その日、乙骨憂太は寮から校舎までのさして遠くはない雪の積もった通学路を、数少ない同級生であるパンダ、狗巻棘、禪院真希たちと一緒に歩いていた。
東京の二月は、よく冷える。
四人は互いに無言でマフラーに顔を埋め、寒さを分かち合うように白い息を吐き出しながら校舎へと続く長い石畳の階段を登っていく。
ようやく校舎内に到着し、凍るような風が落ち着いたところで、思い出したようにパンダが口を開いた。
「にしても、黒い憂太さんは新鮮だなァ」
ちょうどそのとき、乙骨はくしゅんと小さなくしゃみをした。余談だが彼はわりと日頃からタイミングがアレなことが多い男だった。それでもパンダがなにか声を発していたことだけはなんとなくわかっていたので、ジンと赤くなった鼻を啜ってから「ごめん、よく聞こえなかった」とパンダの方へ聞き返す。
「憂太、黒い制服似合わないなってハナシ」
「おかか、こんぶ」
乙骨がなにかを言うより先に『それ、言うのもう三回目』と狗巻が呆れた目線をパンダに寄越す。それに気付いたパンダは「あれ、そうだったか?」とクマのように──厳密に言うとパンダだが──長く伸びたその爪で白い綿の頬をかいた。
「悪い、いつまでたっても慣れなくてな」
「ううん、僕も正直まだ落ち着かないよ」
乙骨は困ったように笑ってから、自身が身にまとっているおろしたての黒いそれを見下ろした。パンダの言う『黒い憂太』とは、単に黒い制服を着ている乙骨憂太のことを指す。
百鬼夜行と同時期、乙骨は特級過呪怨霊・祈本里香の解呪に成功。リカの件が片付いてからまもなく、彼は等級を特級から四級に降格させられていた。
もとより秘匿死刑が決定されていたこともあり、任務に多く出張っていたというわけでもなかったので、それほど日常生活の方に影響はない。したがって、唯一目に見えて変化したのは制服の色だけだった。
これはあとから乙骨が学長である夜蛾正道から聞いた話になるが、当時の白い制服にはきちんと意味があったそうだ。なんでも高専から見て乙骨憂太という人間はれっきとした問題児という扱いであったため、一目で見て目立つようにとほかの生徒とは違う白い制服を支給されていたらしい。思ってもみなかった自身への嬉しくない特別扱いに、聞いた当時はこっそりヘコんだものだ。
そんなこんなで秘匿死刑も無事解除された今、乙骨は白い制服ではなく同期たちとお揃いの黒い制服を身にまとっている。乙骨本人にとっては、白は汚れが目立つし、なにより自分だけほかのみんなとは違う色の制服を身に纏っているというのは少し疎外感があったので、別段これといって気に留めることでもないだろうと感じていた。
しかし、同級生であるパンダたちにとってはどうやらそうでなかったらしい。いまだに違和感が残るのか、こうして顔を合わせる度に制服についてからかってくるのである。
「そんなに変かなぁ」
不思議そうに一人呟いた乙骨を、真希がハンと鼻で笑い飛ばした。
「変っつーか、弱そう」
バッサリと言い切られた乙骨は、たちまちガーンとショックを受ける。
──弱そう、かぁ。
昔より厚くなった(気がする)自分の腹筋辺りをなんとなくさすりながら、乙骨はしょんぼりした。彼にとっては、これでも少しは筋肉がついた方だったのだが。
「なんならお前、その辺歩いてる中坊と大差ねえだろ」
「中坊ってそんな」
「ますますもやし具合に磨きがかかったんじゃねえか? このままじゃ、来年くる後輩に舐められることは確定だな」
乙骨を足元から頭まで全身ひと通り眺め回しながら、真希はある意味感心したように追い討ちをかけた。
後輩に舐められるのは避けたい。
「ううう、これでも僕、もうすぐ十七なんだけど」
落ち込んだ乙骨は、せめてもの反抗にそうボヤいた。
するとそのやり取りを横で聞いていたパンダがなにを閃いたのか、唐突にぽふんと黒い毛皮の手のひらを拳で叩く。
「あ、そっか。そういえば憂太、来月誕生日じゃん」
「え? あ、ほんとだ」
「忘れてたのかよ」
「オイオイ、最初に言い出したヤツがなに言っちゃってんの」
「ツナマヨー?」
怪訝そうな表情を浮かべたパンダに、彼は恥ずかしそうに頭をかいて苦笑する。
「いやあ、僕あんまりちゃんと誕生日祝われたことなかったから……年齢はさすがに覚えてるけど、誕生日自体はあんまり意識したことなくて」
何気なく発したであろう乙骨の言葉に、真希と狗巻は控えめに目を見開き、パンダは少しの間考える素振りをしたのちニヤりと笑った。
