清潔な臭いがする。
刀は腐らないからだ。
その代わり、本丸のそこかしこから、醜いうめき声が聞こえてくる。痛みを訴え、辛さを主張し、悲嘆に涙を零す。器用なことだな、と思った。どれか一つをとっても、元が刀のこの身には難しいことなのに、虐げられている同胞は、それら全てを同時にこなすのだ。だから、すごいなァ、と思った。
ところが、この身もとらえられ、この身も虐げられる。痛くて、辛くて、悲嘆にうめき声が零れた。なぜこの身が、こんな目に遭わなければいけないのだろう。くだらない、馬鹿馬鹿しい。
それでも、道具として生まれた以上、使ってくれる主には逆らえない。いつか絶対斬り殺してやる、いつか絶対斬り刻んでやる。そう幾度も幾度も誓って、気付けば幾年かが過ぎていた。
何本、折れたろう。何本、捨てられたろう。数えちゃいない、覚えちゃいない。全部記憶していたら、今頃この身は耐えていない。
だが、ある日突然、地獄は終わりを告げる。横暴を続けていた主を斬り殺し、全ての同胞を救ってくれたただ一人が現れたのだ。人に使われるための刀がその身を守るため、人を斬り殺すなんて、なんて本末転倒なんだろう。だとしても、全ての同胞は彼に感謝し、と同時に、彼は政府の意向で、刀解が決まった。
決して、人間が手前勝手に決めた規則ではない。十悪とか、七つの大罪とか、聞いたことがあるだろう。古来より普遍的に悪しものと見なされ、忌避されてきた事柄や概念が、この世にはある。それは刀の身にも染み込んでおり、常識として周知されていた。
叛逆は、大罪だ。たとえどれだけ横暴な主であろうと、どれだけこの身が虐げられようとも。
同胞を救ってくれたただ一人は、刀解されるためにまっすぐと屹立し、まっすぐと前を向いている。だが、最後にちらりとこちらを振り向いて、そして、たしか、なにかを――。
「おはようございます、鶴丸」
は、と見慣れぬ天井が目に入る。鶴丸はぱしぱしと瞳を瞬かせ、きょろ、と左右を見回した。
真っ白で柔らかな布団、清潔な個室。ふすまのむこうからはのんきな鳥の鳴き声が聞こえてきて、端的に朝を告げていた。鶴丸はむくりと起き上がり、あァ、と簡素な返事をする。傍らに正座していた今剣は、に、と口角を持ち上げた。
「よくねむれましたか?」
「すこぶるな。悪い、寝坊か?」
「いいえ。あるじさまが、朝餉ができるまではねかせてやれ、と」
できたので、起こしにきました。
そう締めくくれば、やれ、起きたか、とふすまがひとりでに開く。顔をのぞかせたのは小狐丸で、彼は一言、断りを入れてから、ゆっくりと部屋に入ってきた。いちから十まで品がよく、躾が行き届いていて、鶴丸は思わず瞳を細める。
もう平気だと思っていたが、存外、体が重い。鶴丸は彼らの手伝いを甘んじて受け入れ、身支度を整えた。今剣は装束の着付けを手伝い、小狐丸は髪を整えてくれる。そんなにひどいかい、と問えば、なんであれぬし様に無様な格好は見せられぬ、と彼は誇らしそうに答えた。それのどこが誇らしいのか、鶴丸には分からない。
彼らの案内に従い、鶴丸は部屋を出て、大広間へと向かう。小走りに駆け、彼らを追い越したのは蛍丸と愛染で、その後ろからおもむろに、しかし大股で、明石が付いて行っていた。
「賑やかだな」
「皆よく寝て、元気が余っておるからの」
「けさの食事当番は堀川ですしね! あれはよいうでをもっています」
「む……卵焼きは確保しておかねば」
今剣と小狐丸は真剣に相談し合い、それでから密やかに笑い合う。ふい、と鶴丸は思わず顔をそらした。
その間に、今度は粟田口の短刀が駆けてゆく。後ろの方から、廊下は走るんじゃない、と叱る一期一振の声が届いて、鶴丸はやっと、く、と少しだけ笑った。やぁ、お恥ずかしいですな、と貴公子はうつくしく微笑み、旦那も急がねぇといい席とられちまうぜ、と薬研が言い添えていった。いい席ってなんだろう? 卵焼きがとりやすい場所かもしれない。
やがて、大広間が見えてくる。この本丸にいるうち、半分ぐらいの刀剣男士が既にそろっており、各々、好きな席についていた。傍らの今剣と小狐丸について、鶴丸も彼らの好む場所に腰を据えようと思ったが、そうするより前に、彼は顔を強張らせる。
「――やぁ、鶴丸。おはよう」
廊下の反対がわから、この本丸の審神者が姿を見せたから。
鶴丸は敢えて歩幅を大きくし、両側の二人を追い越す。ちょうど大広間のふすまの真ん前、誰もが見える位置で審神者とかち合った彼は、よく聞こえるようなはっきりとした、明瞭な声で、高らかに問うてやった。
「きみ、いつになったら俺を折ってくれるんだ?」
今か今かと待っているんだが、などと。
難しい話じゃない。鶴丸が元々所属していた本丸は、お腹真っ黒だった。いわゆるブラックというやつだ。審神者は独裁者として本丸に君臨し、刀剣男士に無理難題を言いつけては、叶わぬことに腹を立て、折檻する。それら一連の流れが、あの審神者にとっての快楽であり、それら全てが、刀剣男士にとっては苦痛以外のなにものでもなかった。
それでも、道具として生まれた以上、彼らは所持者には逆らえない。理屈じゃない、そういう生き物なのだ。だから、どれだけ痛くても、苦しくても、悲嘆で涙が零れても、誰もなにも言わなかった。所持してもらえるだけ、道具としては幸福なのだ。たとえ、こんなに辛いなら心などいらぬと恨んでも。
ところが、一人の男士が、ついに立ち上がった。審神者の不意をついて斬り殺し、地獄を終わりにさせる。彼はそのまま迷うことなく、審神者が使っていた端末を用いて政府に連絡を入れ、後始末を頼んだ。事態を把握した政府は即刻動き、審神者の遺体を回収、残された刀も全て、他の審神者に引き取られることとなる。
そういった経緯で、鶴丸はこの本丸にやってきた。だが、そんなのは彼の望みじゃない。彼はもう、うんざりしたのだ。望まぬ驚きやびっくりをたくさん経験して、お腹いっぱいだった。だから、早く折ってほしい、終わりにしてほしい。あの男士が審神者を斬り殺して終わりをもたらしてくれたように、彼も自分の終わりを迎えたかった。
「試験があるって言ってるだろう。あなたを折ったら、合格不合格どころじゃない」
「知るか、そんなこと。俺を救いたいと思うなら、俺を折ってくれ」
「試験があるんだってば!」
「知らんと言ってるだろう」
審神者の言い分である。彼女はまだ若く、審神者としては中堅に片足を突っ込んだ程度の実績だった。
ところで、審神者には通過儀礼なる試験が存在するらしい。曰く、穢れた刀剣男士を引き取り、最長で一年間、面倒をみる。その間に、穢れが一定値まで下がれば合格とし、特定技能の資格が付与される。受験自体は任意だが、資格の効果範囲が広いことと、ほとんどの先人が受けていることから、事実上の必須技能のようなもので、この審神者もいよいよ腹を括って受けることにしたらしかった。
そうして選ばれたのが、この鶴丸である。彼の本丸の解体と受験時期がちょうど重なったことから、格好の獲物――得物として見出されたらしい。いい迷惑なような、なんと言えばいいのか。
とにかくそういうわけで、彼女は鶴丸を折るわけにはいかなかった。だってそんなことしたら、穢れの量もなにもなく、問答無用で不合格である。だから、彼女は鶴丸の要求を受け入れない。鶴丸は、彼女の手前勝手な理由に理解を示さない。
要するに、議論は平行線をたどる、であった。
朝食後、審神者の部屋に呼び出された鶴丸は、そんな調子でずぅっと言い合いを続けている。
「だいたい私は、試験のためにあなたを引き取ったのであって、あなたを救いたいわけじゃない」
「なんて審神者だ。これだから人間ってやつは」
「だってあなたは、私の刀じゃないだろう」
「……」
そうだが。
鶴丸はぶすくれ、それでもなお言い募った。早く折ってくれ、いつ折ってくれるんだ、くだらない、これだから人間は、政府なり本霊なりには俺の方から言っておくから、いいから折ってくれ、最初に会った時に頼んだのに、あれから一週間経ってもまだ折る気配がないのはいったいぜんたいどういう了見だ、これだから人間は、約束一つ交わせないのか、折ってくれ、終わりをくれ。……
清光は困り果てた。彼はここの審神者の初期刀で、いついかなる時も、基本的には不動の近侍としてそばに侍っている。だから、審神者がなにを考えているのか、それをきちんと伝えられていた。
つまるところ審神者は、彼の主は、鶴丸のことを預かり物と認識しているのだ。だから、いずれ相応しい審神者に譲渡するか、そうでなければ政府に返却するつもりでいる。私の刀じゃない、はそういう意味だ。
だからこそ、鶴丸の発言にもあまり頓着しない。そこまでは面倒見切れないということだろう。それでは試験の目的からかなりそれてしまっている気がするが、清光は口にしないのだった。いいのかなァ、と思う程度である。原則、刀は主に異を唱えられない。
「どうしても折らないと言うなら、俺が自分で折る」
「これも何度言わせるんだ、駄目だってば」
「きみになにが憑こうとも、知ったことじゃない」
「……じゃあ分かった!」
他の神がどうだか審神者はよく知らないが、少なくとも彼女が従えている刀剣男士は、自分で自分を折ることはできなかった。それでも押し通し、おのれを折れば、なぜか厄が審神者に憑く。付喪神とはいえ、神が自分で自分に手を下すなんてよっぽどの不義理を働いたからに違いない――と、以前受けた講習で聞いたことがあるが、なぜ自決の責をなすりつけられなければいけないのか、未だによく分からない。
さておき、いい加減鬱陶しく思った審神者は、一思いにそう口にする。ぱ、と鶴丸の表情が明るくなり、傍らの清光はぎょっとした。
「こうしよう、鶴丸」
「折るか?」
「合格通知が出るまでは、待ってほしい。もし私が合格したら、その時にはあなたの望み通りに振る舞おう」
「通知ってのは? いつ出る?」
「あなたの穢れがなくなる時」
「……今すぐがいいんだが」
再びぶすくれた鶴丸だが、審神者は大真面目に頷いた。
「約束する。いつか必ず、あなたを折ろう」
初期刀清光が証人――証刀? ――となって、ここに約が提唱される。
鶴丸は、渋々頷いた。というのは、彼は人間という生き物に嫌悪を感じているが、一方で、人間に使われる道具として、抗えない愛着を覚えてもいたのである。その本質が、刀としての性が、人間に迷惑をかけたくないという気持ちを生じさせた。他でもない審神者が、一応自分を引き取ってくれた人間が、ここまで譲歩してくれているのだから、おのれもいい加減、譲れ、と。
どっちみち、双方、それこそ折れるつもりなどなかった。ならば、最終目的さえ果たせれば、過程には多少、目をつむろう。
人は理解を示した。刀は頷いた。
証人はただ、この約が紛れもないことを認めるだけである。
