加州清光の誓い
「おかえりなさいませ!皆々様方、お怪我は・・・」
「・・・ちょっと、一人にさせて」
本丸に帰ってすぐ、迎えてくれた鳴狐のお供の狐がいつもの口上を途中で途切れさせる。
本体のほうも目を見開いていて、いかに自分たちが・・・いや、自分が、普段と様子が違うかを実感させられた。
演練で初めて奴の―――修一の部隊に負けたときと同じか、それ以上の悔しさ。
手のひらに爪が食い込み、そういえば出陣前に切っていなかったとどこか冷静な頭が考え、それもすぐにどこかへと消えていく。
ギリリ、
口の中で鳴る音が、頭蓋を伝って直接脳へと響く。
屈辱―――。・・・そうだ、この言葉が一番近い。
どすどすと、自分でもうるさいと思うくらいに足音高く廊下を歩く。
早く、自室に逃げ込んで。この不快感を何とかしないと。他の誰かに、無為に当たってしまう前に。
スパン!と部屋の障子を閉めて、本体を定位置に戻し・・・その目の前に、ドサリと座り込む。
そのまま片膝に額を当てて、両腕で顔を隠すように頭を包み。
これまで耐えてきた、そして今、どうしても耐えきれなくなった耐えきれなかった一言が、とうとう口からぽろりと落ちた。
「・・・もうヤダ・・・」
嫌なのは、当然べにを育てることではない。
けれど、修一と遭遇して、いいように言われてしまうことでも、ない。
修一から言われたことに対して、はっきりと自信をもって言い返すことができないことが、嫌なのだ。
経験不足、知識不足。はっきりと言い返せない自分が、あまりにも腹立たしくて。
『こんなことで、本当に大丈夫なの?』
普段心の中でしっかり蓋をして仕舞い込んでいる思いが、のそりと顔を出す。
何か言われるたびに自分の至らないところが浮き彫りになって、自分に信用がおけなくなる。
嫌だ。
こんな奴が、べにを育てていることが、嫌で嫌でたまらない。
・・・そして、思うのだ。
べにを育てるのはやはり、人間に任せたほうがいいのではないか。
そうすれば、べには立派な人間に育つのではないか。
「・・・・・・、」
『そのほうがいい、』という理性と、『べにと離れたくない、』という感情が、ぐるぐると胸の中で渦を巻く。
気持ち悪くなってくるその感覚に、眉間に力が入っていくのがひどく鮮明に感じられた。
「・・・入ってこないでくれる?今、相手できる気分じゃないんだ」
廊下をそろそろとこちらに近づいてきていた気配が、静かに障子を開けたのがわかって声をかける。
・・・が、考えるように少し止まった気配が、その場を去る様子はない。
それどころか再び近付いてくる気配に、これ以上ないほどに眉間に皺が寄るのを感じた。
・・・これだけあからさまに機嫌が悪いって表現してるのに。
トン、と身体に触れた感覚に、何を考える余裕もなくその手を振り払った。
「・・・っるさいな!一人に、してっ、て・・・」
「・・・・・・きー・・・?」
背後に居たのは、ほんの小さな影。
「あっ・・・」
その柔らかな頬に、一筋の赤い線。
「―――っ!!!!!!!!」
身体に力が満ちていくのがわかる。
爪が深く突き刺さったまま強制的に治されていく手のひらは、じくじくとした痛みを断続的に与えてくる。
・・・けれど“痛み”の元は、そこだけではない。
主の感情が揺れている。べにが、泣いている。
部屋を飛び出したときは、まだ泣いていなかった。きっと突然のことで、驚いて何も考えられなかったんだろう。かく言う自分がそうだったのだから。
けれど、落ち着いてみればこのざまだ。
主の悲しみが伝わってきて、その原因を作ったのが自分で。
―――・・・消えてしまいたい。
「・・・何、してんだよ。清光」
「・・・安定・・・?」
安定の声とともにザリ、と草履が地面を踏みしめる音が耳に入って、ここが本丸の外であることに気付く。
部屋を飛び出してから、いったいどうやってここに来たのか。まるで思い出せないことに少し驚いた。
靴も履いていないのにそれに気付かなかったのは、やはりこの、流れ込んでくる力が原因だろう。
出会った頃のような。強烈に流れ込んでくる力は、容赦なく身体の傷を治していく。
「べにが泣いてんの、わかってるだろ。何で行ってやらないんだよ」
「・・・俺、あの子の頬に・・・ケガ、させちゃったんだよ」
安定の眉がピクリと上がる。
安定にだって、力は流れ込んでいるはずだ。
この、胸を締め付けられるような力の根源が、“悲しい”という感情であることは、あの子とすごすようになってしばらくしてから知った。
“嬉しい”“楽しい”ときのあたたかく包まれるような力とはまるで違う、締め付けられるような、苦しく辛い力。
「行けるわけ、ない」
原因は、自分なのだ。
「俺、やっぱただの刀だ・・・。人を、育てる・・・なんて・・・、はなから、無理な話だったんだ・・・」
修一に言われたから、なんて理由じゃない。
「俺は、人を・・・、あの子を、傷つけちゃう・・・っ!」
「―――いいから来い!」
「っ!?」
突然グイッと腕を引っ張られて、引きずられるように走り出す。
「確かに、べにが泣いてる原因はお前だよ!」
「っ・・・」
「でもな、何とかできるのもお前だけなんだよ、馬鹿!」
振りほどこうとした腕が、思わず止まる。
何とかできるのは・・・って・・・どういうこと?
