三度目の正直
次の日の朝、部活の朝練を終えた私はいつものように昇降口でローファーから上履きに履き替えた後、1階にある我が3年5組の教室に足を運んでいた。
「(黒尾、黒尾、黒尾………)」
昨日の失態を思い出しながら、今日こそこれから顔を合わせることになる彼の名前を忘れまいとまるで呪文のように心の中で何度も唱え続けた。その間、険しい顔をしながら廊下を歩く私の姿を、擦れ違った同学年の生徒たちが思わず二度見をしていた事に私は気付きもしない。今私の中で意識が向けられているのは、後ろの席の男子生徒の存在だけだった。昨日、早くも本性を現した彼は、面白い玩具を見つけたような顔で私を見た。あれは、ヤバイ。関わったら面倒な事になる。だからなるべく距離を置いて必要以上に関わらない方が得策だ。でも、そもそも席が前後同士なのにどうやってかわせばいい?変に無視をして相手の機嫌を損ねるのも良くないし、席替えをしたばかりだというのにそれで関係を悪くなるのも嫌だ。気まずい関係のまま、とても数ヵ月を過ごせる気がしない。それじゃあ、どうすれ、
「はぶっ!」
今後の黒尾くんとの付き合い方についての事ばかりに気を取られていて、よく前方も見ずにそのまま自分の教室に入ろうとしたせいで、大きな何かと衝突をした。……あれ?これは、誰かとぶつかった……?
「、ごめん!余所見してた!」
ぶつけて痛めた鼻を擦りながら相手から距離を置けば、目の前に映るのは紺色のベストとネクタイ。胸元が硬かったあたりからして、もしやこれは男子生徒……?なんて恐る恐る顔を上げればそこには―――――
「あ、椎名サンだ〜、オハヨウ」
「(……ゲッ!!)」
よりにもよって、私の中での要注意人物リストに入りそうなトサカヘッドの彼が、目の前に立っていた。
「お、おおおおはよう!黒尾!くん!」
いやいや吃りすぎだろ自分。なんて心の中で自身に対してツッコミを入れていると、黒尾くんは突然「ぶっひゃひゃひゃ!」という謎の笑い声を上げながらあのニヒルな顔で私を見下ろした。
「名前やっと覚えてくれたんだ?そっかそっかー良くできましたねぇ〜」
「んなっ!?」
……どうやらこれは、時既に遅し?
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それからといえば、私は黒尾くんに対して警戒心全開だった。しかし黒尾くんは特に何かを仕向ける事もなく、驚くほど大人しかった。それとも彼は今は寝ているのだろうか。正直怖くて後ろを振り向く事は出来なかったが、話し掛けられるわけでもなく、本当に何も無い。なんだ、ただの私の考え過ぎかとこの時は高を括っていた。
「(………眠い、)」
そうこうしないうちに1限目の英語の授業が始まって約15分が経過した頃、突如睡魔が襲ってきた。意識とは相反して身体は勝手にうつらうつらと船を漕ぎ始め、瞼も次第に重くなる。教科担任の口から唱えられるあまり発音の宜しくない英文は、頭に入る所か右から左に流れ出て行き、あろうことか握っていたシャーペンでいつの間にかノートにはミミズのような線や解読不可能な文字を書いていた。一瞬、消しゴムでそれらを消そうかと悩んだが、この状態だとまた同じ事をやりかねないので今は諦めた方が良い、眠気が覚めた時にでも消そうという結論に至った。
徐に重たい瞼で周囲を見渡せば、既に何人かは机に頭を伏せて完全に睡眠学習に入っている。私の前の席のサッカー部の朝練疲れの中村君もそれは例外では無かった。
「(私も、寝ようかな………)」
幸い、英語の先生は授業中寝ている生徒が居ても起こすような真似はしないし、生徒に「ここの答えは何だ」とわざわざ指名をして解答を求めるような事もしない。毎回一方的に教師側が解説をして終える、そんな授業スタイルなのだ。それに、定期テストの出題範囲だってわざわざノートを写さなくても問題集と教科書を見直しておけば普通に点数は取れるから問題はない。よし、決めた、寝よう。
「(……何だかんだ私も今日は朝練だったし、いいよね、)」
机に顔を伏せて、先程から重たかった瞼を下ろせば、今にも夢の世界に旅立ちそうだった。「おやすみ」と心の中で静かに呟けば、「椎名サーン」と後ろから小声で私の名前を呼ぶ声が聞こえ……ウン、聞こえない。
「あれー?椎名サン居眠り?」
……………。
何も聞いてないし、聞こえない。幻聴。そう、これは幻聴だ。あ、ひょっとしてこれは夢でも見てるんじゃないかな?夢の中にまで出てくるなんて黒尾くんってば冗談も大概にしてくれよあはははは。
「椎名サンって真面目そうで意外と不真面目なんだネ」
……夢の中なんだから返事の一つや二つしてもいいはずなのに、何だろう、この反応したら負けな気がする感じ。反応すれば最後、みたいな感じ。
「あぁ、もう寝ちゃった感じ?じゃあちょっとぐらいちょっかい出してもそう簡単には起きないよね」
ちょっかいって何ィイイ?!何する気なのこの人?!
今すぐ飛び起きて後ろの彼に問い質したいのにそれが出来ないのは自分のプライドが許さないからだ。それでも全神経を背後に集中させて暫く身構えていると、一向に何かを起こしてくる気配はない。………なんだ、ただのハッタリか。なんて一気に緊張が解けた時、私は完全に油断していた。再び睡眠体制に入ろうと瞼を閉じた時だった。
「っ!!?」
次の瞬間、ぞくりと背中に何かが這い上がるような感覚に襲われて、ビクリと身体が大きく跳ねたと同時に後ろから吹き出すような声が聞こえた。
「いっ、今の何!?」
慌てて上体を起こして後ろを振り向けば、「なーんだ、起きてたんじゃん」とシャーペンの先端をこちらに向けたままの黒尾くんはしたり顔で私を見た。
「無視することないじゃん?」
「だからといって起こし方ってものがあるよね?!」
「そこに背中があったからつい」
「ついって何!?」
「あんまり声出すと先生に怒られるよ椎名サン」
「いやいや誰のせいだよ」
「エッ、俺のせいなの?」
「アナタ以外に誰がいます!?」
ヒートアップしていく口論に夢中になっていたあまり、授業中なのにも関わらず、無意識に抑え気味だった声のボリュームが段々と大きくなっていった。
「オイ、」
私と黒尾くんのやりとりが原因で少しずつ騒がしくなり始めた教室には、一つの怒り混じりの低い声が響いた。威圧感のあるそれには一瞬にして皆は黙り込み、教室全体の空気は重々しくなった。
「授業の邪魔するなら、廊下に出てて良いんだぞ」
まるで事の発端である私と黒尾くんを睨むようにして放ったそれには背筋に緊張感が走った。「すみませんでした」と一言謝れば、先生は何事も無かったようにまた授業を再開した。
……そうだった。この人、別に居眠りのような、自分に対して害の無い生徒には咎めたりはしないけど、授業を妨害するような生徒には手厳しい先生だったという事を私はすっかり忘れていた。
「あーあ、椎名サン怒られちゃったね」
そして後ろで平然と呟く彼はただの能天気以外の何者でもない。誰のせいだと思ってるんだ、誰のせいだと。
「(とんだもらい事故じゃんか……!)」
声もなく心の中で訴えたそれが彼の耳に届くことは無かった。
(2015.12.15)
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