なんてやりとりがあってから、はや数週間。鶴丸は畑の芋を掘り起こして、にまにまと笑みを零した。
ここ最近、内番の畑当番は彼の役回りである。自分で手ずから作った方が美味しいですよ、と堀川国広にそそのかされ――もとい、説得され、皆が面倒がって嫌がるそこに自ら立候補したのだ。ところが存外、これが面白い。審神者の住居たる本丸は、時の政府による特殊な加工が施されているらしく、人の成長は遅いが、食べ物の成長は早い。審神者の裁量によっては、四日で季節が一周するなど珍しい話でもなく、それでも悠然と成る芋が、鶴丸は好きだった。
内番服についた泥をぱたぱたと払い、立ち上がって伸びをする。同じく当番の太郎太刀もまた、鶴丸に倣って背筋を伸ばした。すると、当本丸でも随一の長躯が日の光を遮り、影を作り出してくれる。鶴丸は笑って、わざと堂々と入り込んだ。
「屋根いらずだな」
「この身が役に立つのであれば、お好きなように」
「……審神者にも、よくやってるのかい?」
「えぇ。その代わりに主は、雨の日の水たまりの位置を教えてくださいます」
言って、太郎太刀は誇らしそうに口角を持ち上げる。これだ、と鶴丸はうんざりした。
小狐丸もそうだったし、今の彼もそうだし、その他、全ての刀剣男士がそうなのだが、彼らは審神者の話をする時、やたらと誇らしげに表情を緩めるのである。人間のなにがそんなにいいんだか、結局おのが立場を弁えない愚か者だというのに、と鶴丸は気に入らない。たとえそれが、前の本丸での経験に基づく偏見だとしても、それが彼の主観で、意見だった。
不意に、あの地獄の、放置されていた畑を思い出す。腐った土と、変色した根菜、それを求めて這い上がってくる鼠と、虫と、悪しなにかしら、そのただ中に放り込まれた同胞、大笑いする審神者――。
「――鶴丸」
は、と鶴丸は顔を持ち上げる。うつむいていたことすら、知らなかった。
きょろ、と周囲を見回す。屋敷の中、屋根の内側で、審神者が彼を見下ろしていた。
「当番は? 順調?」
「……きみに言われるまでもないさ」
「太郎太刀、どう? 大根は元気?」
「主、ここに植わっているのはお芋ですよ」
「それより、なぁ、きみ。そろそろ、俺を折る気になったかい?」
途端、ム、と審神者は眉をひそめる。分かって言ったから、鶴丸も敢えて反応しなかった。
清光は、今日の俺はどう、可愛い? と、毎日審神者にねだる。光忠は、今日のご飯はどうだい、美味しい? と、毎日審神者の顔色をうかがう。同田貫は、今日の戦果はどうだ、すげぇだろ! と、毎日審神者に自慢をする。
それらと全く同じジャンルで、どうだいきみ、そろそろ俺を折りたくなったかい、と鶴丸は毎日審神者にわがままを言うのだった。
屋根の下、一段高い床の上から、審神者は大きな溜息を吐く。
「同じ白色でも、大根の方がよっぽどいい子だ」
「その心は?」
「美味しいし、わがままを言わない」
「主、ここに植わっているのはお芋です」
そうだったね、と審神者は憮然として頷く。
それでも鶴丸は、全然諦めなかった。いよいよ握っていた芋を放って屋敷のがわへ歩み寄り、下から傲慢にも見上げる。長谷部あたりが見たら、不敬で死にそうだった。
「大根より易いぞ」
「どこが」
「大根だと、きみの力じゃ包丁が必要だが、俺なら審神者としての力だけで簡単に折れる。お得だろ?」
「ひとをめっちゃ色々折りたい人間みたいに……」
「ですから、大根が植わっているのはむこうの畑です」
律義か。太郎太刀の再三の訂正にいよいよ鶴丸が音を上げ、分かった、すまん、もう芋でいい、と投げやりに言った。
今日のところは、不発である。今日どころか、昨日も、一昨日も、一昨昨日も、その前からずっと不発だ。折る気になったかい。そう問うたところで、やぁ鶴丸、約束を忘れるなんていいご身分だね、と審神者は嫌味を言うものだった。
面白くなくて、鶴丸は踵を返す。当番、無理しないようにね、と審神者は軽く言い添えて、廊下を歩き去る。
なんとなく振り返ってそれを見て、鶴丸はすぐに後悔した。屋根が廊下に影を作り出し、審神者の行く先を守っている。
(家屋の分際で、偉そうな)
顕現すらできない若造のくせに、太郎太刀と同じ栄誉を賜っているらしいことが、なんでかひどく気に入らない。
「出陣してくれないかな、鶴丸」
審神者にそう頼まれたのは、芋を三度、掘れるだけの時間が経った頃だった。
鶴丸は瞳をぱしぱしと瞬かせ、いいのかい、と思わず素直に問う。審神者用の執務室で名簿をぱらぱらとめくっていた審神者は、あぁ、と簡素に頷いた。
「ほら、健全な精神は健全な肉体に宿るって言うだろう?」
「宿る前に折ってくれると嬉しいんだが」
「言うんだけど、あなた達の場合の健全な精神っていうのは、つまり刀としての本分を果たさせてやることかと思って」
これもまた道理だ。得心がいったので、鶴丸は頷く。人間も、たまには真っ当なことを言うものだった。
前の本丸で、鶴丸はほとんど出陣したことがない。横暴で怠惰な審神者だったが、珍しい太刀である彼を惜しいと思う気持ちぐらいはあったようで、壊れないよう本丸から出さなかったのだ。だから、刀としての本分を果たせない鬱憤は溜まっていたし、なにより幼い見目の短刀が、その割に幾度も幾度も、有り得ないぐらい無理を通して出陣させられているのを見て、無力なおのれに歯噛みした。
だから出陣には、彼なりの憧れと、憤りがある。驚いたのは憧れのせいで、すぐに答えられないのは憤りのせいだった。
「無理にとは言わないけど」
「いや……いや、出よう。隊長は誰だ?」
「小狐丸だよ。心配しなくても、あの子は部隊を率いるのに慣れてるし、戦場も練度の低いところだから、気負わず行っておいで」
侮られているようで内心腹が立ったが、出陣経験が少ないということは、そのままこの鶴丸の練度の低さに直結している。だから彼は、ぶすくれてそっぽを向きながらも、割合素直に頷いた。
ところで、今この時まで、審神者が鶴丸に出陣を頼まなかったのは、簡単な話、政府に止められていたからだ。審神者なる者の敵である歴史修正主義者の中には、それこそ堕ちた刀剣も多数所属している。堕ちる程ではないが、それでも並よりよっぽど穢れの溜まっている鶴丸を出陣させ、下手に影響を受けては、かえって悪化する危険性があるのだ。そのため、ある程度落ち着くまでは様子見という判断が下されていた。
あぁ、とここで審神者がふと声を上げる。彼女の方へ視線を戻した鶴丸は、ふい、と首を傾いだ。
「その……不快なら、そうと言ってほしいんだけど」
「そう思うぐらいなら聞かなきゃいいんじゃないか?」
「あなたは、穢れているんだよね?」
「……あァ」
そういう話、と鶴丸は納得する。彼自身、穢れていると言うにはおのれが清らである自覚があったので、これには理解を示した。
普通、穢れ、堕ちた刀剣男士というと、まず見目からして大幅に変わってゆく。人間で言うところの高校デビュー、大学デビューみたいなものだ。環境と、それに伴う心境の変化にあわせて髪型や服装が大きく変わるひとがいるだろう、アレだ。刀も例に漏れず――そも人間を模して顕現しているので、全く同じ現象が見られた。
ある意味では、いい目印だ。ところが、見目だけで言えば、この鶴丸には全く変化がない。多少、普通より不真面目で厭世的で、特に人間への強い嫌悪が見受けられるが、それ以外は概ね、通常通りなのだ。加えて審神者は、そう熱心に彼と関わっているわけではない。他の刀と同様、内番を頼んだりおつかいを任せたりはしているが、それぐらいなものだ。だから、本当に彼が穢れているのか、いまひとつ実感がわかないのである。
ふむ、と鶴丸は少しだけ考え、思い切って審神者に手を伸ばす。首を傾いだ彼女は、おんなじように手のひらを返してきた。
ひた、とひらとひらとがあわさる。瞬間、審神者は表情を強張らせた。
「これは……」
「きみが言うところの、穢れってやつだ」
あわさった手のひらの間から、黒いもやのようなものが、後から後からわいて出てくる。それと同時に、審神者は急な息苦しさを覚えて、わざと大きく息を吸った。見て、鶴丸は眉をひそめ、すぐに手を離す。途端、黒いもやも、息苦しさも消えてなくなった。
瞳を震わせ、なにも言えずにいる審神者をじっと見つめて、鶴丸はひたひたと口を開く。
「これは、俺の罪だ。悔恨と、懺悔の象徴だ」
「……罪?」
「これを人間が穢れと言うのなら、どう清めるか、見物だな」
鶴丸の脳裏で、審神者を斬り殺した刀が、こちらを振り向く。彼はおもむろに口を開いて、そして――。
あぁ、そして、なんと言ったのだったか。
などという会話を出立前にした手前、いささか気まずいのだが、鶴丸は大笑いする山伏に肩を貸してもらいながら、なんとか本丸に帰還した。彼以外の全員が、刀装一つ失うことなく、無傷のまま。経験不足の鶴丸だけが、刀装も全て剥がされ、中傷を負わされた結果だった。
部隊を率いていた小狐丸は、そのうつくしく妖しい容貌を申し訳なさそうに歪め、大事ないか、と幾度か問うてくる。審神者に任された手前、結果がこうでどうにも決まりが悪いらしい。彼に非はなかったので、鶴丸はなんとか笑いながら応じた。
本丸の門をくぐれば、帰還に気付いた前田と秋田が手を振り、次いで鶴丸の怪我に気付いてぎょっと顔色を変える。駆け寄ってきたのは秋田で、前田はすぐ、審神者を呼びに行ってくれた。
「鶴丸さん、大丈夫ですか!? ある……けては、いますね……」
「なぁに、見た目がたいそうなだけさ。悪かったな、山伏」
「気を遣われるな、鶴丸殿。皆、こうして育っていったものである」
「主君、こちらです」
前田の声が聞こえ、と同時に、軽やかな足音が聞こえる。鶴丸は思わずびくりと体を震わせ、自分の足元ばかりを見つめた。
「やぁ、これはしっかりと怪我をしたものだね」
「……きみ、分かってて行かせたんじゃないだろうな」
「そのつもりなら検非違使が出現する地域に行かせたよ。おいで、手入れをしよう」
「手入れ……」
なんだか聞き慣れぬ響きで、しかしなにをするかは完全に理解できて、鶴丸はおさまりが悪い。思っていた反応がこなくて、かえってどうしたらいいか分からないみたいだった。
山伏の、存外丁寧な所作で手入れ部屋に放り込まれ、審神者に打ち粉でぽんぽんされる。初めての中傷ということもあって、本丸に常駐してくれている妖精さんには任せないらしかった。あれは妖精ではなく座敷童ではないかなァ、と鶴丸は思ったが、言わない。他の刀も、分かって指摘していないようだった。
審神者は幾度も幾度も刃を拭い、くどいぐらい丁寧に傷を直してゆく。むしろくすぐったいぐらいで、鶴丸は幾度も身じろぎした。その都度、しようのない子だね、とでも言いたげな表情を審神者が浮かべたので、面白くなくて鼻を鳴らす。
