのか」
「……すみません、存じ上げないです」

 男は舌打ちをすると、煙草を仕舞い車のドアを開けた。乗れ、ということらしい。
「送ってくれるんですか」
「首領命令だからしょうがねェ。紅葉の姐さんからもよろしく頼むと言われているしな。俺は中原中也。ポートマフィア幹部の一人だ」

 どうやら首領の言っていた人物はこの中原さんという男のことらしい。幹部という地位の高さに驚いたがほかにどうしようもないので、お願いしますと一礼して車に乗り込んだ。黒いシートの車内は清潔で、ほんの少しの煙草の匂いと中原さんがつけているであろう香水の香りがした。

 運転席に乗り込んだ中原さんがアクセルを踏み、車は夜の街へと発進した。洒落たジャズ音楽が車内に流れる。Fly Me To The Moon。私を月に連れて行って。

「なあ」
「っ、何でしょう」
急に声をかけられ上ずった声が出た。中原さんにくつくつと笑われ、羞恥で顔が赤くなるのを感じた。

「なまえとは付き合いが長くてよォ、敬語を使われるとむずがゆくてならねえ」
「私にとっては初対面なんですけど……」
「ああ、そうだったな。過去のお前と今のお前は別人みたいなもんか。悪い」

 運転する中原さんの手袋に覆われた指が、ハンドルの上で軽くリズムを刻む。街灯の光が前から後ろへ瞬時に去っていく。

 そう、記憶を失くす前の自分を、私は自分だと認識できないでいた。マフィアの暗殺者として活躍していた自分を自分だとは認めたくなかった。願わくば他人でいてほしかったし、実際の感覚は他人のようなものだった。

「元の私は、どんな人だったんですか」

 知りたいような知りたくないような、交錯した感情は好奇心に負けた。中原さんの指の動きが一瞬止まり、私と彼の間に流れる音楽がどこかへすり抜けていく感覚に陥った。

「……よく笑う奴だったぜ。昔はな」
「昔は?」
「暗殺の仕事がメインになるにつれて表情がなくなっていった」

 私という人物はピースが全くないパズルのようで、想像するにはまだ情報が少なすぎた。中原さんの台詞にはそうなんですかと返すことしかできず、それから暫く沈黙が続いた。

 車は閑静な住宅街に佇むマンションの前でゆるやかに動きを止めた。中原さんか手渡されたのは、ペンギンのマスコットがついた鍵だった。

「言っておくが俺が持っていた訳じゃねえぞ。お前が怪我を負ったときに持っていたものを医療班が回収していただけだ」
「あ、良かったです。合鍵を持っているような仲なのかとびっくりしちゃいました」
「おい誤解すんな」

 荒い口調とは裏腹にそんなに悪い人でもなさそうな中原さんにお礼を言って、自宅のはずである知らない家に帰った。服にほんのり中原さんの香水の香りが移ったような気がした。




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