「こりゃァ、盛大にお祝いしなきゃだな」
「しゃけしゃけ」
続いて狗巻もそれをにこやかに肯定する。二人の発言を聞いた乙骨は、途端に目を輝かせた。
「えっ、ほんと?」
「おうよ」
「しゃけ」
わあ、うれしいなあ。乙骨が素直に喜んでいると、横にいた真希が意地悪く口角を上げる。
「ホールケーキ顔面にぶつけてやるよ」
「えっと、それはちょっと遠慮したいかも……」
突然の無茶な真希のサプライズ宣言に、乙骨はぎこちない笑顔でやんわりと断りを入れる。いつだったか、真希の竹刀が自身の顔面を殴打したときのことを思い出した。いくらケーキとはいえ、それを投げるのが真希であるなら、投げられたケーキはきっとものすごく痛いんだろうなと彼はひそかに恐ろしく思った。
次いで、パンダが再び三人に向けて提案をする。
「なんなら悟も誘うだけ誘っとこうぜ」
「あァ? なんでだよ」
心の底から嫌そうに顔を顰めた真希に、パンダが目を向ける。
「誘わなかったのがバレて、あとで拗ねられる方が面倒くさそうじゃん?」
あながちありえないとは言い切れないその提案理由に、彼女は眉間に皺を寄せたまましばし黙り込む。それから彼女の頭の中で、五条が長い手足をばたつかせながら子供のように駄々をこねる光景が容易に想像できたのか、考え直したように「……それもそうだな」とため息混じりに頷いた。
「マ、あのバカにそんな暇があるかは知らねえけど」
「おかかおかか」
「たしかに五条先生、最近ずっと忙しそうにしてるかも」
近頃しょっちゅう高専を出入りする五条の姿が、乙骨の脳裏に思い出される。パンダも「まぁなー」と相槌を打った。
「ついこの間も、まーた悟が上層部に喧嘩売ったとかで正道が頭抱えててさァ」
「ンなの、いつものことだろ」
「しゃけ」
「うーん」
乙骨はそれを否定できない。
「ヤ、それがさ、今回はやけに訳アリですとでも言いたげな様子だったからよ。どうにも気になって、まさみちに内容を聞いたんだが、今回ばかりはどうにもな……」
「あぁ?」
考え込むように爪で顎をかくパンダに、真希が怪訝そうに眉を釣り上げる。なんだか意味深な言い方だ。乙骨も少し疑問に思う。
するとそれを見かねたのかパンダは腰をかがめ、耳打ちするように口元に手の甲を添えてから小声で話を切り出した。
「聞くところによると悟のヤツ、女子中学生を囲ってるっていうウ・ワ・サ」
「ええッ!?」
──じょ、女子中学生!?
「チッ、あの変態目隠しクズ野郎が」
「塩昆布……」
五条の衝撃的スキャンダルを前に、乙骨は目をひんむいて飛び上がる。真希は五条への悪態を吐き捨て、狗巻はいつかやると思っていたと言わんばかりに頭を振った。三者三様のリアクションを見せた彼らに、パンダは至って深刻そうに頷き返す。
「な、なにかの誤解っていう可能性は?」
「ああ、俺だって最初はそう思ったんだ。腐っても俺らの担任だしな。そこの一線は超えないだろう、ってな」
でも、駄目だった。
「まさみちには知らせず何度か例の女子に会おうとしてたらしいが、いかんせん女子中学生の方がそれを拒否したらしくてな。不審者として通報されて、挙句の果てにその子は補助監督の前で『死なせてください』って連呼したらしい」
「どう考えても死んだ方がいいのはバカ目隠しの方だろ」
「いくら」
「いくら五条先生でもそんなことは……あ、いや、でも、五条先生、この間任務後デートに行くって言ってたかも……」
ブツブツと考え込む乙骨。そこへ人影がひとつ、彼の上に覆いかぶさった。
「僕がなんて?」
「うわぁ!」
ぬっと曲がり角からニッコリと笑みを浮かべた五条先生が顔を出した。噂をすればだ。たまたま一番壁側を歩いていた乙骨が、目を丸くさせて飛び上がる。
「五条先生! 急に出てくるのやめてください!」
「あはは、ごめんごめん」
少しも悪びれていない様子の五条を、乙骨はじとりとした目つきで見つめた。もう、そんなだから五条先生はいつまで経ってもウザがられるんですよ。内心でそう悪態をつく乙骨。一方、真希はそんな彼の横顔を眺めながら「ほんとこいつ呪力探知ザルだな」と五条の気配に一ミリも気付いていなかった様子の乙骨に呆れた視線を送った。
ま、そんなことはどうでもいい、と言わんばかりに真希は眉間に皺を寄せ、五条を睨みつけた。
「そういう悟こそ、なんの用だよ」
