迷い猫と悪党 (1/1)
「!!」
何者かから背を押された時に私は「あ、落ちる」と、そう確信した。
階段から落ちた私はどうなるのだろうか。全治何ヵ月もの大怪我を負わされるのだろうか。生憎この階段は急勾配な上、段数もあるから落ちたらまず軽傷では済まされないだろう。下手をしたら後遺症が残るような傷を負うかもしれないし、打ち所が悪ければ最悪の場合、命の保証が無い事も充分に有り得るだろう。
「(……死ぬのかな、)」
危機的な状況のはずなのに、どうしてか頭の中はこんなにも冷静だった。
「夏芽っ!!」
そんな私に対して、動揺した姿の晋助は何としてでも私を助けようと必死にこちらへと腕を伸ばしていた。
「しん、すけっ……!!」
―――――死にたくない、こんな所で私の人生を終わらせたくない。もっと、生きたい。
私もその手を掴もうと右手を伸ばしてみたけれど、後わずか数センチという所でその距離は開いてしまった。
―――――嗚呼、もう少しだったのに。
「夏芽ェエエエエ!!」
私はそのまま静かに瞼を降ろし、彼の叫び声を最後に、私はこれから迎える衝撃に覚悟を決めて階段下へと落ちていった。
"ごめん、晋助"
そう心の中で呟いた。
「っ……?」
しかしながら、いつまで経っても待っていた衝撃は来ない。階段に落ちたような感覚も、痛覚も、全くといって良いほど無い。気が付けば背中に伝わるのは、冷たいコンクリートに横たわったような感触だけだった。不思議に思い、固く閉じていた両目を開けて上体を起こした瞬間、目の前に広がった光景に全身が震え上がった。
「!なに、これ………」
確かに私は学校の屋上の階段から足を踏み外して落ちたはずだ。それに、今の今まで晋助も一緒に居たはずだ。なのにどういうわけか、見知らぬ港に私だけが居て、目の前一面には海が広がっていた。時間の流れだって可笑しい。今は朝の時間帯だったはずが、"ココ"では既に夕暮れ時で、辺りに人の気配などはない。聴こえるのは、波の音だけ。
「ここ、何処……?」
知らない。こんな場所、知らない。どうして私はこんな所に居るんだ。
学校は、晋助は、皆は、何処に居る?
「晋助!……っ、晋助!」
気が付けば私は真っ先にその名を呼んでいた。だって、さっきまで一緒に居たのだからきっと何処かに居る筈だと僅かな希望を持って私は声を張った。しかし、私の声に返事をする者は誰一人として居なかった。
―――――ズル、ズル
「!?」
目の前に起きている出来事に頭が混乱をしていた中、突如誰も居なかった筈のこの港に人の気配がした。もしかすると晋助かもしれないと淡い期待を抱きながら後ろを振り向けば、それは晋助ではなく、男性の死体を引きずった男が物陰から現れた。男はまるで武士のような身形で腰には刀を差している。よく見ると男の着物には返り血がついている。それはあの男性の血液だという事が容易に分かる。非現実的な状況に思わず「時代劇かよ!」とツッコミたくなったがしかし、この様子からするとテレビドラマや映画の為のお芝居です"で済まされるような状況ではなさそうだ。これは、作り物なんかじゃない、紛れもなく現実だ。それを理解した時、私の身体は硬直していた。
「………っ、」
今すぐこの場から逃げなければ。早く逃げないと、私は此処で死ぬ。そう頭では分かっているのに身体は言う事を利かない。
「………女?」
その時、男が私を捉えた事により互いの視線がかち合ってしまった。
「こりゃあ随分と物珍しい身形じゃねェか。嬢ちゃん、もしや天人か?……まァ、見られたからには仕方ねェ」
男は怪しく口角を浮かべた。きっとあの死体の事だろう。そうだとするとつまり私は、殺される。
男は用済みになったその死体を海に投げ棄てるなり抜刀し、目をギラギラとさせながらこちらに容赦なく剣を振るった。気が付けば私の身体は反射的に屈み込んでいて、間一髪でなんとかその一撃を避けていた。でも大した動きはしていないし、剣道の稽古みたいに今の今まで激しく身体を動かしていたわけでもない。ただ屈んだだけなのに心臓の鼓動はとてつもなく煩くて、息が上がっていた。それはきっと、いつ自分の命を落としても可笑しくないこの状況に恐怖を抱いているからだろう。
「……っ!!」
「チッ!」
私みたいな女が刃を避けられた事が余程腹が立たしかったのか男は強く舌打ちをし、幾度となく刀を降り下ろしてくる。チラリと見えた男の背景に存在する夕日は既に沈みかけていた。辺りは次第に暗くなっていき、視界は悪くなっていく一方だ。
「……あっ……ぶなっ……!?」
男の剣を避ける事に必死で足元を気にする余裕の無かった私は下に段差がある事を気付かずに躓き、勢いで体勢を崩してしまった。男はそれを見逃さず、勝機が見えたというようにニヤリと笑った。
「悪いなァ、嬢ちゃんよ。こんな人っ子一人居ない所で俺みたいな浪人と鉢合わせになったのが運の尽きだったな」
男が再び振りかざした刃は確実に私の心臓へと向かっていた。これは、避けられそうにない。
―――――嗚呼、私は此処で死ぬんだ。
