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それでも今日の空は青く(黒ひげ)

【目次】




白紙のキャンバスに託した期待

「〇〇、お前はあいつの特別なんだな」

 風弱く、天気は晴れ。新世界にしては静かな、海も空も暴れていない昼下がり。

「え、私が? 誰の特別なんです?」
「ティーチだよ。お前といるときのアイツは、思春期のガキみたいになるだろう?」
「……⁈」

 うちの船でも特に変わり者であるティーチ。そしてその幼馴染である〇〇にそう伝えた。娘本人はいまいち理解していないような、特大の疑問符を浮かべたまま俺を見上げる。

「俺から言わせれば、お前はアイツの特別に見えるぜ?」
「あー……ええっと、違うんです、親父さん。ティーチは私に合わせてくれてるだけなんです」
「合わせる?」
「ええ。私がティーチの特別なのではなく、彼は私に気を遣ってるだけなんです。たぶんそれが他の人との対応と違うように見えるだけで、特別とかではないんですよ」

 合わせるという言葉の真意を問えば、娘は嬉しそうな悲しそうな、それでいて戸惑いが隠せぬ複雑そうな表情で答えた。

「ティーチは賢いから……私が何を望んでるか知ってはいるんです」

 一拍、二拍、三拍。しばらく無言の時間が続く。
 本当に、今日はいい天気だ。青空にいくつかの綿雲が漂っているだけの良い日だ。俺にどう説明すべきか考えあぐねている娘を待っている間も天候は荒れることなく、俺と娘に等しく太陽の光が注いでいる。

「この船で一番あいつを理解しているのは〇〇だろう」

 それを聞いた〇〇は目を真ん丸にして、それから大口を開けて笑った。

「私が⁉ ティーチの理解者⁈ 違う違う! 私はまだ、ティーチのことを良く分かっていないんです!」

 あははと陽気に笑う。あまりにも快活に笑うものだから驚いた。得体のしれない男だが〇〇と共に居るときは年相応に見えると、ティーチが裏で評されているのを知らないのだろうか。「懐に入れた人間には一定の情を持っているタイプだから」と、何故か嬉しそうにする娘がいよいよ分からない。だが、本来伝えたかったことを言わねば。

「ケジメをつけるってなったらシャキッとしろよ」
「ケジメ⁇」
「……全く無いとは言い切れねえだろ、お前たちの子どもが」

 出来る可能性がと続ける前に「親父さん!」と〇〇が俺の言葉をかき消す。

「孫は大歓迎だぞ。もしそうなったとしたら、ティーチに出世してもらわんとなあ」

 追加攻撃とばかりに笑い飛ばせば、〇〇は頬を赤くして押し黙ってしまった。ティーチはこれからもっと強くなる。本船の隊長か、いやはや独立してもらうか。どちらにせよ、子どもができたら、最初は本船で面倒を見るのだろう。

「本当にそういうのじゃないんですよ……でも、ありがとうございます」

 しどろもどろになりながら、否定と感謝の言葉。ようやく大人になった二人だ、まだまだ道は無限にあり、その未来は誰にも分からない。二人はこのまま道をたがえるのか、それとも共に歩むのか。歩んだとてその先も共に居るかも分からないし、根拠の無いもしもを画策するだけ無駄だと分かっている。
 たとえ眠らない身体だろうが、ティーチは皆と等しく俺の息子である。子どもの幸せを願い、夢想し、真新しい二人の未来が明るいものでありますようにと望むのは当然のことであり、そして。

「親父、と、〇〇? 何してんだ?」
「ティーチ‼ 別に大したことは……喋ってないよ! そうですよね、親父さん‼」

 自分を慕ってくれる二人が、家族である二人が結ばれて嬉しくない訳がない。
 もし子が生まれたなら目一杯可愛がってやろう。今更家族が一人二人増えたってなんの問題も無い。もしも二人が共に道を歩むなら、願わくはその先を祝福させてくれと、在りし日の記憶に思いを馳せ――――。





「親父、報告が」

 重苦しい空気の中、目線だけマルコに投げて、続きを促す。

「〇〇のことだ。命に別状はないが……精神状態があまりよろしくない」
「暴れているのか」
「いや、逆だ。……不安になるくらい、静かだ」

 そのままポックリ逝っちまいそうで、と小さく呟く。マルコ曰く、〇〇は。



 〇〇はティーチの所業、そしてサッチの死をその目で直接見てしまったらしい。悲しみ、怒り、戸惑い、どうしてと動揺しているうちに巻き込まれたのか、腹を刃物で突かれたとのことだ。今日まで意識が無かったのだが、つい数時間前に目を覚ました。

