シグナルはわかりづらい。

安直な嘘はやめましょう。のふたりっぽい。
※名前変換なし。





21時。
休日ではなかったけれど、お互い授業や任務がすんなりと終わって、久しぶりに平穏な夜。

ふたりでゆっくり過ごせそうだと分かってから、いつもの3倍のスピードで夕飯とお風呂を済ませて恵の部屋に駆け込んだ。
開口一番「廊下を走るなうるさい」って怒られたけど、口煩く言いながらもなんだかんだちゃんとドアまで来て迎え入れてくれる彼に口許がによによと弛む。

「おい聞いてんのか」

ハイ、すいません。



今日も今日とて無口な彼氏様はベッドの上で壁に背を預けて座って、かれこれ1時間近く静かに読書に勤しんでいる。
胡座の片膝を立てて、それを支えにしながら片手で文庫本のページを捲っているのを器用だなぁと眺める。
服はスウェットのゆるい上下なのにそれが様になっていて、横顔はものすごく美人だ。
恵が美人なのは通常運転で普段ならいくら眺めたって飽きないのに、今はなんだか妙に腹が立ってくる。だって女の私より美人だし。部屋着で美しいってなによそれ。

やるせない気持ちがむかむかと大きくなってくる。
原因は美人顔じゃないことくらいわかっているけれど、脳内で何かしら文句を垂れ流さなければやっていられないのだ。――口に出さずに脳内で留まるよう我慢しているのは、少しでもタイミングを間違えれば呆れられて雑に流されるか、正論で淡々と封じられるか、鬱陶しいから黙れと静かにキレられるか… いずれかの反応になるのが分かっているから。
――付き合う中で身につけた、彼女としての処世術ならぬ処"恵"術である。


…だからといってずっと黙っていられるかというと生憎それほど我慢強くない私。
1時間なんて相当耐えた方だ。うん、がんばった。

そろそろ声をかけたいのだけれど、なかなか本に集中しているようなのでとても躊躇われる。だって冷たい時の恵は本当に冷たいんだもの。

うじうじと言い訳を重ねながらもこの目は勝手に恵の一挙一動を追ってしまうし、気を紛らわせるためにスマートフォンで映画を観ようと思ってもまず作品を選ぶところから集中できない。


ええい!と半ばやけくそで伸ばした手は彼に届く寸前で躊躇って、握るには至らず。
シーツの上に置かれた手に、指先がちょん、と触れるところで限界だった。


ページを捲っていた綺麗な手がピタリと止まる。
けれどそれも一瞬のことで、すぐ定位置に戻った白い指がそれ以上違う動きをすることはなかった。


別に期待はしていなかったし、反応がなくたって今更何も思わない。
文庫本の底面を支える大きな掌を眺めながら、最近慣れつつあるシチュエーションに心の中で溜息をついて彼へのアプローチを諦める。
――ほんの少しだけ苦しくなる胸と、爪の先だけ触れている指はそのままで。



それから何分経っただろう。もしかしたら数十秒くらいしか経っていないのかもしれない。
――ふと右手に違和感。
そろりと視線だけで伺えば、恵の指が呆気なく離れていくところだった。
…あーあ、嫌がられちゃった。
そんなに嫌だったのかと思うと存外悲しくて、今日はもう部屋に戻ろうと左手のスマホをポケットに仕舞った――その時。

するりと指先を絡め捕られて、大袈裟なくらい肩が跳ねた。

それが一度離れたはずの彼の指だと気づいたとき、私の身体は氷漬けになったみたいに硬直して、それなのに全部の神経が右手に集まったかというほど恐ろしく感覚が鋭敏になっていた。

恋人繋ぎをする直前のような互いの五指が緩く組み合わさった絡め方は、どこにも疚しさなんてないはずなのに目を逸らしたくなるほど色っぽくて。
指の付け根、水掻きの部分をわざと擦るように掠めていく、その感覚だけで快楽を拾いそうになる。
無意識に息が詰まってしまうから浅く空気を吐き出したけれど、吐息は思っていたよりも熱くて。その事実がぞくぞくと背筋を震わせた。


恵の指から目を離せないでいると、その真っ直ぐで綺麗な中指が とん、と軽く甲を叩いた。

催眠術にかかったらこうなるんだろうか、と頭の片隅に欠片だけ残った冷静な部分で考えていると、続けて同じ刺激がやってくる。
とん 、とん 、と落ち着いた一定のリズムで繰り返されるそれは私の神経を解放してはくれないらしい。ドキドキ鳴る心臓がうるさいのにどうしても逃げられない。

