臆病
 出張からの帰り道、名前への土産を渡そうと思って彼女の家に向かっていた。
 その道のりでふと、立ち止まる。空はもうすっかり薄暗くなっている。土産を片手に時刻を確認すれば、もう5時だ。そろそろ電車を降りる頃かも知れない。どうせなら電車で待ち伏せさせて貰おうと、名前の家から近い最寄駅にルートを変更した。それで名前と少しでも長く一緒に居られるのなら、万々歳だからね。

「!」

 すると、視線の先で俯きながら覚束ない足取りで居酒屋に入る名前の姿が、微かに見えた。遠い距離でも分かる、彼女の姿だけは。彼女を見つけ出すのは僕の得意分野と言っても過言ではない。例え入念に変装をしていたって気付く自信はある。名前であれば。……と、話は逸れてしまったが、あの様子だと何かあったに違いない。そう思ったら居ても立っても居られなくなり、慌てて名前が入った居酒屋に向かった。


「らいしょうっ(大将)、もう一杯っ!」

 どこかの酔っ払いみたいに、呂律すら回らなくなっている名前の姿が真っ先に視界に入った。……まったく。僕と同じで下戸なくせに慣れないお酒なんか呑んで、みっともない。
 僕は深い溜息を吐き出し、名前にゆっくり近付いていく。

「もうその辺にしときなよ」

 カウンターで伏せている名前が、手探りでお酒を掴もうとしていた腕を、ガシッと掴んだ。

「……!さとるぅ、どうしてここに、」
「どうしてじゃない。説明は後。もう帰るよ」

 潤んだ瞳で僕を見上げる名前に、腹の中でどす黒い何かが渦巻く。こんな姿、誰にも見せたくない。大将にお金を払い、"釣りは要らない"と言って名前を自分の背中に背負った。


 春の心地良い風が、僕らを包み込む。
 大人しく僕に背負われている名前の規則正しい寝息が耳に流れ込み、思わず口元が綻んだ。出張先の京都での土産は、名前の好物である抹茶のバームクーヘン。喜ぶ顔が見たくて買ってきたんだけど。また明日にでも、食べて貰えばいっか。
 そんな風に考えていると、名前の住むアパートが見えてきた。


**


 不本意ながらも、気持ち良さそうに眠る名前を起こすまいと、名前の鞄の中を漁って鍵を取り出す。それから玄関のドアを開けて、名前の靴と自分の靴を脱ぎ捨てて寝室に向かう。相変わらずシンプルな部屋だなと思いながら、名前をベッドに寝かせた。

「悟……」
「!」

 ベッドの端で腰を下ろして名前の髪を撫でていると、咄嗟に瞼を開けた名前の綺麗な瞳と視線がカチ合う。ふいに名前を呼ばれたかと思えば、名前の手が伸びてきて僕の頬に優しく触れた。

「抱いて、悟」
「!!……名前、何言って、」
「お願い」

 とても平常心ではいられそうにもなかった。
 部屋のドアを開けたままだったせいか、廊下から漏れた電気の灯りで映し出された名前の表情は、仄かに頬が赤く染まっていて目はトロンと潤んでいる。物欲しそうに僕を見つめる名前に、心臓が跳ね上がるのが分かった。

 こんな状況で、そんな言葉を好きな女に言われて、耐えられる男なんているのだろうか。…僕は耐えられそうにもない。
 理性が音を立てて、崩れていくのを感じた。

「誘ったのは、名前だからね」

 もういい大人だというのに、好きな女に対しては理性も簡単に崩れてしまう。
 素早く名前の上に跨った僕は、名前の両手をベッドに縫い付ける。

「……好きだよ、名前」
「!」

 鼻と鼻が触れそうな距離で、溢れ出した想いを告げた。
 こんな酔っ払っている時に言うなんて、僕は狡くて卑怯な人間なのかもしれない。だけど名前に対してだけ臆病な僕は、こんな時にしか言えなかった。
 でも、今回ばかりは名前が悪い。そんな言葉を僕に言わせてしまった、名前が。

「もう、止めてやれないから」

 目を見開く名前の唇に、飢えたように噛み付いた。