 目覚めたばかりで酷だが、既に事実を伝えた。サッチは死んだと、今はこの船にティーチは居ないと。そうしたら、〇〇はカッと目を見張り、驚くほど血の気をが引いた青白い顔で、ベッドから身を起こした。
 静止の声も振り切って、治療室から飛び出した。そうして俺の部屋へ姿を現し、膝をついた。

「親父さん……! 申し訳ございませんでした‼」

 私、私は、私では何もできなかった……何一つできませんでした! あたしの価値はこんなものだったんでしょう、ティーチにとっては! ああ、そうだ、私は殺されるのですか? 信じてもらえないかもしれませんが、私は何もしていません。逆です、何もできなかったんです。サッチの身代わりにすらなれなかったんです、殺さないで、親父さん……!


 俺の娘は泣きながら、俺の前で命乞いをした。

 自分が一番嘆き悲しみたいはずなのに、まるで自分には悲しむ権利はないと言わんばかりに虚ろな目をした娘。最愛の男に裏切られ、その上家族殺しの共謀者として嫌疑を掛けられてしまった娘の顔には、目を背けたくなるほどの絶望が色濃く滲み出ていた。喋る度に青くなっていく娘を見て、抑えていたはずの怒りがまた燻る。ティーチ、俺は、〇〇に命乞いをさせるためにこの船に乗せ続けたんじゃねえぞ、なのに。

「ああ、分かってるさ。俺たちが獲るべきはティーチの首ただ一つ」

 マルコを筆頭とした隊長たちにそう告げた。誰かが息を呑んだ音がした。震えたままの娘と目を合わせ、静かに宣告する。

「待ってろ、俺があいつに引導を渡してやる」

 鉄の掟を破った馬鹿息子に制裁を下す。たとえそれが二十年以上面倒をみてやった息子だったとしてもだ。俺の言葉に安心したのか、起き上がっているのもまだ苦しかったのか、はたまたかつて愛した男への死刑宣告に目を回したのか。青いを通り越して白くなった顔で蹲ってしまった〇〇を「誰か診療室へ戻してやれよい」とマルコが慌てて人を呼びつけていた。




 なあ、ティーチ……何故だ⁈ 何故己の親友を殺めた⁈ 何故己の女を置き去りにした⁈
 お前のために戦ってくれるのはサッチだったんじゃねえのか? お前のことを誰よりも信頼していたのは〇〇だったんじゃねえのか? 殺されたサッチの魂がどこに行くか、お前は考えたのか? お前の傍で笑ってくれるのは、お前のために泣いてくれるのはあの二人だったろうに、何故、何故――‼

 親友を殺し、女を捨て、家族も、ここでの居場所も全部捨てて、そうまでして獲るべきものだったのか? ヤミヤミの実とやらは。そうまでして目指すべきものなのか? ひとつなぎの大秘宝ワンピースは……!

 手持ちの酒を煽った。いつもなら「身体に障るから」と横槍が入るが、今だけは誰も止めない。飲まないとやってられないのだ。
 悲しみと怒りに支配されぬよう、今ここで暴れ出したくなる気持ちを抑え、また一つ酒瓶を煽った。



その赤は幸福の色だった

 はじまりは、サッチが作る料理には赤が多いと感じたことだった。

「どうだ、エース。美味いか?」
「ああ、美味ェ。……? 今運んでるそれ、パイか?」
「ん? ああ、これはお前さんのモノじゃねえぞ。からくないからな」

 コックとしても優秀なうちの四番隊隊長は、今日も今日とて美味い飯を食わせてくれる。俺の好みに味付けられた、赤々とした激辛料理に舌鼓を打っている最中、サッチの両手にはまだ赤い料理が残っていた。

「チェリーパイだよ。ティーチたちの分さ」
「へぇ」

 チェリーパイ。道理で、俺の食べているものに比べ若干ピンクがかっている訳だ。「じゃ、俺はこれ運ぶから。食いながら寝るなよ」なんて茶化しながら、そこそこの大きさのパイを、サッチはなんの躊躇いもなく運んでいった。
 あいつが作るものなら、辛くない料理もさぞ美味しいのだろう。今度俺にも作ってもらおうかと考え、ふと気づく。ティーチ

