五
その少女がやってきたその日から、毎日のように図書館のあの部屋からはピアノとバイオリンの音色が聞こえるようになった。一日に少しの時間、それでも綺麗な音色は文豪の、職員の、そして利用者の心を鷲掴みにするのだ。
いつもならば、美しく流れるような音がとまれば彼女は帰るが、今日はそうではないらしい。田山先生に連れられて談話室にやって来た彼女は目の前においてある紅茶のカップを両手でもった。可愛らしい女の子である。いや、ここにいる女性陣がかわいくないというわけではなくて、ただ、彼女が絵に描いたような美少女というか。紅茶を飲んで美味しいと笑った彼女に田山先生が顔を覆った。小さな声で、尊い、と言うのが聞こえる。ぶれないなぁ、田山先生は。
「この紅茶、美味しいです」
「そう言ってくれて嬉しいよ」
そうにこりと笑った荷風先生に彼女はぐるりと周りを――というか、そこにいる文豪達を見渡した。
「貴方たちは、お兄ちゃんの仕事仲間さんですか?」
「そうなるね」
「ふうん」
荷風先生の言葉に、彼女は少しの不服を滲ませた返答をする。どうかしたのかな? と問いかけた荷風先生に彼女はそのまま口を開いた。
「お兄ちゃん、返してほしいなって」
「……返してほしい、とは?」
「家にも帰ってこないし、連絡もつかないから、返してほしいなって思っただけです」
何処か拗ねたように告げた彼女に「君のお兄さんは物ではないよ」と荷風先生が返す。彼女は「でも」と言葉を続けた。しかし、その先の言葉が見つからなかったのだろう。黙り込んだ彼女を見かねて、荷風先生が口を開いた。
「君はバイオリンが上手だね。いつから習ってるんだい?」
「六歳の頃からです」
「へぇ、そんな幼い頃から」
「はい。でも、最初はね、ピアノを弾くつもりだったんです」
「ピアノを?」
「お兄ちゃんみたいに弾きたくて。でも、お母さんがバイオリンを勧めたんです。一緒の舞台に立ってほしいからって」
先ほどの不機嫌そうな顔から打って変わって顔をほころばせた彼女に、荷風先生が尋ねる。
「――なら、君はお母さんの言いつけを守って彼を発表会に誘うのかい?」
「それもあるけど、お兄ちゃんのピアノ、好きだから」
そう言った彼女はお兄ちゃんはすごいんですよ、と嬉しそうに笑った。
「お兄ちゃんは楽譜を見て曲を弾かないんです」
「なら、どうやって」
「本を見てピアノを弾くんです」
「本?」
そう文豪達は首をかしげた。僕はそれを一度見ているから、想像できるのだけれど。普通は考えもしない姿だろう。雪乃ちゃんは言葉を継げた。
「よくわからないけれど、お兄ちゃん、昔からそうなの。文庫本や絵本をね、譜面台においてピアノを弾くんです。それをそばで眺めるのが好きで」
「へぇ、それはすごいな」
「でしょう? ――でも、ここ数年してくれなくなっちゃた」
そう何処か遠くを見るように彼女はソファの背もたれに沈む。
「本を読む方が好きになっちゃたのかも。今は本の虫だから。だから、音大にも行かなかったんだと思う」
「音大?」
「ああ、えっと、音楽大学のことです。芸術大学の音楽科をさすこともありますが」
首をかしげた先生達にそう僕が注釈を入れる。彼らは「ああ、なるほど」と納得した。彼女はただぼんやりと告げる。
「――本がお兄ちゃんの音をとって行っちゃったから、返してほしいの」
その言葉に僕は何も言えない。その実、彼から音をとったのは、本ではない事が彼の言葉や按司君の言葉から推測できているからだ。そして、彼が本の虫であることも否定できない。大学生の彼は毎日のようにこの図書館に足を運んで、閉館の時間までずっといたことを知っているからである。
荷風先生は何も言わない。田山先生もだ。ただ、荷風先生は目を伏せて、口を開く。
「そうか、それは悪いことをしたね」
その返答に、彼女は困ったような表情をした。
「どうして貴方が謝るの?」
「君のお兄さんを奪ってしまったのは紛れもない僕らだからね」
彼女は首をかしげる。それは、本だよ、と告げた棋院くんから詳しく聞いていないのだろう。彼らが本の著者であることを。
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