「きみは、怒らないのか」
「怒る? なにに?」
「俺が、刀装を全て壊したことに」
「……うん?」
沈黙が気に食わなくて思わず問えば、審神者は怪訝そうに顔を上げる。反対に、鶴丸はじっと、あぐらをかいた自分の足を見つめていた。さっきから全然、傍らの人間の顔が見れない。
「怒るもなにも、そのための刀装だ。あなたが無事であることを喜びこそすれ、怒りはしないよ」
「でもあれは、あれを作るには資源が必要なんだろう。それは、有限なんじゃないのか」
「あなたも有限だろう。もし永遠なら、こうはならない」
手入れを再開しながら、審神者は静かに答える。なにを当然のことを、とでも言いたげな調子だったが、声音はひどく柔らかだった。
「資源か鶴丸かなら、私はあなたを選ぶよ」
言ってから、なにだかとんでもないことを言ってしまったと気付いたのか、ほら試験のためだからね! と審神者は慌てて付け加える。資源だけにネ! といらんことも口走っていた。
く、と鶴丸は笑う。彼は初めて、この女の前で、素直に笑ってみせた。
本丸の季節が、審神者の気分で幾度か巡り、やがて実際の時間で三か月が過ぎた。
審神者は難しい顔で、手元の資料とにらめっこをする。
「……順調だね」
「あぁ、順調だ。意外だが、お前は上手くやってるらしい」
「意外とか言わないでほしいな」
はは、と審神者を嘲笑ったのは、彼女がこの本丸に就任した当初から担当している、政府の役人だった。敢えて言い当てるならいとこぐらいに年の離れた彼らだが、どちらも根は善良なため、なんだかんだ気が合って付き合いは長い。
本日、彼が本丸にやってきたのは、審神者が受けている試験の経過報告のためだった。件の刀剣男士は常に政府の方で監視されており、特に穢れの値については厳重な警戒が続けられている。
その値が、当本丸の鶴丸は、順調に低下しているとのことだった。この分だと、合格通知を出せるのもそう遠い話ではないだろう。
「前にお前が言ってた、あの……健全な……なんだっけ?」
「健全な精神は健全な肉体に宿る」
「そう、それ。たぶんそれが、結構いい感じだと思うんだよな」
穢れた刀剣男士の浄化と聞くと、多数の審神者は彼らを特別扱いし、腫れもののように気を付けて接する。それも別に、間違いではない。対応を誤れば危険であることはたしかだし、審神者の身に害があれば、麾下の刀剣男士全てに累が及ぶのだから。
が、この審神者はいたって普通に接した。もちろん、時と場合によっては致命傷になり得る態度だったが、あの鶴丸相手には、これが正解だったのだ。その結果としての、良好な現状である。目に見える程の穢れを有しているわけではないが、清らでは決してない。そんな微妙な刀を相手に、彼女はよくやったものだった。
「この調子なら、一年と言わず半年で済むかもな」
「半年……」
「早い方だ。合格率の低い試験じゃないが、落ちないやつがいないわけじゃないからな」
「ふぅん……」
人の形を与えられ、人の心で解釈される刀剣男士だが、結局のところ、彼らの本質は刀だ。人間に使われるために作り出された道具であるという点に変わりはない。そのため彼らには、本来の使用用途に則り、十全に、かつ丁寧に用いられると、かえって健康になるという特徴があった。使い込まれた道具ほどいい味を出す、というやつだ。
合格率が低くないというのは、そこに起因している。要は審神者が、普通に、常識の範疇で刀剣男士を従えていれば、そもそも堕ちるはずがないのだ。彼らは真っ当に使われるだけで健全な精神を養い、どんどん回復していく。そのため、試験の期間は最長で一年だが、これは結構長めに見積もられているということになる。それで駄目なら、そもそも審神者としての姿勢に問題があるというわけだ。
審神者は、そこのところをよく分かっている。その上でなお、半年という時間をなにとはなしに忌々しく思った。
「さて、じゃあそろそろ問題の時間だな。鶴丸国永、いるか?」
「今、出陣してる。そろそろ戻ってくる頃だよ」
「玄関で待ち伏せとしゃれこもうか!」
「しゃれこまなくていいから……」
堂々と仁王立ちして待つこと少し、予定時刻を少しだけ過ぎたあたりで、鶴丸を含める第二部隊が帰ってきた。が、なんとなく見覚えのある光景で、審神者は眉をひそめる。
概ね、元気そうだ。しかし、肝心の鶴丸だけ、獅子王の肩を借りている。今度は山伏じゃないのか、と審神者は思った。
「どうしたの、そんな大怪我して。検非違使の当たり所でも悪かった?」
「……きみ、その人間は?」
「政府のお役人だけど……そうじゃなくて、鶴丸」
「当たり所が悪かっただけだ」
いつも以上にぶっきらぼうな物言いに、流石の審神者も虚を突かれ、それ以上聞けない。ふむ、と役人は興味深そうに頷きながら、手元の資料に色々と書き込んでいった。
「順調そうだな」
「まことか? 今の会話見てそういうこと言う?」
「知らん人間が審神者のそばにいることを気にするのが、証拠だ」
直截な言い方をされた鶴丸は、ただでさえ不機嫌そうだった顔を余計に歪める。肩を貸している獅子王は、仕方なさそうに苦笑していた。
二、三普段の生活について簡単な質問をしてから、役人はそそくさとお暇する。その姿が見えなくなるのを見届けてから、鶴丸はじろりと審神者を睨みつけた。
「手入れするなら、早くしてくれ」
「なんで怒ってるんだ……」
「鶴丸、そんな八つ当たりすることないだろ」
「そうそう。主さん、俺、今日頑張ったからいっぱい誉めて」
「やっぱり世の中蛍丸! うちの大太刀ってば世界一だなァ!」
「へへ、そうでしょそうでしょ」
ご機嫌な蛍丸に興を削がれたのか、鶴丸は偉そうに鼻を鳴らし、足早に手入れ部屋へと向かう。相変わらず付き添いながら、獅子王は言葉なく審神者に片手を立てた。
わりぃな、叱らないでやってくれ、と。
まぁ案の定、手入れ部屋に会話はない。審神者はそこそこ気まずい思いを抱えながらも、誠実に手入れを続けた。
「さっきの、人間」
「うん? ……役人のこと?」
「親しいのか」
「し……いや、まぁ、なんだろう。付き合いは長いよ」
「俺の話をしてたのか」
「そう。あ、鶴丸。朗報だよ」
ん、と鶴丸はようやっと顔を持ち上げ、審神者と目を合わせる。彼特有の金色の瞳は、どこかとろりとした熱を持っていた。
「あなたの穢れの値がずいぶん下がってて、この調子だともうあと三か月ぐらいで合格通知が出せるんじゃないかって」
「……三か月?」
「今のままいけば、あと三か月で約束を果たせるよ」
やくそく、と鶴丸は幼い子供のように繰り返す。わざわざ馬鹿正直に言い換えてくれた審神者が、彼は憎らしかった。
合格通知が出た暁には、審神者は、鶴丸の望む通りに振る舞う。いつか必ず、彼女は彼を折る。そういう約束を、清光を証人に立ててまで、彼らは交わしている。所詮は人間と刀――付喪神なので、さした効力があるとも思えないが、約束はすべからく守られるべきものだ。
不意に、鶴丸の脳裏に、前の本丸での光景がよみがえる。いつもみる夢から与えられる嫌悪ではなく、よく思い起こす地獄からもたらされる焦燥ではなく、彼は無性に、その思い出に背中を押された気分になった。
は、とまろぶように言葉を吐き出す。
「前の、本丸で」
「……うん?」
「前の審神者を、斬り殺した刀が、いたんだ」
鶴丸が以前、所属していた本丸が解体された、その最も大きな理由だ。
止まらぬ打ち粉を甘んじて受けながら、あぐらをかいた足の上に腕を乗せて、鶴丸は顔を覆う。意味の分からぬ苦しみが、喉元までせり上がってきていた。
「そいつが、刀解される直前に、俺達のいる方を振り向いて、なにかを言ったんだ」
「なにを?」
「それが――」
――思い出せない。
吐き出して、鶴丸は背を丸める。審神者はいよいよ手を止め、代わりに小さなその背をなぜてやった。
なぜ今、この話をしたのだろう。なぜこの話をするのが、この女だったのだろう。そんなこと、鶴丸にだって分からない。
ただ、あの刀のことを思い出せない苦しみを、この女にまで当てはめたくないと、確かに思ったのだ。
「どんな刀だった?」
「……かっこいいやつだった」
「へぇ、いいじゃん」
「かっこよくて、強くて、叛逆は大罪と知りながら、俺達の嘆きを背負って、審神者を斬り殺せるようなやつだった」
「憧れてるんだ」
いいね、そういうの。
言って、審神者は鶴丸の背中をぽんぽんと叩いた。顔を覆っていた手を外し、鶴丸は横を向いて審神者を見る。
順調にいけば、あと三か月で、約束の時がやってくる。人間にいいように使われ、虐げられ、知りたくもなかった驚きで満ちていたこのくだらない世の中から、やっとおさらばできる。この女と出会った頃から、それよりずっと前から願い続けていたことが、やっと叶う。
そう約束したはずだ。鶴丸はその日をずっと待っていた。審神者もまた、約束を果たすつもりでいてくれている。
あぁ、ほら、あれだ、と鶴丸は咄嗟に思った。乾ききった唇が勝手に動き、いつもの音を紡ぐ。
「きみ、そろそろ、俺を折ってくれる気になったかい」
審神者は、眉尻を下げた。ずいぶんと器用な笑い方だった。
「いい子だから、もう少し待っておくれ」
その日の、夜のことである。
鶴丸は一向に寝付けず、幾度も幾度も寝返りを打っていた。審神者の刀剣男士に悪影響が出てはいけないので、彼は、ここばかりは特別扱いとして、贅沢な個室を与えられている。だから、誰に憚ることもなく、彼はずっとうめいていた。
脳裏をよぎる、前の、横暴な審神者。虐げられる同胞、手慰みに欠けさせられ、そのまま放置され、有限の資源を使ってまでなぜ直さねばならないとさらに痛めつけられ、ひびの入った腹をおさえてうずくまる日々。珍しいからという、ただそれだけの理由で鶴丸は難を逃れることが多く、ぼろぼろの体をひきずって、あぁ、鶴丸、おまえがぶじでよかった、と今剣は小さく上手に笑うものだった。
そんな地獄を全て忘れて、早く折ってほしいのに、あの憧れのただ一人を思い出せない苦しみが、それを阻害する。どの刀剣男士であったかは、ちゃんと覚えている。この本丸にはいないことも分かっている。だが、最後のあの時、これから刀でなくなり、ただの玉鋼や冷却水になり果てるというその瞬間、彼は確かにこちらを振り向いて、なにかを言ったのだ。
そんな憧れと重なって、今の審神者の姿が思い浮かぶ。ひどく断片的で、思い出したくもないのに、彼の記憶はつかんで離さない。
あと三か月――三か月? そう、それだけの時間が過ぎれば、約束の時だ。合格通知――審神者が鶴丸の穢れを祓いきったと認められれば、晴れてお役御免、試験のためにも折るわけにはいかないという言い分が消えてなくなる。
つまり、三か月後に――三か月後に、折られる?