「ねえ、私の分は?」
「あー? 今日は俺が先だろ?」
「ほら、まだちゃんとあるから。二人とも焦らなくて大丈夫だぞ」

 行儀が悪いと分かっているが、左手に皿、右手にフォークを持って食べながらサッチの後ろをついて行けば、ティーチと女……ナース? が共に料理を囲んでいる。〇〇とティーチが二人揃っているのを見たのは、これが初めてだった。

 ◇

 大抵は温厚だが、親父を貶した奴らに向かって後先考えず突っ込もうとしたり、大物取りを喜んだりと、どこか凶暴性を秘めている。腕は立つし実力もあるが、生傷が絶えず未だにヒラ船員。極めつけは眠らないという特異体質。ティーチという二番隊船員はいい奴ではあるものの、少々不気味な男だと思っていた。それなのに。

「あなたが噂の火拳君か。どう? ここには慣れた? サッチのご飯、美味しい?」
「あ、ああ……」
「それなら良かった」

 偶然、ティーチの昔馴染みだというナースに声を掛けられた。質問に対し素直に頷けば、安心した表情で「困ったことがあったらすぐにドクターやナースを頼ってくださいね。もちろん、怪我をしないのが一番ですが」と、女は微笑む。なんというか、その、意外だ。少々不気味なティーチの友人にしてはらしくないというか、思ったより普通である。古参のナースではあるものの、ティーチの言葉を同様に野心が無いのか、のんびり船に居るらしい。

「少し変わったところもあるけど、仲間想いの良い人だから」

 ティーチのこと、よろしくね。

 今日の夕飯は鶏の唐揚げだよと母が子に伝えるような、そんな明るさと柔らかさ。俺をねぎらい、そしてさり気なく昔馴染みをフォローする短い言葉。たったそれだけなのに、〇〇から放たれた言葉は、ひどく尊いものに思えた。

 ちなみに、〇〇からお前をよろしくなんて言われたぜとティーチに伝えれば、ティーチは「少し変わったところもある奴だが、まあ、腕は確かだからよ。あまりいじめないでやってくれよ、あいつのこと」などと言う。少し形は違えど、二人して同じようなことを同じように俺に託すのだ。お互いが見てない場所で、お互いのことをさりげなく気遣って。そういうときは決まって、海賊らしくないはにかみ顔で、照れくさそうに誤魔化すのだ。

 二人は笑ってた。ずっと一緒って訳でもないのに、二人揃えば不思議と息が合う。鮮やかでいい匂いの食卓を囲み、当然のように俺を招く。ティーチは「エースも一緒に食おうぜ」と誘って、〇〇は「サッチのご飯は美味しいよ」と付け加えて。ブートジョロキアのペペロンチーノとサクランボのパイが並んだテーブルは、常人から見れば恐れおののくほどに赤々としていたが、俺にとっては心地よかった。四皇の船のくせに、海賊のくせにやけに仲睦まじい二人が、俺を弟扱いしてさ。気恥ずかしさはあったけど、年の離れた兄姉ができたみたいで――やけにむず痒くってさ。

 ◇

「お前たち二人のようになれるのなら、夫婦というものも案外悪くはないかもしれないと……そう思っていた」

 俺はたぶん、まともにレンアイをすることができない。いや、できるかもしれないけど。今までにもそんな機会はあったが、己の出生を思い出してはその度に揺らいだ。世の中の夫婦や恋人といった関係を見る度に、少なくとも今の俺には無理なものだと感じていた。そんな俺でも、お前たち二人が互いをいたわる姿を見る度に、俺は――。

 誰かを想うなら〇〇のような想い方をしてみたいし、誰かに想われたならティーチのように優しさを返したい。

 〇〇だけが愛していたんじゃない。ティーチもちゃんと〇〇のことを好いていた、〇〇を見ていた。それが周囲に伝わるくらいには〇〇のことをティーチなりに大切にしていたはずだ。そうして俺は、そんな穏やかな二人の関係に、憧れと尊敬を抱いたのだ。おんぶにだっこではなく、心の柔い部分を大切に守っているよう、信頼を築いている二人にある種の羨望を感じていた。

 なあ、応えてくれよ、あれは全部嘘だったのか?

