きっと夢を見ているんだと思う。
だって、先輩が私の目の前にいるはずなんてなくって、もう一度私に笑いかけてくれるなんて虚像で、どうしようもない羨望。桜に映える黒の髪。夏の太陽もかくやというほどに焦がされた笑顔。秋風で揺れ、そっと触れた存外角張った手の甲。白く染まった息に「もう冬だね」って遠くを見つめた春を待つ横顔。記憶の中に閉じ込めて、傷つかないようにしまっていた。大切に、大切に。思い出と銘打って過去のものと消し去ろうとしてた。
「春ちゃ……春宮。今暇か?紹介したいやつがいんだけど」
「ロウくん?紹介って、今度一緒にデビューする…」
「……ユキ?」
騒がしいはずの廊下でその言葉だけが空間に切り取られたかのようにやけに響いた懐かしい声に、まさかと肩が揺れた。まるでラムネ瓶に詰め込まれたような声をしていると思う。瞬間的な刺激と、手を伸ばさざる負えないその声を忘れられるわけなんかなかった。どれだけ忘れようと藻掻いても、青い春の根幹を握りしめたその声は忘れようとするほどに色濃く刻み込まれていたと思う。逃げ出したい衝動に駆られた。昔みたいに、すべてを投げ出して。そんな逡巡を待つことはなく、ロウくんの背からは無慈悲にも黒の髪がさらりと覗いた。次いで特徴的な緑のメッシュが揺れる。そこには、少しだけ大人になった先輩がいた。大きな瞳を零れ落としそうなくらいに見開いて、お化けでも見たみたいな顔をする。どっちが、お化けだって言うんですか。街中に影ばかりを残して、大型ヴィジョンで知らない服を着たみんなのスーパーヒーローの姿をするあなたが。
胸の奥底から燻り続けていた感情へ、ふいに風が舞い込んだ。あの頃の、春風が頬を撫でるような柔らかい風にほんの少し吹かれただけで崩される覚悟に、あんなもの全部建前の虚勢だったと思い知らされた。ああ、もう。かないっこない。先輩にはあの頃からもうずっと。
「久しぶりだね。ユキ。あんまり変わってない」
「せん、ぱい」
先輩は変わりましたね、なんて言葉は飲み込んだ。制服以外の服に身を包んだあなたは初めて見たし、そんなにも大人の顔をしたあなたも初めて見た。先輩は今、どんな顔をしていますか。目なんか合わせられない。それをしてしまったらもう、戻れなくなる。そういう確信を心臓の速さが証明していた。こんな酷いことするなら、せめて再会はもう少し劇的なものでも良かったんじゃないの。それなら運命と勘違いして、相応の報いを受けられるはずで、少なくともこんな曖昧な結末にはならなかったはずなのに。喉奥から言葉にならない声が滲んで、無様に息を吐いた。これは逃げ続けた過去への報いなんだろうか。過去に犯した贖罪を、先輩自ら正しに来たのだろうか。
一歩、境界線を踏み越えるように先輩の足先が床を見つめる視界に映り込む。視線がつむじに注がれていた。それでも頭を上げようとしない先輩は仕方がないとでも言いたげにひとつ溜息をつく。
「ね、ユキ。顔上げて?」
その柔らかな声でもう駄目だった。先輩の前では覚悟なんか紙切れで、手元に迫ったマッチみたいなもの。ゆっくりと首を持ち上げた。そうしてしまえばどうなるかなんてわかっていたのに。もしかしたら性懲りもなく期待、してたのかもしれない。
ぱちり、先輩の瞳と目が合って。瞬間、蜂蜜みたいに蕩けた。なにひとつ変わってなかった。あの頃注がれていた視線は、ひとつも。…あぁ、やっぱり駄目だ。先輩の輝きに魅せられてしまう。目を焼く一等星に逆らうことなんてできない。大きな瞳いっぱいに映る私の目は潤んでいて、それを先輩は満足気に見つめた。怒って、るのかな。一方的に突き放した私のこと、怒ってないわけないのに遠く離したはずの距離を縮めたのは先輩の方だった。優しく、大切なものを見るみたいな目で私を見つめた。
近づいて、遠ざかって。寄せては返す波のように不安定な私達を"何"としたらいいんだろう。
「春宮と知り合いだったのか?」
「高校の後輩。びっくりしたよ。まさかこんなとこで会えるなんて」
「わ、たしも驚きました。センパイとまた会えるなんて」
「もう先輩じゃないよ。オレは伊波ライでしょ?同僚なんだからライって呼んでよ」
手を差し伸ばした先輩に胸の中の蟠りがすとんと腑に落ちた。そっか、何とするもなにも、私達には何もなかった。高校時代の先輩。同僚。それほどの繋がりしか私達には存在しない。私はこれから、伊波ライの後輩のにじさんじ所属Vtuber春宮ユキを全うすればいいんだ。うぬぼれちゃ駄目。そう、あの頃と何も変わらない。
「ライ?」
「そうライだよ。またよろしくねユキ」
「うん。よろしくおねがい、します」
触れた手の熱さには気づかないふりをした。私のかどうかすら、わかんなかったし。
ねえ、センパイ。もう一度だけ、私と。