あァ、と鶴丸は思った。いよいよ顔を両手で覆って、布団の中で小さく丸まる。
部屋の中のどこかから、ぱき、と冷涼な金属の音が響いた。
「主君、おやすみのところ申し訳ありません。どうか起きて下さいまし」
「……平野?」
ふすまのむこうがわから聞こえた声に、審神者は寝ぼけた声で返事をする。はたの時計に目をやれば、なんとびっくり夜中の三時。十二時間分、おやつの時間を間違えたのかしら、と馬鹿みたいなことを思った。
「どうしたの」
「鶴丸様のご様子がおかしいのです。どうか、見に行っては頂けませんか」
すると、審神者の意識はすぐさま覚醒し、手早く身支度を整える。寝間着だが、こんな時に頓着する女でも男達でもなかった。
ふすまを開ければ、武装を整えた平野が片膝をついて待機している。本日の夜間警備は彼が当番だったから、それで気付いたのだろう。本丸は、万一にも歴史修正主義者に侵入されぬよう、強固な防衛システムによって守られているが、綻ばぬものはこの世にないのだから。
冷えた月によって温度の奪われた廊下を、審神者はひたひたと歩く。よっぽどきちんと着込んでいる平野の方が、物音一つ立てなかった。上手いものだなァ、と審神者は思う。真似をしようと足先に力を入れ、かえって余計に音が出てしまったから、前をゆく彼は瞳を瞬かせながら振り向いて、おかしそうに表情を緩めた。
目的の部屋の前に着いた時、審神者はなんだかおかしな印象を受ける。ふすまはぴったりと閉め切って、中からは物音一つ聞こえないのに、早く誰かそこを開けて、自分の元まできてほしいと、声なき声で助けを求められている気がした。
「鶴丸、遅くにごめん。入ってもいい?」
「……。鶴丸様、失礼いたします。ご無礼をお許し下さい」
一拍待ってから、有無を言わさぬ勢いで平野がふすまを開ければ、贅沢で狭い一人部屋の真ん中で、柔らかそうな布団が苦しそうにうごめいていた。流石に審神者は顔色を変え、慌てて駆け寄る。平野はあくまで先んじ、万一がないよう主君を手で制した。
「鶴丸様、お加減は……」
「……鶴丸?」
掛け布団をのかせば、中で鶴丸が腹をおさえて丸まっている。眉間には皺が寄り、まるでひび割れたガラスのようだった。
その時、審神者の視界の端で、なにかがちかりと光る。その気なく目をやって、彼女はぎょっと驚いた。
「なに、鶴丸。あなた、急に寝相でも悪くなったの?」
「は……きみじゃあるまいし」
「じゃあなんで、刀が欠けてるんだ」
鶴丸は平野に任せ、審神者は部屋の端の鶴丸国永――本体に歩み寄る。一応警戒するが、なにか悪しものが憑いているわけではなさそうだ。持ち上げ、ざっと確認してみるが、やはり真ん中あたりからかなり勢いよく欠けていて、これが腹の痛みの原因であることは明白である。
とりあえず応急処置だけでもと、審神者は刀の手入れを始めた。物である刀剣を直すには同じだけの物が必要だが、人間がとりあえず唾だけでもつけておくのと全く同様に、刀本体は審神者がなぜるだけでも案外効果がある。その証拠に、荒れていた鶴丸の呼吸は徐々に落ち着いてきていた。
処置を続けながら、審神者は鶴丸の傍らへと移動する。
「なんか、敵でも出たわけじゃないんだね?」
「……そうじゃない」
「主君。自分は念のため、周辺の見回りに行って参ります。お戻りの際はお声がけ下さい」
「頼む、平野」
しかと頷き、夜目の利く短刀は音もなく部屋を出ていく。見届けて、審神者は鶴丸へと視線を戻した。
「急にどうしたの」
「別に、いいだろ」
「よかないだろう。心当たりは? やっぱり寝相が悪かった?」
「……きみのせいだ」
はぁ? と審神者は遠慮なく聞き返す。が、鶴丸は眉間の皺そのまま、唇を固く結んで黙り込んでしまった。
沈黙の訪れた部屋に、夜の音が滑り込んでくる。風と、虫と、たぶんこれは、月の音。いいものだ、と審神者は思った。手元の刀をなぜながら、状況も忘れて、ひどく風流な心地を覚える。
「これに、乗じて……」
やっと口を開いた時、鶴丸は変な表情を浮かべていた。
「きみは、俺を折るかい」
いい加減、審神者は気分を害して顔を歪める。直し途中の刀を脇に置き、鶴丸の心臓に――人間ならば心臓があるだろう場所に、人差し指を立てた。
ここで、彼がなにを思っているのか、審神者は知らない。なんであれ、結局彼は預かり物で、いずれ相応しい審神者に譲渡するか、そうでなければ政府に返却するのだから、あまり突っ込んで親しくなるのもよくないだろうと考えたからだ。
これは、彼女の刀ではないのである。
「私があなたを折るのは、あなたが十分に元気で、健康で、良好な時だ。こんな騙し討ちみたいなことはしない」
「騙し討ちって……」
「私に約束を破らせるな、鶴丸国永」
証人になってくれた清光が可哀想だろう。
嘘みたいに言い添えて、審神者はまた刀の修復に戻る。
変だ、と鶴丸は思った。もう幾分か回復してきて、腹の痛みもましになってきたのに、さっきよりも全然、声が出せない。やっと聞こえる程度の呼吸をするだけで、精一杯だった。
すこぶる気分を害したらしい審神者は、憮然として聞く。
「もうこんなことは起きない?」
「こんなこと」
「夜中、急に、あなたが欠けて、私が起こされること」
鶴丸は瞳を細め、最後通告のように頷いた。
「きみが、愚かでない限りは」
翌朝、審神者は片眉を上げて怪訝そうな顔をした。
廊下の反対がわから、鶴丸が歩いてくる。調子はいたって普通そうで、昨夜の不調などなかったかのようだ。平野も、特段これといった異常はありませんでした、と早々に報告してくれたから、このまま何事もないのであればいいのだが。
しかし、まぁ、昨夜の今だ。審神者が軽く名を呼べば、鶴丸はばつが悪そうに少しだけ瞳を持ち上げ、すぐそらす。
「具合は?」
「もう、大丈夫さ」
「それはなにより」
「……」
その後、なぜか数秒ほど、沈黙が続く。あれ、と審神者は首を傾いだ。えーと、この間はなんだったっけ?
