「はぁ?アイドルになる?」
それは突然だったと思う。いつもの化学準備室で、いつものように先生がビーカーでいれたコーヒーを飲んで、いつものように置いてある雑誌を読んでいた時だ。そうそう、と言った先生はどこか気怠い雰囲気のまま回転椅子に座り私を見下ろす。
「はざまさんが言い出して」
「またあの先生は……」
そう呆れたまま雑誌をめくる。硲先生はいい先生ではあるが、どこかちょっと変わっているというか、真面目過ぎて変わっているというか、そんな調子の先生だ。あの感じは嫌いではないけども、私は先生くらいゆるい先生のほうが好きである。
「で、オレも誘われたんだよね」
「え。先生おじさんなのに大丈夫なんですか」
「さぁ?」
「さぁっ、て……」
「アイドルってお金沢山集まるでしょ?」
そう首を傾げた先生に守銭奴め、と愚痴る。そして、再度雑誌に目を通し――先生を見た。
「ちょっと待ってください。硲先生が言ったってことは直ぐに実行ですよね!?」
「そうなるね」
「私の憩いの場、なくなるじゃないですか!」
そう叫ぶように言えば、「次の先生に頼んでいさせてもらったら?」だなんていってくる。違うのだ。そういうのではない。ここには先生がいて、緩い感じで過ごすことができて、とりあえず、先生がいて、この空間が成り立っている。先生がいなくなったこの空間にはなんの意味は無い。黙った私に、先生はぱちぱちと目を瞬いて、くしゃりと私の頭を撫でる。何も返せないため、ため息を付いて雑誌に目を落とす。
「応援してくれる?」
「えー……んー……」
先生の言葉に、悩む。先生がアイドルになるということは、先生のいいところが露見してしまうということだ。前髪を上げてちゃんとした服を着たらカッコイイ、だとか、歌がうまい、だとか、いい声だとか。それについてはどうしても何も言えなくて、そのままコーヒーに口をつける。先生のいいところは自分だけが知っていたい、なんて、口が裂けても言えないけども。
「そこは即答して欲しいんだけどね。応援してくれるなら、いいものあげるのに」
「いいもの?」
「いいもの」
先生は何かをピラピラとさせていた。恐らくは封筒だろう。それがなんでいいものなんだろうか、と考える。応援してくれないの?と首を傾げた先生に渋い顔をしたまま「応援する」といえば、先生は封筒を渡した。
「学校であけないでね。問題起こして辞めたくないし」
電気で封筒を透かしてみる。中は一枚の紙だ。なんだろう、と眺めていれば友人がドアを開けてやってきた。
「フユカ、次、移動教室にかわたってよ!」
「まじかよ、今行く!」
慌ただしくコーヒーを飲み干し、封筒を掴んで廊下へ出る。先生がヒラヒラと手を振った。
「じゃあね、柊。元気でね」
「え?今日が最後なんですか!?」
「さっき、いってなかった?」
「聞いてない!」
「フユカ!先生に怒られる!!」
「え、ああ、もう!!」
友人に引きずられるように廊下へ進む。化学準備室と書かれた文字がだんだんと遠のいた。
放課後に準備室へ行けば先生の私物がなくなっており、愕然としたのはしかたがないだろう。手紙は鞄の中に閉まったままだ。夕日が差し込むそこで、手紙を恐る恐る開ける。そこには英数字と記号の羅列がかかれている。それが先生のメールアドレスだと気づくにはそう時間はかからなくて。
先生がいなくなって悲しめばいいのか、メールアドレスをもらい喜べばいいのかわからなかった。でも、初恋にも似たそれが破れなかったから、きっとよかったのかもしれない。
それが、高校3年生の初夏の事だった。
原子間の切断