あいあい傘
付き合ってもいいくらいには僕のこと好き? といつも見ていた彼の様子よりずっと弱さを感じるような問いを投げかけられて、それに頷いて始まった関係だった。彼は、私が彼を好きだと言うといつも本当に嬉しそうに笑った。そうして笑うときの彼は静かで、目に見えて視線が甘くて、それがくすぐったかったけど嬉しかったし愛しかった。
本人が常日頃から仕事で忙しくしているので恋人という関係が始まってから一緒にいるということが一番難しくても、その代わりにというくらい、それ以上に大事にされていたので気になったことなんてなかったし、幸せだった。ただ、幸せだった。人生における幸せの絶頂があるのなら、今この瞬間に違いないのだと思った。
幸せだと感じたから、意識したから、失いたくないなと思った。彼自身が時々急に寂しくなることを言う人だったから、余計そう思ったのかもしれない。私はいつかの終わりを考えるようになって、それから一線を引くようになった。
明確にそれを態度に出していたわけじゃなかったけど、彼は分かっていたと思う。もの言いたげな視線を向けることはあったけど、彼は無理に言いくるめるようなことも強引なこともしなかった。彼は初めからただただ、私に優しかった。
それは行為に関してもそうだった。私は彼しか知らなかったけど、それでも十分分かるほどに甘やかされていた。
肌同士が重なっていると安心するし彼が今ここにいることが分かる。抱きしめられると幸せで胸がぎゅっとなって愛されている、と分かる=B
「……きもちいい」
熱に浮かされた自分の声を耳にするといつも別人みたいだなと思った。彼は私の言葉に「僕も」と笑う。そうしている間だけはいつもより素直になれて、彼がそれに対して嬉しそうにするのが、心のどこかでいてもたってもいられない気持ちになる。
優しくされすぎて焦れる気持ちで、閉じていた目を開けて彼を見上げると、目をのぞき込むようにしてくれる。私は目を合わせてするのが好きで、それを知っている彼はいつも合わせようとしてくれた。
汗で額に張り付いた私の髪を彼がその大きな手でかき上げる。
「もっと?」
ちゃんと僕に言ってと唇を撫でられて、導かれるように口を開く。さわってほしいと乞い願った。
目をとろけそうにした彼が私の髪を撫でてくれる。体の芯から幸福と心地よさに震えた。
「可愛いね」
彼の声は本当にうっとりした調子で、それを聞いている私の方がおかしくなりそうだった。
指を絡めて繋いだ指すら熱くて、汗で濡れる感触を感じる。彼の肌に汗が滲み、私に興奮をしているのを実感すると許されていると思った。言葉にならない思いがわき上がる。
彼が好きだという思いで頭の中が埋め尽くされる。声には出せない。言葉に出せなかった思いが飲み下され喉の奥に落ちていく。その代わりにキスしてほしいとねだった。
彼が仕方ないなあと甘い声を出してどろどろのキスをしてくれる。脊髄すら崩れていくような心地に浸る。
気持ち良さには際限がなくて、つくったはずの一線すらとかされていくのが怖い。それでもやっぱり彼と触れ合うことが好きだと思う。理性ではどうにもならない感覚だった。
触れ合うことを終えたとき、ぐったりとしたままベッドに横たわったまま、彼が動くのを見ていた。その様子を見ながらありがとうと掠れた声で今度はちゃんと伝えた。人としての形が崩れるような感覚を与えられた余韻がいまだに残っているのが怖くて、それ以上を与えられるまえに力の入らない体を起こした。シャワーに向かおうとするとその前に彼が制止する。
ちょっと待ってと言われて、大人しく従った。彼はサイドテーブルから何かを取り出すと座り込んでいた私を正面から抱き寄せるようにした。そして彼が私の首の後ろに手をまわす。熱がまだ残る体温より冷えた感触が肌を掠めてネックレスをつけられているのだと分かった。出来たと彼の手が離れる。視線を下ろすと青く輝く石が胸元に輝いていた。
「これって……」
「うん」
私が何を言いたいのか分かったのか彼が頷く。私は彼と以前にした会話を思い出す。
一緒に映画を見たときにした会話だ。映画のなかでまるで子供の玩具のように大きい宝石が出てきたときに何気なく綺麗だねと口にした。欲しい? と冗談でもなさそうに言われて、慌てて首を振って、だけどその中の青い宝石を差して一番好きだと私は言った。海みたいとも口にした。でも本当は、海の色ではなく彼の色だったから、その色に惹かれたのだった。彼と付き合うようになって、私は青色を見ると強く彼を意識するようになっていた。だって彼が私を見つめてくれるその瞳の色だったから。
覚えていてくれた切なさと嬉しさで、私は唇を噛みしめる。泣きそうになった。
「嬉しい」
もっとちゃんと伝えたかったのに、私にはそれしか言えなかった。私は彼に対して彼を好きだという気持ちをもうまともに伝えられなかった。そうしなければとずっと考え続けたせいで口にしようとすると喉が動かなくなる。
それ以外に何も口に出来なかったのに彼は私の顔を見て、どうして泣きそうなのと優しい声で言って頬を撫でてくれた。なぜこんなに泣きたくなるんだろう? それは私が彼が好きだからだ。彼が好きだから、どうしようもなくなる。
私は息を静かに吸って彼の頬に手を添えると、口の端にキスをした。あっけにとられた顔をする彼の反応に私の頬がどんどん熱を持つ。こうしたスキンシップにおいて自分から彼に何かをするということはその頃にはほとんどとらなくなっていた。