話すがことがないならとっとと移動すればいいのに、妙に物足りないというか、なにかを忘れている気がしてならない審神者は、つい鶴丸が口を開くのを待ってしまう。それに、彼も彼で、居心地が悪そうには悪そうだが、同時になにかを言いたそうにもしていた。
野生の熊と目が合った気分のまま、それでもしばらく待った審神者は、えーと、となんとか声を発する。途端、びくりと鶴丸が驚いたので、第二声は変に裏返ってしまった。
「なにか、お忘れではないでしょうか……」
「……なにも」
「そうだっけ。朝ご飯食べられる?」
「あぁ」
「今朝は光忠が当番らしいからね……」
やたら三点リーダーの多い会話をしながら、それでも一応、彼らは並んで広間へと向かう。終始、審神者はなんだか納得がいかなかった。
さて、この日の昼間のことである。昨夜の今日なので、審神者は念のため、出陣部隊に組み込まれている鶴丸に声をかけようと、彼を捜していた。
「鶴丸。今いい?」
「あぁ。なんだい?」
「今日も出陣してもらおうと思うんだけど、どうかな」
出陣部隊自体は、週の初めにおおまかなものを決めて周知させ、その時々に細かな調整を入れるのが、当本丸のやり方だ。そのため、例に漏れず鶴丸もかなり早々に自分の出番を把握できているのだが、審神者はいつも、彼に関しては直接確認するようにしていた。
分かっていたためか、厩舎の前で馬の世話をしながら待機していたらしい鶴丸は、しかし急に眉を寄せる。じぃ、と審神者の顔を見つめて、物言わぬままになにかしらの不満を訴えていた。
「……? 無理そう? 昨夜のこともあるし、難しいなら交代しようか」
「……。いや」
「平気?」
「問題はないさ」
はぁ、と特大の溜息を吐きつつ、鶴丸は結局了承する。なにがなんだか分からなくて、審神者はまた、納得がいかなかった。
それが一か月ぐらい続いてから、急遽、政府の役人が本丸にやってくる。定期訪問の日はもう少し先だったので、審神者は驚きながら迎えた。
「不吉なことが起きた感じ?」
「不吉っつーか……不明?」
「よくなさそう……」
審神者用の執務室に腰を据え、一応清光も同伴させ、役人が口を開くのを待つ。彼は持ってきた鞄からいくつかの資料を取り出し、それを審神者の前に並べた。
「鶴丸国永の穢れの値に、異常が見られる」
「えっ」
「と言っても、急増してるわけじゃない。今までを鑑みたら、妙だって話だ」
「ど、どういう具合で」
「減らなくなったんだよ」
指し示された資料は、穢れの量を数値化したグラフだ。審神者が鶴丸と出会い、彼を引き取ってから昨日までの間で、どのように推移してきたかが視覚的に理解できる。
役人の言の通り、途中までは、数値は微量ながらも常に減少を続けていた。元を百とするならば、確かに三か月ほどでちょうど半分にまで減っているので、半年で合格と言ったのも頷ける。
ところが、途中で急に横ばいになった。以降、いち増えることはなく、かといっていち減ることもなく、穢れは常に一定量を保ち続ける。時期はちょうど、一か月前。夜半、鶴丸が急に謎の怪我を負った頃だった。
審神者は表情を強張らせる。事の心当たりはあるが、なにが原因かが分からない。なぜって彼女は、結局あの日、なぜ鶴丸が急に欠けたのか、理由を知らないままなのだ。
「今までが順調だった分、こりゃ妙だってちと騒ぎになってな。心当たりは?」
「……あると言えばあるけど、理由は分からない」
「順調な経過をたどってたのに、途中で急に様子が変わる受験者ってのは、まぁいなくはない」
役人は話を切り替え、聞き方を変える。審神者は視線をグラフに固定させたまま、耳だけは熱心に傾けていた。
「そういう場合、問題はたいてい刀のがわにある。なんらかの事情で、穢れを消したくないって思ってな」
「でも、鶴丸はそんなはずない。あれは、試験の終わりを待ち望んでるはずだ」
「どういう理由で?」
「……試験の終わりを目途に、一つ、約束を交わしたから」
ふむ、と役人は考え込む。付喪神と約束? それはまぁ、別にいいのだが、内容を言わないあたり、あまり表立って公言できないような内容なのだろう。人間は嘘と誤魔化しを知る生き物である。
一方、審神者はわけが分からなかった。鶴丸は、あの鶴丸国永は、折られたがっているんじゃないのか。だから毎日のように、合格通知はいつ頃くる、きみは合格できそうかい、などと嫌味のように聞いてきたんじゃないか。望まぬ驚きで満ちたこんな世界と早々におさらばして、早くおのれの清らな本霊に還るために、折ってほしいとくどいぐらい頼んできただろう。
(なのに、この期に及んで、なにを)
――これは、俺の罪だ。
ふと思い出すのは、初めて鶴丸の穢れを目の当たりにした時の、彼の自称。
彼はあれを、罪だと言った。悔恨と懺悔の象徴だと。悔恨ならば、幾ばくか思い当たる節がある。鶴丸が、上手く言葉にできないぐらい憧れ、しかし最後になにを言ったかをどうしても思い出せない、彼の前の審神者を斬り殺した刀剣男士だ。同胞の嘆きを背負って、叛逆の咎を甘んじて受け入れた刀。かっこよくて強い彼の一番大事な思い出が曖昧であることを、鶴丸はひどく悔いている。
それを、清めるというのは、どういう意味なのだろう。審神者は初めて――四か月も経って初めて、彼の穢れをまともに考えた。私は、あの刀の、なにを清めようとしていたのだろう。
残り三か月で合格できると聞いた時、鶴丸は、なにを思ったのだろう。残り三か月で消える予定となった、おのれの穢れを、罪を、悔恨と懺悔の象徴を。
折ってほしい、終わりにしてほしい――いいや、失いたくない。
いったい、どれだけの葛藤を、あれは、一人で。
「演練に連れて行くってのは、どうだ」
その声で急に現実に戻された審神者は、え、と馬鹿みたいに繰り返した。んれん、と清光が後を続けてくれる。
「演練……は、駄目なんじゃ」
「値はだいぶ下がってるし、普段の様子を見る限り問題もなさそうだ」
「本当に? いいの?」
「どっちみち、お前、このままじゃ動かないだろ」
図星だったので、ぐ、と審神者は詰まってしまった。
政府お抱えの職業軍人である審神者は、国と呼ばれるいくつかの大きなグループに分かれている。その国ごとに、毎日近い練度同士の審神者が自由に集まり、お互いの刀剣男士を戦わせ、戦力の増強をはかる催しが、演練だ。日に二度開催され、そこではちょっとした情報交換から、諸事情による刀剣男士の譲渡など、審神者同士の様々な交流の場としての意味も持っている。
もちろん彼女も参加したことがあるが、鶴丸だけは連れて行ったことがなかった。理由は簡単、出陣と同様、政府に止められていたのである。そういうわけで、考えられる危険性も全く同じ。
しかし、役人は提案を覆す気はないようだった。
「俺も近くで見張るし、物は試しで」
「そんな勢いでいいの?」
「一回、触りだけでもいいから」
「そんな先っちょだけみたいな……」
「主、女の子なんだからそういうこと言うのやめて」
清光から脇腹を突かれ、腹を抱えてうめいたのを頷きと解釈しやがった役人が、すぐさま政府の方へ申請を出してしまう。根回しは済んでいたらしく、許可はその場で下りた。こいつめ。
そういうわけで明日、彼らは鶴丸を連れ、演練へ向かうこととなった。
演練会場はいつも、天気がいい。天気がいいように調整されているからだ。
歪で無味無臭な晴天を見上げて、鶴丸は、は、と息をはいた。ここは、あまり居心地がよくない。
人間を、おのれを鍛刀し、あるいはおのれを拾った審神者を慕い、忠を誓い、その傍らにあることを誇りに思い、その傍らを守れることを信念としている刀ばかりだから、どうにもばつが悪い。
だから鶴丸は、敢えて審神者が歩くリズムと少しずれて、彼女の半歩ともうちょっと後ろを歩いた。
「鶴丸。調子はどう?」
「変なとこあったら、すぐ言ってよ?」
「あぁ……」
審神者と清光に再三言われ、過保護だなァ、などと馬鹿みたいなことを思いながら、鶴丸はふいと視線を横へ滑らせる。
その瞬間、彼は瞠目し、呼吸を止め、足はその場に縫い留められた。
「――鶴丸さん?」
鶴丸の声を、もう少しだけ高くしたみたいな、青年になりかけの少年特有の声。特徴的な馬のしっぽは動きにあわせてひらりと止まり、元々大きな瞳は、さらに大きく見開かれている。
どこにでもいる、なんの変哲もない脇差、鯰尾藤四郎。だが、彼は、違う。
この、刀は。
「久しぶりですね、鶴丸さん。お元気でした、か」
「あぁ……鯰尾、お前こそ。あれから……なにも……」
お互いに、びっくりするぐらい下手くそな会話しかできない。驚きすぎて――伴って、あの地獄を思い出してしまって、喉がひりつく。
鯰尾と共にいた男の審神者は、前のか、と端的に問うていた。気付いた鶴丸のがわの審神者も、聞いて察する。清光と見合わせた顔は、いくらかは気まずそうだった。
この鯰尾は、鶴丸が所属していた前の本丸で一緒だった、かつての同胞だ。あの地獄をなんとか生き延び、別の審神者に引き取られた、生き別れの仲間である。会う可能性なんていくらでもあったのに、全く予想していなかった自分に、鶴丸は二度驚いた。
「俺は、結構前から演練に出てもいいって言われてて、今日も主さんに連れてきてもらってて」
「へぇ……俺は、今日が初だよ」
「鶴丸さんの主さんも、いいひとそうですね」
「……うん?」
素直に頷けなくて適当に誤魔化せば、鯰尾は片眉を上げる。別に言及はしなかったが、なんだその態度は、と暗に追及してきていた。
だが、なにも答えられない。審神者を主さんと呼ぶ鯰尾に、彼を見て、あの憧れのただ一人を思い出した自分に、鶴丸は愕然とした。ふ、と体から黒のもやが上がり、あ、と鯰尾が声を上げる。彼の審神者は眉をひそめ、清光は即座に刀に手をかけた。
鶴丸のがわの審神者は、そ、と彼の背に手を添える。
それだけで、黒のもやがおさまってゆく。すまない、と鶴丸は惨めに呟いた。穢れを出してしまったことではなかった。
「俺は、あいつを思い出せないんだ」
「あいつ?」
「あいつが、最後になんて言ったか、思い出せないんだ」
「……それは」
鯰尾の顔色が変わり、かすかに怒りが滲む。あの地獄を終わらせた、同胞の嘆きを背負って叛逆の咎を受け入れた、憧れのただ一人のことだから、流石に看過できなかったのだろう。あのひとは、と鯰尾藤四郎にしては低い声で、彼は鶴丸に詰め寄った。
「あのひとは、覚えてもらうために、あの審神者を斬ったんじゃない」
「……俺には、分からない」
「俺は分かる。鶴丸さん、もっとちゃんと主さんと話した方がいいよ」
「なんのために」
「わ……私も、もうちょっと話してもいいかなとは、思ってるよ」
自分の存在を指されたため、審神者はここぞとばかりに割り込む。と、言う割にはだいぶ遠慮していたが、鶴丸は金色の瞳を彼女に向け、きみが? と呆然と呟いた。