どっちにしろ、あの時屋上の階段で足を踏み外した時点で、晋助の手を掴めなかった時点で、落としていたかもしれない命だった。遅かれ早かれ、こういう運命だった。だから仕方ないのだと、自分の死を覚悟した時だった。
「運が尽きてんのはテメェの方だな」
「あ?」
突然現れた、肌が刺すような殺気と同時に鼻についた、紫煙の香り。いつの間にか男の背後には刀を向けた別の若い男が立って居た。紫色の派手な蝶柄の着物を身に纏い、左眼には包帯を巻いているようだ。男の顔は暗がりでよく見えない。しかしその独特な雰囲気が何処か晋助みたいだな、などと思っていると私の目の前にいる男が後ろを振り返った時、そいつの顔を見るなり悲鳴を上げた。
「お前、まさかっ……!鬼兵隊の…た、タカスギシンスケ……!?」
「え、」
耳を疑った。男は確かに彼を"あの"高杉晋助と呼んだ。でも、晋助は学生服を着ていたはずだ。本当に私がよく知る高杉晋助なのかと確かめずにはいられずに目を凝らしてその人物の顔をよく見ると、
「しん、すけっ……!」
驚く事にその男は、クラスメイトであり、相棒のような存在であった"あの"高杉晋助と瓜二つの顔をしていた。
ザシュッ
あまりの驚きで呆然と晋助と同じ顔をしたその人を眺めていた時、刃が肉体を貫く鈍い音がした。
身体から吹き出される大量の血液。目の前の男は、タカスギシンスケの刀によって胸部をひと突きされ、その場に倒れてしまった。最初こそは断末魔の叫びをあげながらもがき苦しんでいたが、やがてそれは静かになった。多分もうアイツに息は無い。……これが、人殺し。そしてその現場に私は今この瞬間遭遇してしまったのだ。
「!………テメェ、」
タカスギシンスケと呼ばれた男はこちらを見るなり僅かに目を見開いた。どうしてかその声のトーンは低くて、少しだけ震えていた。 それが一体どういう意味を表しているのかは私には分からない。
この人は、本当に私の知っている"高杉晋助"なのだろうか?私が知っている、負けず嫌いで、遅刻魔で、いつも他校の生徒と喧嘩ばかりしているような不良男の癖して優しい一面もある、"あの"高杉晋助なのだろうか?
「……ちがう、」
―――――この人は違う、"晋助"じゃない。直感的にそう思った。
確かに同姓同名の彼と晋助はあまりにも似すぎている。雰囲気といい、声といい、口調といい、全てが同じだった。同じだけども、違う。言葉には言い表せないのだけれど、何かが違うのだ。
しかも、恐らく此処は私が存在していた世界ではない。あの人たちの身形や、私たちの世界では一般人は決して所持してはいけない刀からして。だとするとこの人は侍か何かなのだろうか。それにアイツは自分の事を『浪人』と言っていたし、私が着ていた制服を物珍しそうな顔で見ていた。
ならば考えられる事は一つ。私はタイムスリップをしたのかもしれない。非現実的かもしれないが、でもその説が最も説得力があり、有力だった。
そうこう考え込んでいるうちに、目の前にいる高杉晋助は興が冷めたように刀を鞘に納め、踵を返してその場を離れようしていた。
「待って!」
無意識に私はその人の事を引き留めていた。多分、これを逃したら私はこの得体の知れない世界で路頭に迷って、また今みたいに命を狙われるような事があるかもしれない。そんな処に独り取り残されるのだけは御免だ。
「……道に、迷ったの。私が在るべき所は"此処"じゃなくて、もっと別の処で……。でも、帰り道が分からなくて………」
「ほォ、じゃあお前さんはどうやって"此処"まで来たんだ?」
徐に高杉さんは、振り返るなりその隻眼が私を捉えた。
「……分からない。誰かに階段から突き落とされたと思ったら、何故か此処に居た。こんな処知らないし、それにこの世界には私の帰る場所が無い……。だからお願い、助けてほしいの」
彼にとっては信じ難い話だろう。私だって信じられない。どうして自分はこんな処に居るのか、どうして自分がこの世界に飛ばされる運命になったのか。ひょっとしてこれは夢の中の話なんじゃないのかと錯覚してしまいそうな程だ。
「……ククッ、こりゃァとんだ迷い猫と巡り合ったもんだ。俺ァ犬のお巡りとはかけ離れた悪党だが、お前さんみたいな異端児と此処で会ったのも何かの縁なんだろう」
「着いて来い、夏芽」
高杉さんは異質な存在である私を気味悪がるどころか、受け入れた。それは好奇心からか、あるいはただの気紛れか。
読めない人だと思った。晋助と違って、この人は何を考えているのかが分からない。初対面なのだから当たり前なのかもしれないけれど、高杉さんと晋助の顔が瓜二つだから、どうも初めて会った人とは思えないのだろう。
「……?」
はて、私はこの人に自分の名前を名乗ったかとふと疑問が沸き上がったが、徐々に遠退いていく高杉さんの背中を見れば、すぐに頭の隅にへと追いやって慌てて後ろを追いかけた。
(Rewrite:2016.03.29)
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