 凶暴性はあるが、総じて穏やかな男だった。二番隊隊長任命のときに「俺にはそういう野心がねえのさ。やってくれよ、エース隊長!」と、笑い飛ばしたことも。喜色満面といった様子で親友の作った食事に食らいついたことも。〇〇から信頼を寄せられる度、ごく一瞬だけ見せた穏やかな表情も、全部、全部。

 モビーのみんなを、俺を、親友を、女を、親父を、全て。

「全部捨ててまで奪うべきものだったのか? ティーチ……‼」
「夢の為に必要なことだったのさ」

 サッチにはもう二度と会えない。サッチの魂のために、唯一無二の家族のために、俺はこいつにケジメをつけさせる。これから起こり得る戦いは避けられないものだと、もう後戻りはできないと宣言する。俺は構えた、ティーチも構えた。

 最後に、一つだけ。ある一つの疑心を奴の中に植え付ける。

「〇〇は泣いていたぞ」
「それがどうした?」
「……お前と仲が良かったから疑われた。ティーチの味方だったんじゃないかと……共謀してサッチを殺したんじゃないかって。殴られて、傷ついた」
「………………!」

 奴の覇気が一瞬揺らいだ。が、すぐに不敵な笑みに戻ってしまった。己の女に未練を残しているのではないかと一縷の望みに期待したが、どうやら効果はないらしい。動揺を誘うことすら叶わず、当の本人は爛々とした眼で吐き出す。

「……今となってはもう、俺には関係のない話だ」
「そうか、そいつは残念だ‼」

 サッチの死に顔、〇〇の絶望した顔、親父が苦しむ顔、俺を引き留めるみんなの顔。全部を一度に思い出し、身体の中心を燃やす。沸騰しそうなくらい熱くなった己の拳を、かつて家族だった男へ振り下ろした。



黒幕になんて成り得ない女

「あれね、絶対女よ、女。何を隠してるのか知らないけどさ」

 インペルダウンにて黒ひげ海賊団に加わった若月みかづき狩り・カタリーナ・デボンが、さも面白そうに嘯く。

「一度くらい顔を拝ませてくれたっていいのにニャー? 俺たちに紹介できねェ程、ティーチの女の趣味は悪いのか?」

 これまたインペルダウンから脱獄した悪政王・アバロ・ピサロが続ける。他の幹部も各々の相槌を返すが、同様に気の無い返事だ。

「海賊団の運営に支障がでなければ、なんだっていいだろ?」

 バージェスは、一応はフォローする体裁を取っているが、若月狩りが述べた「拍子抜け」にも、悪政王が評した「提督は女の趣味が悪い」も否定しない。



 黒ひげ海賊団の悪名が着実に大きくなっている今日この頃。ティーチ船長、もとい提督が「知り合いを迎えに行く」と言ってフラッと出て行ったのが一週間前のことらしい。遠征の帰り際、サッサと出掛けてこれまたサッサと戻って来たので、ちょっと目を離した隙にティーチ提督が麻袋を担いでいたと報告が上がる始末である。
 昔馴染みを迎えに行くことを想定して遠征を組んだのか、はたまた偶然遠征の帰り際に昔馴染みがその島に居ただけなのか。真偽は不明であるが、とにかく、我らが黒ひげ海賊団提督がまるで人攫いの如くある一人の人間を攫ってきた。

「で? 実際のところどうなんだい、ラフィット! あれは提督の女だろう?」
「私も詳しいことは存じ上げないのでなんとも。性別は女性で合っていると思いますが」

 名指しされたラフィットは淡々と回答を述べる。喋りながらステッキをくるりと回す仕草は軽やかで、とてもあの細腕から暴力が放たれるようには見えない。

「オーガー、お前は何か知っているのか? 囲われている女とやらを」

 突然、シリュウが自分に話題を投げた。ただの問いかけだと分かっているが、元看守であるせいかその口調はどことなく尋問を思わせるものだ。

「……いや、特に何も。だが提督は、その知り合いとやらを表舞台に出す気は無いそうだ」

 先日、自分とラフィットは偶然、提督の『知り合い』を見た。いや、運悪く見てしまったのだ。提督が連れて来たのがどんな人間か、知っているには知っている。だが言えない。ラフィット同様曖昧な言葉で濁した後、沈黙に徹した。周りはそれに気づくことなく、話し合いは続く。

「表に出す気は無ェだと? ……よほど弱いか、あるいは、表に出せぬ事情があるか……そもそもの話、求めていない可能性もあるな」
「求めていない?」
「自分の懐刀として振舞うって義務を」
「ならますます傍に置いている理由が分からねえ。なんだ、それこそ『愛』だってのか? あの男が?」