いささか突然の心変わりに見えて、驚いているのだろう。そりゃそうだ、と審神者は内心で自嘲する。なにせ、四か月も経ってやっと、鶴丸の持つ穢れの意味を考え始めたものなので。
ところが、鯰尾はいよいよ呆れの目を鶴丸に向けた。なんだかよく分からないが、なにかがずいぶん気に入らなかったらしい。
「鶴丸さん、俺、それはどうかと思う」
それきりすっかりぶすくれてしまった鯰尾は、うんともすんとも言わぬ。彼の審神者は、うちの鯰尾が悪いな、とぶっきらぼうに頭を下げながら、彼の背を押して立ち去って行った。なんだかんだ、仲はいいらしい。
残された審神者は、横目で鶴丸を見上げる。苦しそうに黙りこくる彼に首を傾いでから、とりあえず演練の申し込みのため、受付に行こうと踵を返した。
「――あ」
が、思わず零れてしまったような音が聞こえたものだから、返したばかりの足を元に戻す。振り返れば、鶴丸は瞳を瞬かせ、絵に描いたような、しまった、という顔をしていた。
「どうしたの」
「……。きみ、の、髪に……ごみが、ついてる」
「えっ、本当? どこ?」
後ろで清光が眉をひそめたことにはもちろん気付かず、審神者は鶴丸に駆け寄り、とってもらうよううながす。鶴丸は幾度か躊躇ってから、そうっと手を伸ばし、審神者の髪に触れた。
ごみをとるというか、むしろごみを付けたんじゃないかと思う程の柔い接触の後、白く骨ばった手がゆっくりと離れてゆく。それを何気なく目で追った審神者は、え、と驚いた。
「鶴丸、それは……」
「とれたぞ」
「いや、だから、それ」
「きみに、こんなものは、いらない」
ふ、と鶴丸の指先から、黒いもやが消し飛ばされる。
それはごみではなく、人間が言うところの彼の穢れで、彼が言うところの罪で、悔恨と懺悔の象徴ではなかったか。
なにも言えず、審神者はただ黙っていた。
そして、演練終了後の午後がやってくる。鶴丸はきっと、折れるまでこの日を忘れない。
演練それ自体は、気持ちのよい勝利で幕を閉じた。清光の指揮の下、部隊は見事に陣形を整え、作戦通りに動けたのだ。鶴丸もそう滅多にない程の快勝に、心地よさを覚える。
鯰尾と再会してからこちら、気まずい空気で黙り込んでいた審神者も、気分がいいのか律動的に歩いてゆく。鶴丸もほのかに相好を崩しながらその半歩後ろを歩いていたのだが、不意に届いた声と、音が、それら全てを台無しにした。
「……あれは」
「あれ、前に回覧で回ってきた審神者じゃない? 主、見覚えあるよね」
「あるね。厳重監視してるって、前に役人が言ってたよ」
会場の端の方で、一人の男性の審神者が、引き連れていた近侍にひどい暴言を浴びせている。負けたのか、あるいはよっぽど腹に据えかねるなにかがあったのかは分からないが、いくらなんでも度が過ぎていた。怒鳴られている近侍は、ぼろぼろの体を小さくさせながら、黙って耐えている。
演練は、審神者同士の交流の場だ。その戦いに不正や手抜きがあってはいけないので、原則、開始前に全ての刀剣男士が無料で手入れを受けられる手筈となっている。もっとも、あくまで一時的な措置らしく、終わり次第元の状態に戻るのだが、中傷や重傷を負った状態の刀剣男士を連れてくる審神者など、そうはいない。他人の目にそれがさらされた時、当たり前に謗られるからだ。自己管理も社会人の義務の一つであるように、刀の体調管理も審神者のお役目である。
だが、あの近侍は重傷もいいところの状態だった。というのは、怒鳴りつけている男性が、界隈でも有名な悪質な審神者だからである。それも、外面すら気にかけない最悪のタイプだ。ゴーイングマイウェイもあそこまでいくと天災って感じ。
ひどいな、と審神者は眉をひそめて呟く。
あんまり注視していたから、傍らの鶴丸の行動に気付くのが、一瞬遅れた。
「――助太刀いたす」
いつの間にか男性と近侍の間に割って入っていた鶴丸は、知らぬ間に抜刀し、しかもそれを男性に向けていた。金色の瞳にはごうごうと炎が宿り、想像を絶する憎悪と敵意が燃やされている。
急に真っ白な背中に庇われた近侍は、うつくしい空色の瞳を瞬かせ、あんたは、と問いかける。その一瞬だけ、鶴丸の瞳が揺らいだ。
「和泉守兼定」
「あ、あぁ……」
「なんであれ、その名を持つ刀は全て、俺の憧れだ。これ以上、汚させはしない」
あぁ、と鶴丸のがわの審神者は、ここで理解する。そうだったのか、と彼女は口内で納得した。
前の本丸の審神者を斬り殺したのは、和泉守兼定である。彼お得意の口上、かっこよくつよぉい、を鶴丸はそのまま本人の特徴として言っていたから、そうじゃないかとは思っていたが、案の定だった。
得心も束の間、会場は徐々に騒ぎになり始める。刀剣男士が人間に刃を向けるのはご法度だ、即刀解されても文句は言えない。なるべく早めに、かつ穏便に事を収めなければ、取り返しのつかないことになるだろう。
審神者は清光の手を借りて、できつつある人の波を越えようと右往左往した。ざわめきのむこうから、男性の怒鳴り声が聞こえてくる。なんだこの失礼な刀、責任者を出せ、お前の審神者はどこだ、とかなんとか。ここだここ! と審神者は必死になって前へと進む。
斬っちゃ駄目だ、鶴丸。審神者はもう、彼が言った懺悔がなにを意味するのか、分かっている。だから彼は、憧れと同じ名を持つ刀を見た途端、迷う間もなく駆け出したのだろう。でも、斬っちゃ駄目だ。気持ちは全く分からないけど、いやもう、それでもどうしても斬りたいと言うのなら最悪止めないけど、まずこちらの話を聞いてくれ。
清光が、指先で、審神者の背を押す。彼女は地震を起こすぐらいの気概で踏み出し、腹に力を込めた。
「鶴丸国永ァ!」
――静寂が訪れる。
人の波は審神者を中心にのいていき、和泉守兼定は立て続けに起きた驚くべき出来事に、目を白黒させている。
鶴丸国永は、なんでか泣きそうな顔で、審神者へ振り向いていた。
「あなたは、その人間を、斬らなくていい」
「……なぜ」
「その人間のために、あなたが、刀を汚すことはないからだ」
途端、男性は顔を真っ赤にしたが、抜刀した刀剣男士に睨まれては、流石に生きた心地がしないのだろう。蛇に睨まれた蛙もかくやだった。
審神者は、ゆっくりと区切りを入れながら音を紡ぐ。きちんと伝わるためか、自分の呼吸を途絶えさせないためか、それはよく分からなかった。
「どうか、刀を下ろしてほしい」
「だがこの人間は、おのれの刀を汚した。それはいいのか」
「よくない」
「なら」
「でも、鶴丸。私は知ってるけど、あなたは、あなたの憧れの刀じゃないんだよ」
その瞬間、審神者は理屈関係なしに、あ、と気付いた。
今、鶴丸の穢れが、大きく祓われた。金色の瞳が震え、刀を握る手の力が弱まる。
弱々しい声が、すがるように響いた。
「きみが、そう言ってくれるのなら」
「うん」
「そう、心から想ってくれるのなら」
「なんだろう」
「そうせよと、俺に命令してくれ」
今度は審神者の瞳が震える番だった。なぜならこの四か月、彼女はその一線だけは決して越えなかったからだ。
命令をするということは、相手を自分の下に置くということだ。すなわち、主が、おのれの刀剣男士にする行為である。出陣をせよ、内番をせよ、おつかいに行け、そう命じて、審神者はおのれの義務を果たす。
ところで彼女は、この鶴丸をあくまで預かり物と認識していた。くるべき時がくれば、相応しい審神者に譲渡するか、そうでなければ政府に返却する存在。ひと様からの借り物を粗雑に扱う人間は、そうはいないだろう。だから、出陣を頼む際は必ず直接話して意思を確認したし、内番にしても必ず顔を見に行って、経過を問うた。そして、それら全てにおいて、審神者は決して無理強いをしなかった。これを頼もうと思うんだけど、どう、できる? そう尋ねて、あくまで鶴丸の判断に委ねていたのだ。
審神者は、鶴丸に命令をしたことがない。彼女のものではないからだ。
主、と後ろから声が聞こえる。清光の声だ、初期刀の呼びかけだ。初めてそう呼ばれた時、歓喜と誇らしさに胸が震えたことを、審神者はよく覚えている。嬉しいな、と彼女がはにかめば、俺も嬉しい、と清光も笑ったものだった。
目を閉じて、呼吸をする。再び目を開け、審神者は腹を括った。
「――刀を下ろしなさい、私の鶴丸国永」
金色の瞳が、とろりと溶ける。
鶴丸は、心から誇らしそうに、うっとりと応えた。
「――あぁ、俺の主」
き、という短い金属音と共に、鶴丸国永の本体がしまわれる。途端、男性は立ち上がって歯向かおうとしたが、既に周囲を包囲していた政府の役人に取り押さえられていた。以前から目をつけられていたから、事情聴取という名の拘束だろう。鶴丸が、と審神者は慌てたが、視界の端に見慣れた役人の姿をとらえて、思わず駆け寄った。
が、彼は口元に人差し指を立てる。
「俺がどうにかしておくから、お前は始末書の内容だけ考えてろ」
「惚れちゃいそう」
「やめろ、今度は俺が斬られる」
金の瞳を鬱屈そうに細めた鶴丸を見て、役人は苦笑する。それでから、手の内のなんらかの計器をのぞいて、は、と笑った。
立ち去りながら、彼は審神者の額を手の甲で小突く。
「よくやったな」
怒涛のように役人の山が場を片していき、後には審神者と鶴丸、それから説明を受けている和泉守兼定だけが残される。彼も鶴丸と同様に、政府に保護される形になりそうだ。
審神者の無言の圧を受けて、鶴丸はおのれに正直に、彼へと駆け寄る。唖然としていた空色の瞳は、ひどく複雑そうに揺らいだ。
「……庇ってくれたことは、ありがとな」
「あぁ」
「ただ、まぁ、なんだ……あんなでも俺の主だったから、そこについてはちと複雑だけどよ」
「……あぁ」
頷いて、受け入れる。いまいち割り切れていない和泉守に、鶴丸は口を開いた。
「俺も、前の本丸では、虐げられてたんだ」
「あんたが?」
「地獄だったよ。折れた同胞の数なんざ覚えていない。だが……」
ふ、と瞳を閉じ、またすぐに開く。目の前には、確かに重傷でぼろぼろだが、それでも生きている和泉守がいた。生きている、物。生き物だ、と鶴丸は思った。
「和泉守兼定が、審神者を斬ったんだ」
「! あんたんとこの俺がか?」
「最後は刀解されたが、お陰で俺は、今ここにいる」
上手くまとまらないが、なんとなく鶴丸が言いたいことは伝わったのだろう。そっか、と和泉守は呼気を零した。今、天上にある無味無臭な晴天とは全然違う、晴れやかな顔だった。
「その俺は、きっと誰よりもかっこよかったんだろうな」
瞬間、鶴丸は全部思い出した。急に、なにもかも、鮮明によみがえった。
地獄と化した本丸の惨状を見て、あの和泉守兼定は立ち上がった。審神者を斬り殺し、政府に連絡を入れ、叛逆の咎を甘んじて受け入れる。刀解のためにやってきた審神者を前に、あの男はずっとまっすぐ、前を向いていた。
ところが、最後の最後だけ、鶴丸達同胞へ振り向いて、言ったのだ。あぁ、あれは、たしか――。
――兼さんかっこいい、惚れちゃう……って?