今はまだ泣いているようだけど、なだめ上手な鳴狐とか、遊び上手な秋田とか・・・
安定の言葉に戸惑っている間にも、身体は確実にべにへと近付いていく。
その事実は、耳に届いた彼女の声―――泣き声で、自ずと知れることだった。
「あ゛ぁーん!!ぁぎゃーあぁん!!」
「べ、べに様ぁ・・・!なっ、泣き止んでください・・・!」
「・・・・・・べに・・・」
秋田と鳴狐がおろおろと手をこまねいている。部屋には本丸中のみんなが揃っていて、けれど誰もが困ったようにべにに近づかない。
みんなに囲まれる中で、べには火が付いたように泣きじゃくっていて。
「あ゛っ、あぁっ、ぶ、ぅえ、ん゛っ、・・・っあ゛ぁーーっ!!」
「っ・・・、」
横になっているべにに、駆け寄って抱き上げてやりたい。
「痛かったね、ごめんね、大丈夫、もう平気だよ」と、頭をなでて、涙を拭って。
そうしてこちらを不安げに見るべにに、安心させるように笑みを向けて。
そうしたらきっと、べにも笑顔で―――
「・・・・・・っ!」
俺にそんな資格がないことなんて、俺が一番よくわかってる。
俺が怪我をさせたんだ。俺が泣かせた。一体どんな顔して、べにと向き合えば・・・
「・・・誰が慰めても、身体を逸らせて突っぱねるんだ。こんなに癇癪起こすべに、初めて見た」
「あぁーん!!うぅえ、ふぁ、あ゛ぁーーー!!」
抱っこもできないんだよ、とため息をつく安定に、確かに、ここまでの大泣きは久しぶりに見たなと記憶を呼び起こす。
五虎退の仔虎の爪に引っかかれたときも大泣きしてはいたが、鳴狐に慰められてすぐに落ち着いていた。むしろ仔虎の爪は加州のそれよりよほど鋭かっただろうに、何で。
「きぃ〜・・・ひっく・・・・・・きぃ〜・・・!あ゛ぁーーーん!!!」
『きぃ』
脳裏に蘇る、自分を呼ぶ、主の声。
ただそれだけ。その、一言で。
「・・・・・・っ・・・!!」
呼吸が止まるような感覚に。鼻が詰まる、感覚に。
「・・・・・・俺・・・っ、・・・・・・愛されて、る・・・?」
チッ、と舌打ちが聞こえてすぐ、ドン、と背中を押されてふらりと一歩踏み出す。
振りむけば、安定が睨みながらも顎でくい、とべにを指していて。
「・・・・・・、べに・・・?」
恐る恐る、名前を呼ぶ。
思った以上に情けない音は、べにの泣き声にかき消されて。
―――かき消された、はずなのに。
ピタリと泣き止んだべにが、顔をこちらに向ける。
ひっく、ひっくと喉をひくつかせながらも、しっかりとかち合った瞳に気圧されるのも一瞬。
「きぃー!あーっん、ひっく、あぁーん!」
泣いている。けど、さっきまでの泣き方とは、全く違う。
甘えるような泣き方に。ばたつかせていた手足を器用に使ってうつぶせになり、ハイハイで近付いてくるべにに。
身体は自然と、べにを抱き上げる形に動いていた。
「あぁーん、ふぁーん!」
ぎゅう、と襟巻を握りしめる小さな手。涙は出ているのに、こちらの反応を伺うようにじっと見つめてくる瞳。
―――・・・こちらまで涙が出てくるのは、何故なんだろう。
「・・・これでもまださっきみたいなこと聞くようなら、ぶっ飛ばすからな」
身体が自然とべにをなだめるように小さく揺れ動いて、泣き疲れたべにが襟巻にうずもれながら眠ったころ。安定が不細工な顔で「僕らみんな、無理だったんだから」と続ける。
集まったみんなの顔を見れば、そろって困ったような、でもほっとしたような表情をしていて。
―――愛しい、と。
腕の中で眠る存在を、ただ、愛しいと。
叫ぶ心に、これが“愛情”というものなのか、と。ストンと納得する。
それと同時に。
―――どんな理由をつけたところで。大義名分を掲げられたところで。
この子からは決して、離れないと。
捕まった―――逃げられない感覚に、ただ、べにを抱きしめた。
小さな主。
君をいつまでも見守り続けると、誓うよ。
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第一部 完
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