「あ、僕? 僕は憂太に用事」
予期せず名前を出された乙骨は、キョトンと目を丸くする。
「憂太、四級になってから暇でしょ?」
五条の唐突な質問に、乙骨はクエスチョンマークを浮かべた。ただでさえ入学が遅れている乙骨は、少なくとも普段の訓練や座学の勉強で十分に忙しかった。特に最近は反転術式の会得と知識の取得に忙しい。ゆえに乙骨は素直に首を横に振った。
「いえ、そうでもないです」
しかし残念ながら、それは五条が望んでいた返答ではなかったらしい。
乙骨の発言は、
「あ、そう? いやまァ、べつに暇じゃなくてもいいんだけど」
と、雑に流された。なら聞くなよ。そう生徒ら四人が脳内でいっせいに口を揃えたのは言うまでもない。
「憂太にちょこっとだけ特殊な任務をお願いしようかなと思って」
「特殊、ですか」
彼が不思議そうに首を傾げていると、自分たちには関係がないことを悟ったのか、真希たちは先に行っとくからな、とだけ乙骨に言い残して再び教室の方へと歩きはじめる。
乙骨も慌てて「あ、うん!」とだけ答えてから、再び五条に向き直った。
「それで、どんな任務なんですか?」
そんな乙骨の問いに、ふふんと五条が得意げに笑った。
「ズバリ! 護衛任務だよ!」
おちゃらけた様子で意気揚々と告げた五条に、乙骨は「護衛任務?」と鸚鵡返しをする。たしかに周りであまり聞かない、珍しそうな任務だった。
「護衛対象は中学三年生の女の子。補助監督の報告によると、どうやら物心ついた時から呪霊は視えていたらしくてね。メンタルがあんまり呪霊に耐性がなかったのか、すっかり塞ぎ込んで、しまいにはついこの間自室で自殺未遂を犯してしまったらしい」
「自殺未遂……」
これもしかしなくても、さっきの噂の子に関わることなんじゃ……?
「それからずっと学校も休んでるんだって」
「不登校、ってことですよね」
「有り体に言えばね」
なるほどたしかに、僕に向いている任務と言えばそうかもしれない、と乙骨は思った。
おもむろに五条が透明なクリアファイルを乙骨に差し出す。
「はいコレ、彼女の個人情報ね」
サラッと言われたその情報に、乙骨は困惑した。
「僕が見てもいいんですか?」
「うん。むしろ見てもらわないと困るかな」
五条先生に渡された書類をおそるおそる受け取ってから、心の中で謝りつつ、書類に目を通していく。
N丘中学校三年二組ミョウジナマエ。添付されている顔写真に写っている彼女は、特別派手ではなくともこれといった暗さを感じるような印象を特に受けることのない、素朴な少女の姿をしている。
「母親は彼女を産んだときに既に亡くなっている。現在は父親が養育費とかその他諸々を払っていて、中学に入ってからは父方の姉の家に預けられてるみたい」
そこには住所と電話番号などが記名されていた。埼玉県か。
「家庭環境は……まァちょっと複雑ではあるっぽいけど、特別問題がありそうなわけでもなし。学校でのいじめとかそういうのも今のところ報告はないから、消去法でコッチ絡みかなって印象」
五条先生がトントン、と指でさし示したのは心療内科に何度もかかっており、薬も多数服薬している、と記されている文だった。どうやらあまり体調は優れないらしい。詳しい事情はわからないけれど、もしかすると視えることが原因で大きな精神的ストレスを抱えていたりするのかもしれない。
「この任務を憂太に担当してもらいたいんだ」
──この子の護衛を、僕が?
と、乙骨は不安に思う。ただでさえ自分は任務の数をまだそれほどこなしたことがないのに、そんな人間が人を守る任務をだなんて。ほんとうにできるのだろうか。
乙骨は自信のなさげな瞳で五条の方を見上げた。
「僕、いま四級なんですけど」
「等級に関しては今回の場合、特に気にしなくていい。任務の難易度自体はそこまで高くないからね」
気楽にやってこー、とヘラヘラとした笑みを消さぬまま、五条はわずかに声色を潜めてから、ただ、と続けた。
「護衛対象の境遇が少し前の憂太と似てるんだ」
少し前の僕、というと。どうにかして死にたい、ということしか考えていなかったような。
案の定、それは当たっていたらしい。五条先生は少しだけ声を潜めた。
「なんでもその子、『どうかこのまま死なせてください』ってその場にいた呪術師に頭を下げてお願いしたらしい」
五条先生が意地悪そうに口角を上げた。
「まるで一昔前の、どこかの誰かさんのようにね」