そう言っておかしそうに首を傾いだ彼に、まず真っ先に堀川が反応した。かっこいいよ、と聞こえぬぐらいの声で呟いてから、誰よりもかっこいいよ兼さん! と急に大声で叫ぶ。追随して、かっこいいよ兼定、お前ちょっとずるいぐらいかっこいい、と清光と安定が続き、そこからはもう、兼さんかっこいい、の大合唱だった。
一通りいつも通りの、それでいていつも以上の称賛を受けた和泉守兼定は、に、と大きく笑う。
――だろ?
彼が、ただの玉鋼だの冷却水だのになり果ててからも、幾人かは、お前かっこよすぎるよ、と零していた。
鶴丸はそれを、ずっと忘れていた。あんまり喉が詰まって、かっこいいと、言ってやれなかったからだ。
刀のくせに、と彼は言った。
「今の今まで、忘れてた」
朽ちぬ限りは在る刀のくせに、ほんの少し前のことすら、忘れてしまっていた。和泉守は、複雑そうに瞳を細める。
それを見て、まぁ所詮は物だからね、と審神者は言った。は、と鶴丸が金色の瞳を向け、怪訝そうな空色の瞳が、彼女を射抜く。
と、と鶴丸の左胸――きっとひとが心と呼ぶものがあるのだろうところを叩いて、審神者は口角を上げた。
「でも、心がある。私はそれを、知っている」
苦しむのも、穢れるのも、忘れるのも、思い出すのも。
刀剣という物だが、人間の姿を与えられ、人間の心で解釈され、今ここに生きている。生きている、物だ。
彼らは確かに、心ある生き物なのだから。
鶴丸も、今やっと、初めて、それを理解した気がした。
「合格おめでとう」
端末のむこうがわから、聞き慣れた声が、そう簡素に祝う。急な連絡に驚いていた審神者は、二度続いた驚愕に対応しきれず、は、と呼気を零すに留まった。
演練会場での騒動から数日後、無事始末書も書き終え、なんとか後始末を片した審神者の元に、政府の役人から連絡が入る。開口一番、彼はそう言ったのだった。場所を選んでくれ、と言われたので、一応例によって審神者用の執務室だが、近侍としてそばに控えていた清光も、瞳をまんまるにして驚いている。
「えっ、なん……なんで?」
「本当は先日の時点で穢れはゼロになってたんだが、様子見ってことで今日まで待った。面白いから、通知より先に教えてやろうと思って」
「面白い?」
面白いというか、確かに興味深い事態ではあるのだろう。順調な経過をたどっていた鶴丸が、三か月を境に急に穢れの低下をやめにした。恐らくは、本人になんらかの事情が生じて、意図的に清らであることを拒絶したのだろう。
それが一か月続いた時点で、審神者もその事態を把握した。だから、膠着状態の打破を目指して、演練に連れて行ったのだ。そこで、まぁ、確かに色々あった。心境に変化が起こっても不思議じゃない程、鶴丸に関わるあれやこれやが。
しかし、それで急にゼロになったというのはおかしな話じゃないだろうか。三か月経った時点で残っていた穢れは、元の半分。それが一か月、増えることも減ることもなく残り、ところが演練から数日経った時点で突然なくなる。上りと下りじゃあるまいし、その差はなんだ。
「演練会場で、ある時点で急激に値が減った。いつか分かるか?」
端末のむこうがわから、まるで学校の授業のように役人が聞いてくる。
審神者は臆病に目をそらしながら、それでも頷いた。
「あの、例の審神者を斬ろうとした鶴丸を、私が止めようとした時」
――私は知ってるけど、あなたは、あなたの憧れの刀じゃないんだよ。
憧れをなぞるかのように人間を斬ろうとした鶴丸を、審神者はそう言って止めようとした。別に、彼自身が本当にそう思って行動したとは、彼女も考えていない。ただ、四か月一緒に過ごした中で、なんとなく鶴丸ならそういう理由でそうするだろうなと推察したから、ああやって言っただけだ。
役人は頷き、それが一度目だ、と続ける。
ところが、それをも上回る二度目の減少が――鶴丸の罪がゼロになる瞬間が、あの日あったのだ。
「いつだと思う?」
「……和泉守と話した時」
「お前が鶴丸国永に、私のって言って、鶴丸国永が、俺の主って言った瞬間だよ」
――刀を下ろしなさい、私の鶴丸国永。
――あぁ、俺の主。
審神者が腹を括って、越えてはならぬと踏ん張っていた最後の一線を、越えた瞬間。
それが、最後のトリガーだったと? あれ、と審神者は思った。だって、あの鶴丸は折られたがっていた。だがそれは、彼の穢れがなくなった時にこそ果たされる約束だ。なんとか生き延びた地獄の記憶、終わらせてくれた刀への憧れ、最後の一言を思い出せぬ苦しみ。それらがまぜこぜになって、鶴丸の穢れを形作っていたはずだ。だから、早く折ってほしいのに、穢れよ消えてくれるなと願ってしまう。
だから、清らになることを拒んだんじゃないのか。そうじゃないとおかしいだろう。そうじゃなきゃ、まるで――。
(まるで、鶴丸が、私を)
――鶴丸さん、もっとちゃんと主さんと話した方がいいよ。
不意に思い出すのは、あの鯰尾の言。
画面の前で固まってしまった審神者を見て、清光はしょうがなさそうに笑った。
「そろそろ答え合わせしようか、主」
――合格通知がきた。あなたの好きな時に、私の部屋にきなさい。
本物の通知書を手に、敢えて大勢の刀剣男士がそろっている大広間でそう言った審神者は、ちらりとも笑っていなかった。それを鶴丸は、嬉しく思う。彼女も彼女なりに、この鶴丸の終わりに思うところがあるみたいだから。
合格が、単なる試験の終わりじゃないことを察していたらしい者達は、皆口々に、そこはかとなく、鶴丸との別れを惜しんでくれた。明日は君の好きな十色丼のつもりだったんだけどね、と歌仙が苦笑する。虎さん達はお仲間だと思っていたみたいです、と五虎退は精一杯に明るく教えてくれた。静かになるな、とは大倶利伽羅。大典太は黙って、頭をなぜてくれた。
どうなるだろう、と鶴丸は思う。それもこれも、彼の主次第だった。
「俺は、外で待ってるよ。万が一、邪魔が入ってもいけないしね」
清光はそう言って、部屋の外に出てくれる。あぁ、頼むよ、と審神者は静謐に言った。
さて、と彼女は言う。約束の時だった。
「約束通り、私はあなたの望み通りに振る舞おう。鶴丸国永、あなたは私に、どうしてほしい?」
「……まず、俺の話を聞いてくれないか」
「いいよ」
頷き、審神者はお茶を二人分淹れる。そういえば、こうして彼女に振る舞ってもらうのは初めてだなァ、と鶴丸は思った。彼女はこの本丸のお殿様なので、専ら振る舞われるがわなのだ。
ずず、と音を立ててすする。特別に美味しいわけでもなんでもなかったが、鶴丸は満足だった。
「俺の穢れは、前に言った通り、俺の罪だ。悔恨と懺悔の象徴」
「そうだね」
「俺だって、ずっと思ってたんだ。あんな人間、いつか絶対斬り殺してやる、いつか絶対斬り刻んでやるってな」
そう幾度も誓い、誓っただけで幾年も過ぎていった。その間、折れた刀の数、捨てられた同胞の数、数えちゃいない、覚えちゃいない。そんなことをしたら、きっと今頃、鶴丸の身はここにはないだろう。長い時間を生きるコツは、くよくよしすぎないことだ。
ところが、まるでその誓いを聞いていたかのように、代わりを担ってくれたかのように、立ち上がるただ一人がいた。
「悔いたさ、自分を折りかねない程に。立ち上がってくれたのはあいつだが、あいつである必要はなかった。俺でもよかったんだ」
「そうだろうね」
「例えば、急に俺にとんでもない勇気が宿って、迷う間もなくあの人間を斬り殺して、そうすれば刀解されるのは俺で、あいつは、あのまま他の審神者に引き取られて」
「でも、そうはならなかった」
そうだ、と鶴丸は吐き出した。惨い悲しみと憤りだった。
「どれだけ懺悔したって足りない。俺がやればよかったのに、臆病な俺は、できなかった」
「……」
「その上、あいつの最後の願いまで、叶えてやれなくて」
あの和泉守兼定は――審神者が会ったことのないその男は、最後に、救った同胞に、褒めてもらうだけでよかった。それこそ、蛍丸が主に誉をねだるのと全く同様に、ただかっこいいと言ってほしいだけだったのだ。
ところが鶴丸は、その時既に悔恨と懺悔でいっぱいで、彼の最後の願いすら口にできない。そした気付いた時には、憧れのただ一人はとうに資源の山になっていた。
また、悔恨と懺悔が積み重なる。俺が立ち上がればよかった、俺が斬り殺せばよかった、どうして最後の望みすら叶えてやれない、どうしてあいつが資源になって、俺が今ここにいるのだろう――。
思い出せなくなるわけだ。だって刀剣男士は、人間を模して形作られている。人間が持つところのトラウマという機能を、鶴丸は立派に発動したのだ。あんまり惨くて、あんまり辛くて、あんまり苦しいから、思い出せないよう鍵をかけて、奥の奥へとしまいこむ。それがまた、おのれに痛みをもたらすことを、よく自覚していながら。これが、鶴丸が持っていた穢れの、根本的な原因だ。そう称すにはあまりに人間的で優しい、うつくしく清らな穢れ。
鯰尾も、そりゃ怒るだろう。呆れるに決まっている。和泉守は、そのために審神者を斬り殺したわけじゃないし、かっこいいの一言をねだったわけでもないのだから。かっこいいと思わなくていい、忘れてくれたって全然構わない。ただ和泉守は、彼自身の心に従って、そうしただけだ。まして鶴丸が悔恨と懺悔を抱くなど!