 自分たちの脅威にはならないと分かっているものの、突如提督が囲った人間に対し興味は尽きないのだろう。皆があれこれ論じる中、ラフィットがさり気なく呟く。

「そうですねぇ、私も直接会話したことは無いのですが」

 右手を顎に添えて尤もらしく悩む素振りを見せながら、皆を見据える。相変わらず器用な男だ、悩むも何も、俺たちはあの女に命乞いされたというのに。「見逃してください! 私は、ここから出たいだけで」と最後まで話すことは叶わず、漆黒の闇へ飲み込まれた女を、直接この目で見たというのに。闇を作った張本人であるティーチ提督に「今見たことは言いふらすな」と釘を刺されたとは到底思えぬような口ぶりだ。そのまま少しだけ首を傾け、さも当然のように続けた。

「『弱い』とだけ伺っています。どこにでもいるありふれた方だとか」
「へえ? じゃあ案外普通の人間なのかもな」

 どこか間の抜けた声でバージェスが相槌を打つ。

「ああ、それと。昔馴染みだそうです」
「昔馴染み?」
「十数年前からの知り合いだそうで」
「訂正するぜ、船長と何十年もつるんでる奴が普通な訳あるかよ」

 若干眉を潜めつつ、ラフィットは「提督ですよ、何回言わせれば分かるんですか」と咎めた。普通ではないという点に反論しない時点でお察しである。



それでも今日の空は青く

「〇〇、お前はあいつの特別なんだな」

 ずいぶん昔に、親父さんに言われたことが頭の中をぐるぐると回る。言葉はキツめだが語気に嫌悪は無くむしろ柔らかい。小言っぽい口調とは裏腹に、やれやれといった具合で静かに溜息している。

「ティーチだよ。お前といるときのあいつは、思春期のガキみたいになるだろう?」

 朗らかに、しかし私にだけ聞こえる声量で伝えられた言葉は、私を優越感に浸らせるには充分な内容だった。いつか、私とティーチに未来があればと――二人の未来を望んでくれたはずの親父さん、どんな顔をしていたっけ。
 未来を願ってくれた、優しかったはずの双眼がはっきりと思い出せない。今は亡き偉大な老爺は、堕落した私を見て何を思うのだろうか。


 ◇


 マーシャル・D・ティーチは、私の古い昔馴染みである。時には友人、時には恋人。腐れ縁に近かったが、私たちは少なくとも敵同士ではなかった。彼が四番隊隊長・サッチを殺し、二番隊隊長・エースをインペルダウンにぶち込むまでは。
 私は、あの船の家族たちが好きだった。彼のことを好いていた。けどそれは全て過去の話だ。白ひげ海賊団は滅茶苦茶になってしまったし、敵味方問わず大勢の人間が死んだ。あの戦争で一つの時代が終わったのだ。
 私ももうすぐ潮時だろう。上手く生きて、どこかの島でひっそり過ごして、今は亡き家族たちに祈りを捧げ、慎ましく暮らしていこう――そう思っていたのだけど。

「慣れって怖いねぇ……」

 両手両足に枷をつけられているけど、慣れたら案外いけるものだな。誘拐された当初に比べ、正常な感覚が麻痺してしまったのかもしれない。かどわかされた当初は自分でもびっくりするくらい暴れたものだ。

「ここに居るのなら、ある程度不自由ない生活を保障しよう。帰りたい? 帰る家も無ェのに? ゼハハ、好きにすればいいさ、この海賊島から自力で脱出できるのならよ」

 この提案をのむか、もっと酷い目に遭うかどちらか選べ。そんな究極の選択を迫られた私は妥協してしまった。結果的に、奴の提案を受け入れたのだ。
 それからの日々は大変だった。ふとした瞬間、強烈な罪悪感に苛まれて気が狂いそうになる。家族を傷つけた男にいいようにされている自分が情けなくて、外には海賊がうじゃうじゃいると分かっていても、発作的に飛び出したくなるのだ。しかし当然、楽になんてさせてもらえない。ティーチは、見透かしたかのようなタイミングでやってきて、憐れな女の罪悪感をいとも簡単に快楽で塗りつぶしていく。少しだけ抗って、ほどほどにあしらわれて、ときどき酷く嬲られて、しかし昔と変わらない口調で話しかけてくる。

 この趣味の悪い遊びにいつ飽きるのかと、いつ私を捨てるのかと問えば、「そうかそうか、俺に捨てられるのは嫌か」と妙に嬉しそうに笑う。そのくせ私を表に出すことはなく置き去りにする。要らぬことばかり考えて気が滅入ってしまうくらいに穏やかなこの部屋に、私を放置する。どれだけ悲しんでも、窓から見上げた空はいつも通り青くて、白雲はゆっくりと流れていた。