羞恥ですぐに離したその手首を彼が簡単に握りしめてしまう。彼の手に触れられるたびに大きな手だと思った。
そのまま後頭部に手がまわる。今度は私がしたおままごとみたいなキスではなかった。熱く濡れた舌が口をこじ開け、私を蹂躙する。たくさん支配されてから、解放されたときには私の顔はもっと熱くなっていた。そのまま、ベッドに押し倒され、先ほどまで離れようとしていた体を彼の腕によって連れ戻される。
「初めて誰かに選んだけど楽しかったな」
何気なくといった調子でそう言う彼は私の首にかかっているネックレスに指をかけるようにして引っ張る。
そんなつもりはないだろうし力加減も分かっているだろうけど、ちょっと不安になって乱暴にしたらダメだよという意味で彼の手に手を重ねてやんわりと制すると代わりにそのまま手を握りしめられた。
私の手を握りしめる彼の太い指の前だとどんなアクセサリーも華奢に見える。この指で金具をつけた瞬間を想像すると大変だったろうなと思った。だけど手間取った様子もなかったので彼は本当に器用で、なんでも出来る。
「今度は一緒に選びに行こうか」
そう言って彼は私の左手の薬指を撫でた。それに言葉に出さなくても体が竦む。指輪をもらったら嬉しいだろうなと思うのに、心のどこかで怖気づきそうになる。恐れと罪悪感と嬉しさが入り混じった感情と同時に、『指輪をもらう』ということにその意味に現実味がないとも私は感じていた。
返事をしない私に焦れて彼が私の肌を噛んだ。その甘噛みに私が思わず声を上げると、彼は拗ねた目で私を見る。
迷ってから、手を伸ばして頭を撫でてあげた。さらさらしている髪の隙間に指を入れると、彼は表情を和らげる。それからもっとしてよと甘えるみたいに彼がぐいぐい私の胸に頭を押し付けてくるので猫みたいと思った。むき出しの胸に顔をうずめられると髪の毛が皮膚に触れてくすぐったい。思わず声をあげるともっとくっついてくる。
そうしてじゃれていると、彼がねえ、と私に聞いた。
「僕のこと好き?」
「……好きだよ」
大好き。初めて誰かをこんな風に思った。失いたくないと思うし、私をずっと好きでいてくれたら幸せで嬉しい。彼から離れるとき、きっともの凄く苦しくて辛いと思う。
好きという言葉に沈黙と躊躇いを見せて、曖昧に笑った私を彼が見つめる。だからもう一度だけ大好きだよと言葉にした。彼はそれに、僕はもっと好きと私の体をきつく抱きしめる。
「なんでもしてあげる」
静かな、静かだからこそ本気だと分かる彼の言葉に、今まででいちばん胸が痛んだ。私はそれを誤魔化すためにはっきりと冗談だと伝わる声音を意識して、もっと会えるようになったら嬉しいなと言った。
それでもうんと素直に頷く彼の声が沈んだように聞こえて、彼の頭をそっと抱きしめる。いつでも離せるように緩い力で、彼の頭を胸にかき抱く。
「意地悪言ってごめんなさい」
そっと囁くと、腕を外されて今度は彼の胸の中に抱きしめられる。その体に抱きしめられるといつも拘束めいた感覚を受けた。
私を包むあたたかな檻の中で、そのぬくもりを失うことが恐ろしく思った。だけどそのとき≠ェ来たら、私はそれ以上に、彼にこうして抱きしめてもらえなくなるいつかが訪れることを恐れなくていいということに安堵してしまうだろう。
想像したことが現実になったとき、私はやっぱりそうだったのだと思い知る。私は彼の意志で彼から手離されることを恐れて自分から彼の手を離した。
別れ話は簡単に終わって、私が自分で切り出したことなのにその日が頭をよぎるたびに(思い出すべきではないと思うほど、その思い出は強固になっていった)苦痛を覚えた。
久しぶりに会って抱きあっている間も上の空だった私が事後、遠回しに切り出すと(馬鹿みたいだと分かっているけど、この段階になっても、別れ話を自分で切り出すときですら、彼に厭われることが怖かった)彼は私の顔をのぞき込み、何かを口にしかけた沈黙を挟んだものの、言葉の代わりに私に薄く笑った。そうして関係を終えた。
改めて本人のいない彼の部屋を最後に訪れたときに贈ってもらったネックレスも返すか迷って(形が残る大きなものは贈られることを私はずっと望まなかったからネックレスは本当に唯一のものだった)彼が依然にプレゼントに関して、返されるなら捨てるよと言ったことを思い出した。それは私に受け入れさせるための理由でもあったしきっと事実でもあった。私が返したネックレスが彼の手によって価値のないものみたいにゴミ箱に捨てられるのだということを考えると、私には置いてくることはどうしても出来なかった。
手元に残ったネックレスのその石の、見る条件で青の深さが変わる色合いはどんなときも彼の瞳を連想させて、それが苦しかったから、私はこれまでずっと着けていたそのネックレスを、結局目にすることのない場所にしまい込んだ。
プレゼントにもらったあのあと、私はその石について詳しく調べていた。その石は彼の誕生石でもあり、宝石言葉は贈ってもらった私よりも彼自身によほど似合うとも思った。人生を良い方向へ、選択を助けてくれるともあったけど、せっかく贈ってもらったのに私には上手く≠ナきなかったのだ。
彼と別れたあと、私は別の男の人と付き合うことになった。一人でいたって誰かと一緒にいたって心は何も変わることはなくて感慨は薄かった。こんなものなんだなと思った。全てが目の前を素通りしていっているような感覚だった。
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