彼も、今はもう、それをよく分かっている。思い出したからだった。
「望まない驚きと、なにより無力な自分が厭わしくて、早く折ってほしかった。早く折ってもらおうと決めてたんだ」
「だから、私に頼んだ」
「なのに、きみが」
刀剣男士の本質は、刀だ。人間に使われるために作り出された道具だ。だから、十全に、かつ丁寧に使われると、かえって健康になるという特徴を有する。
地獄を越えた先に待っていたのは、誇りと歓喜に彩られた、普通の日常だった。畑仕事をして、出陣して、おつかいに行って、時折、書類仕事の手伝いなんかして。普通で、ありふれて、当たり前で、なんの変哲もない、たいらかな日々。
たったそれだけが、鶴丸には嬉しかった。誇らしかった。刀としての本質が、道具としての性が、毎日、毎秒満たされてゆく。きちんと使われて、丁寧に気遣われて、まぁたまに物騒なこともあったようなかったような、だがそれも楽しかった。
その矢先に、終わりを提示されてしまう。
「あと三か月と言われた時、ひどく恐ろしく思った」
「……なんで?」
「きみと一緒にいられる時間が、それだけしかないと思ったから」
は、と審神者が息を飲む。それは、彼女の知らぬ葛藤だった。
「それでいいと思ったのに、きみと離れることを嫌だと思った。そのせいで会話の糸口がつかめなくなるし、だいたいまだ命令してもらってないし、このままじゃあとても終われないだろ」
「……そういえば、いつ頃からか、そろそろ折る気になったかいって言わなくなったね」
それを言わない――言えなくなったせいで、口数が少なくなり、沈黙漂うこと多数。様子のおかしいことに気付いた審神者が気を遣い、今日は出陣やめようか、なんて言ってくるが、つべこべ言わずにとっとと行ってこいと命令してほしかった鶴丸には、もうどうしようもない二重苦でしかなかった。
穢れが減らなくなったのは、これが理由だ。減らないということは、審神者が試験に合格できないということ。約束の終わりは合格通知がきた時なので、生涯こなければ、生涯終わらない。鶴丸はおのれの中に潜む悔恨と懺悔を幾度も思い出し、加えて審神者から与えられる手前勝手なストレスをわざと強く意識して、穢れを保とうとした。努力の方向性が迷子すぎる。
そして、例の日がやってくる。
「きみは、俺が和泉守をなぞろうとしたことを、止めただろう」
「……まぁ、止めたね」
「あれで、急に楽になったんだ」
自分だってあの地獄が憎かったのだから、なにも和泉守ではなく自分が手を下せばよかった。無力で臆病な自分だったばかりに、和泉守が罰を受ける羽目になった。あぁ、なんて厭わしい、憎らしい!
そんな悔恨に、懺悔に、あの日あの時、審神者は首を横に振ってくれた。あなたは、あなたの憧れの刀じゃないんだよ。あのたった一言に鶴丸がどれだけ救われたか、彼女には分からないだろう。確かに、和泉守である必要はなかった、でも、あなたである必要もなかった。そうさ、手を下したのはあなたの憧れの刀であって、あなたではないのだから。
そう言ってくれる審神者だから、鶴丸は共にいたいと願ったのだ。自ら清らであることを遠ざけて、彼女を不出来にさせた。
だからこそ、羨ましく思ったのだ。
「清光とかは、まぁ元々そうだから分かるが、鯰尾までそうだったのには焦った」
「なにが?」
「きみを、主と呼ぶことだ」
「……え?」
「なにせきみが、最初にそう言ったものだから」
――だってあなたは、私の刀じゃないだろう。
約束を交わした日に、審神者は確かにそう言った。そしてそのせいで、鶴丸はずっと、ずぅっと、彼女のことを主と呼べなかったのだ。
もちろん、そのために審神者だって鶴丸に命令をしなかったという経緯がある。あくまで預かり物で、いずれ自分の元から去るはずの刀だから、おのれ麾下に置いてはいけないと判じたのだ。ということは、鶴丸だってそれに従わざるを得ない。
理解はできた。清光や小狐丸、蛍丸が目の前で臆面もなく主だのぬし様だのと呼ぶのを聞いて、内心めちゃくちゃ羨ましかったが、彼らは最初から、彼女の刀だ。だから、まぁ、諦めがついた。最初からそうである刀と、最初からして違うし、今もって異なるおのれとでは、これだけの違いもあるだろう、と。
ところが、演練会場で鯰尾と会った時、事情が変わった。彼は確かに呼んでいたのだ、主さん、と。その上で、鶴丸が審神者のことを、きみ、と呼んだから、余計に呆れたのだろう。あんたなにをどうしたらそんなひねくれた関係になるんですか、みたいな感じで。
あんまり羨ましかったから、その時はつい欲が出た。
「……もしかして、あの時、あって声を出したのは」
「……。主と呼ぼうとして、慌てて止めた」
「髪にごみもついてなかったんだろう」
「あれは咄嗟に穢れを出して誤魔化した……」
――あ。
あ、髪にごみがついていますよ、ではなく、あるじ、の、あ、だったわけだ。誤魔化そうとして穢れを出すとか、どんな反則技。聞こうとした審神者を遮って言葉を重ねたのは、聞かれたら誤魔化しきれないと踏んだからだろう。この刀はまた変な方向に努力したのである。
だが、かつて自分を救ってくれた憧れと同じ名を持つ刀が、虐げられている場を見てしまった。咄嗟に割って入り、それでも止めようとした審神者の言葉を聞いて、鶴丸はもう、我慢できなくなったのだ。
そして審神者は――彼の主は、応えてくれた。
「なぁ、もう一回言ってくれないか」
「なにを」
「俺の穢れがなくなった瞬間を知ってるんだろ? さ、頼む」
ぐ、と詰まった審神者は、それでも今日ばかりは幾分か甘いようだった。
「私の、鶴丸国永」
あの瞬間の幸福を、鶴丸は折れるまで忘れない。またうっとりと金の瞳をとろけさせて、あぁ、と彼は言った。あぁ、俺の主。
「俺はどうしたらいい?」
「望みを、聞かせてほしい。その通りに、私は振る舞うから」
「なんでそんなに怖い顔をしてるんだ?」
「だって、折るんだろう、私は」
あなたを。
瞳を下げて、鶴丸を見ず、審神者は答える。苦々しげに固められた唇を見て、鶴丸はまた嬉しくなった。
それと同時に、く、と笑ってしまう。約束は約束だ、それはすべからく守られるべきものである。
「なんで笑うんだ」
「まるできみが、俺を折りたくなく思ってるように見えたから」
「当然だろう」
「そんなきみに朗報だが、実は俺は、もう既に一回折れている」
途端、部屋の中の空気が固まった。今の今まで難しい顔をしていた審神者は急にぽかんとし、まじまじと鶴丸を見つめる。最高の瞬間だ、と鶴丸は思った。主にこんな顔をしてもらえるなら、黙っていた甲斐があったというものだ。
「な、んで」
「きみのせいだ」
「そ……」
れは、と審神者は呆然と続ける。全く同じ文言を、かつて聞いたことがあったからだ。
――よかないだろう。心当たりは? やっぱり寝相が悪かった?
――……きみのせいだ。
夜中、急に刀が欠けた鶴丸は、原因についてそう答えた。結局なにも分からないままだったあの日の謎が、今やっと、告げられる。
「折って終わりにしたいと、思ってたんだ。本当だ、嘘じゃない」
「……そうだろう、けど」
「なのに、きみと一緒にいたいと思った。きみと一緒にいたいから折ってほしくないと思ったら、折れたんだ」
終わりにしたいという、その意思が。
屁理屈だ、と審神者は首を横に振る。約束は、約束だ。守られるべきだ、たとえそれがどんなに嫌なものであっても。
それに、と鶴丸は言った。ひどく得意げな顔だった。
「きみ、あの日、なんて言った? 約束の内容、もう一度言えるか?」
「……もし私が合格したら、その時にはあなたの望み通りに振る舞おう」
「それから?」
「いつか必ず、あなたを折ろう……」
「さぁ、俺の主。きみは、合格したら折ると、そう言ったかい?」
「屁理屈だ……」
「いいや、約束さ」
合格した暁に審神者がすべきことは、鶴丸の望み通りに振る舞うことだ。折るのは単に、いつか必ず、というだけのことである。
そして事実、鶴丸は一度、折れている。他らならぬ審神者の手――いや、手というか、振る舞いだが――によって。
ならば――ならば? えーと、と審神者は間を繋ごうとした。どうにも、いいように言いくるめられている気がしてならない。
「つまり……?」
「あぁ、つまり?」
「私は、これからもあなたの主で、あなたは、これからも私の刀ということ?」
「その通りさ、主!」
こんなのは聞いていない、と審神者は言った。瞳はまんまるで、泳いで、なにを言ったものか、どうしたものかと惑っている。
鶴丸は手を伸ばし、審神者の頬をなぜた。金色の瞳はめいっぱいに輝き、誇りと歓喜とを叫ぶ。
それは、この鶴丸国永が生まれて初めて口にした、彼の代名詞だった。
「――どうだ、驚いたかい?」
<了>
(幸運を祈る!)