 そんなことを繰り返しているうちに、狂えなくなってしまった。慣れてしまったのだ。今はなんかもう全部吹っ切れて、与えられたベッドの上で大の字になって寝っ転がっているくらいだ。環境に適応し、精神が安定した私は、ある意味健康優良な生活を送っている。

 ジャラジャラと枷の鎖を鳴らし、ちらりと斜め上を見上げる。黒ひげ、もといティーチは――私にこんなことをした張本人はというと、ベッドに腰かけて本を読んでいる。私の奇行にも慣れたのか、鎖が鳴る音も気にせず読みふけっている。
 なんかもうここまで来たらどこまでやれば怒られるのだろう、どの媚の売り方が良いのだろう。子どものように背中にのしかかってみたり、胡坐の中に潜ってみたり、自分の胸の谷間にティーチの頭を突っ込んだり、親愛なる友人と交わすような軽いキスを与えたりと、やりたい放題やってみた。

「どうした、やけに積極的じゃねえか」
「一日の中でまともに話せる相手が君しか居ないんだから、甘えたくもなるでしょう?」
「……なら今日はもう」

 いいだろ、なんて許可を得る前に、私の服に手を掛けるくせにね。いつも通り、されるがままでぼーっとしてしまう。

「可愛いね」
「あ?」
「髭、三つ編み」
「これか?」
「ええ」
「好きか? こういうの」
「普通、なんとなく可愛いなって思っただけ」
「そうか」

 この人が動くのに合わせてぴろぴろと揺れる三つ編みの髭が可愛くて、つい触れてしまう。こんなに器用な人だったっけ。手持ち無沙汰だったのでくるくると弄っていたが、とある可能性に行きつき、ビシリと固まってしまう。
 …………まさか、女に編んでもらってるのか?
 ああやだやだ、分かっていたことでしょうが。四皇ならどれだけ人を侍らせていたって不思議じゃないって。
 しょうがないと分かっているが生憎私は心が狭い女なので、他の女の影をちらつかされて平然としていられる訳がない。そもそも私以外に心を許した恋仲が居るのか居ないか知らないけども。そうじゃなかったとしても、相手は四皇なのだ。幾人もの愛人が居たって不思議じゃない。

 この人と私が普通の夫婦だったなら、もうとっくに別れている。ここで言う普通の夫とは、妻の身体の自由を奪わないし、妻に「ここから出たい」と訴えられた瞬間ベッドにぶち込んで嬲るようなこともしないし、海賊たちがうじゃうじゃいる危険な島に敢えて妻を留め置く狡猾な策を実行しない夫のことだ。
 海賊だらけのこの島で、なんの力も持たない女がフラフラ出歩いたらどうなるかは見え透いていて、私にはそれを打ち破る勇気がないことをこの人は分かっていて。居るかも分からない女の影に嫉妬して、その嫉妬をそのまま出すことが悔しいと歯嚙みしていることもたぶん察していて。

「…………ご機嫌がよろしくないようだが、どうかしたのか?」

 勝手に自己嫌悪に陥っていることも、今までの葛藤や不満も全て見透かしたかのように、白々しく「どうかしたのか?」と尋ねるとは、本当に趣味が悪い。

「相変わらずコレが最悪だなって」

 嫉妬してますとは素直に言えず、じゃらりと手枷を見せれば「もっと軽いヤツに替えるか?」と的外れなことを言うから笑ってしまった。




 今日も私は殺されない。今日も私は重労働を課されない。ある程度の、しかしいつ崩れるか分からない安定の中で飼い殺されている。捕虜と呼ぶには些か贅沢すぎるが、世間一般から見れば軟禁に値する非日常の中で、私は。

「…………〇〇、おめェ以外の女なんて居ねえよ」

 一日の中で自分の名前を呼ばれる時間が今しかないのが可笑しくて哀しくてまた笑ってしまった。私以外に居ないなんて、嘘か本当か分からないのに。びっくりするくらい優しい手つきで私の頬を撫でないでよ、縋ってしまうじゃないか。
 私の世話を焼き続ける律儀な大男と、今日も肌を重ねる。歪なほどに仲の良い二人は、束の間の幸せに執着している。私の中にティーチを刻まれて、ティーチは私を手放せなくて。終わりが来るその日まで、いつもと変わらぬ空の下で、ずっとずっと繰り返すのだ。

さしみとしろめし