一度指が触れて、離れる。
無意識に数えていたらしい。それは5つでぴたりと止んだ。
あれ?と思っているうちに恵の手はまたシーツの上に落ちていた。

無表情な顔からは何も読み取れない。
甘えるでも突き放すでもない不思議な彼の行動に、私は部屋に帰ることなんてすっかり忘れてその場に立ちすくんでいた。


手の甲を叩く。指で叩く。…そんな癖や合図はなかったはず。
じゃあ無意味に気まぐれで触れただけ?
いやいや… 真面目なくせに案外面倒くさがりな恵はたとえ私とふたりきりでも無意味な行動はほとんどしない。ふざけたり揶揄ったりすることはあるけど、そういう時は彼の雰囲気で分かる。
…意味がある?本当に?


とん 、 とん 、 とん 、 とん 、 とん ――

少し体温が低くて硬い指先。
ついさっきの感覚を反芻していると急に、 ぱちん。脳裏で言葉が弾けた。


思わず恵を見る。勢いよく振り向いたせいで首が痛いけど今はそんなことじゃなくて――、

ちらりと一瞬だけ私に目を向けた彼は何も言わず読書を続けるという非道っぷり。けれど形の良い唇、その口角が微かに上がっている。
それを認めた途端、ぶわっと全身が熱くなって背中にじわりと汗が滲んだ。

「めぐ、めぐみ…?」
「なんだ」
「私も!!…ッあの、……ぁ、あい、してる……よ…?」

頭の中で弾けた言葉が堪えきれなくなって叫ぶように切り出した。
緊張しすぎて吃ったし無意味に疑問形になったし、後悔するけれどもう遅い。 目をぎゅっと瞑って耐える。

――ああもう、もう、無理。無理無理、恥ずかしい。
これで勘違いだったらさらに恥ずかしいし、今すぐ死んでしまいそうなくらい身体中が熱い。
ねぇ、なんか答えてよお願いだから――。

「くっ……ふ、」
「へ…?」
「…悪かった、流石に構わなすぎた」

喉の奥で笑う声が聞こえてぱっと目を開けると、可笑しそうに片目を眇める恵がいた。
続く謝罪も申し訳なさそうにしながら、結局は笑い交じりになっていく。

「まさか私が見てたの、きっ、気づいて…!」
「当たり前だろ馬鹿。あんなの気づかない方が難しいぞ」
「だって今日ずっと本読んでたじゃない!!」
「何も言われてねえからな」
「ひどい…!」

気づいてたくせに無視してたなんて。声くらい掛けてくれたっていいのに!
あんなに悶々と悩んだ自分が馬鹿みたいで、はぁっと大きなため息がこぼれてしまう。いや、文字通り馬鹿って言われたけども…。


「で?」
「ん?」
「誰が誰を愛してるって?」
「だ、っ……ちがう、違うから!!」
「なにが違ぇんだよ」

いや違くないけど。確かに言ったけども。あれはあたしから言ったわけじゃなくてその、恵が突然あんなことするからで、だから、えっと――、

「恵が先にしたんじゃない!」
「なにを?」
「なにをって…指、とんとんって…!」
「とんとんって?触っただけだろ?」
「5回、したからっ!いつもあんなことしないし、その…そういう意味かと思ったの!」
「ふーん?」

この期に及んでようやっと本を閉じた恵は私がどんなに必死に弁解しても追及してきて、これでもかってくらい意地悪な顔でこっちを覗き込んでくる。ああその目と表情も好き… って、そうじゃなくて――
顔から火が出そうで必死に反らすけれど、たぶん耳まで赤くなっているから意味がないんだろう。恵は自分の美人顔の使いどころを分かってやってると思う。だって心底楽しそうだもの。

「も、むり…かえる…」

結局キャパオーバーした私は、目の前の―性格の悪さ全開な―端正な顔にこれ以上接近されたら心臓が止まると判断して、やっとの思いで踵を返した
………はずだった。


緩く掴まれた手首。その内側を柔らかくなぞる指。
5回の合図は、今度こそ明確な共通認識の下で。
――ああもう、


「帰す気、ないでしょ」


白々しく無表情に戻った恵は、無言で舌を べ、と出した。
わかりづらくて素直じゃない彼に、私はいつになったら敵うんだろうか。



――まぁ、放っておかれてさみしい って言えない私も、大概素直じゃないんだけどね。




いつも脳内忙しい彼女ちゃんと、そっけなく見えてめっちゃ可愛がるし甘える伏黒くん。