野辺を巡れば春のうた

星も眠る深夜、米花町はすっかり静まり返っていた。一日を終えて眠りについた街並みは、昼間の喧騒が嘘のように夜の闇にしずかに揺れている。住宅街に行儀よく建ち並ぶとあるアパートの一室で、わたしはPCの画面と睨めっこをしていた。照明を抑えられた部屋に据えられたデスクの中央にはラップトップが置かれ、その両隣に複数のモニタが鎮座している。そのデスクに向かったわたしは、中央に置かれたラップトップの画面を見詰めながら素早くキーボードを叩いていく。幾重にも張られた警戒網を破壊し、相手を攪乱してその防御網の僅かな隙間を掻い潜って抜け出す。そんなことを暫く繰り返して、漸く探し物・・・に辿り着いてわたしはほっと息をついた。──これで奴らも“この件”に関しては手出しは出来ないだろう。忌々しげに顔を歪める黒服たちの姿を想像して、わたしは満足げに微笑んだ。侵入していた形跡を一つずつ消し終えて、一段落ついたところで張り詰めていた集中力が途切れ、凄まじい眠気に襲われる。
──駄目だ、眠い。
PCの電源を落とすと同時に、わたしの意識は闇に落ちた。



──これは夢だ。
夜空を背後に火の手を上げて燃える建物を見ながらわたしは思った。これは夢だ。ただの悪夢。これは現実ではない。...だから、怯える必要はない。そう自分に言い聞かせつつ、目の前に広がる惨状を見つめる。

音を立てて燃え盛る炎、焼け落ちるついさっきまで家だったもの。「逃げろ!」「早く、」強く腕を引かれて振り返っても、四方を煙に囲まれて何も見えはしなかった。ただ怒号と悲鳴だけが耳の奥で木霊して、「だれか、たすけて」、無理矢理絞り出したその小さな声は誰にも届かない。

──きっとあのとき、わたしは一度死んだのだ。


久々に嫌な夢を見た。長い午睡から目を覚まして、わたしは眼裏まなうらにはっきりと焼き付いた悪夢を掻き消すように強く目を擦った。ちらりと見た時計の針は午後四時過ぎを指していた。あれから一度は目を覚ましたのだが、遅めの朝食兼早めの昼食を摂って、片付けを済ませた後にそのまま転寝してしまったのだろう。やはり、“例の組織”に関する仕事は難易度が高い。...昨晩のわたしの行為は、言わずと知れたハッキングである。とある事情からわたしは高校生の身でハッカーとして活動し、ある国際犯罪組織を追っているのだが...まあそれは追々説明するとして。
点いたままになっていたテレビの電源を落とすと、少し寝すぎたな、と思いながら徐に立ち上がる。手早く身支度を整えて、閉じていたPCを立ち上げて連絡が入っていないことを確認してからわたしはアパートを出た。

○●○

もうすっかり通い慣れたエントランスを通り抜け、時々すれ違う人々に軽く会釈する。
「あら、棗ちゃん。また来てくれたのね」
エレベーターで目的の階まで上がり、ナースセンターをすっかり顔馴染みになった看護師にそう声を掛けられた。
「こんにちは、相馬さん。○○○号室ですよね?」
部屋番号を確認するとそうそう、と頷いてくれた彼女に軽く会釈をして少し歩くと、わたしは一つの病室の前で足を止めた。小さくノックを二つ。「入るよ」、そう声を掛けて扉を開ける。そこではベッドに一人の女性が幾つもの機械に繋がれて、静かに眠っていた。
「──母さん」
ベッドの脇に腰掛けて、わたしはそっと眠る女性──母に話しかける。最近また新しい料理を覚えたこと。うっかり皿を割ってしまったこと。偶然見かけた虹が綺麗だったこと。日常のささやかなあれこれを一頻り話し終えて、わたしはゆっくりと椅子から立ち上がった。
「...今日は久しぶりにあの夢を見たの。...安心してね、真実は必ず突き止めるから──わたしが、この手で」
誰にも聞かれないような小さな声で、わたしはそっと囁く。胸の中に渦巻くどす黒い感情を抑え込むようにぎゅっと目を瞑った。窓からちょうど差し込んできた西日が眠る母の顔に陰影を浮かび上がらせる。
「...それじゃあ、行くね。また会いに来るから」
静かにカーテンを閉めると、静かに眠り続ける母にそう告げて、わたしは病室を後にした。

帰り際にナースセンターで相馬さんに挨拶を済ませて病院の外に出ると、見計らったようなタイミングで携帯が震えた。着信の相手をちらりと確認し、ひとつ深呼吸してから応答ボタンを押す。
「もしもし、...ああ、どうでした?」
言外に昨夜の件について首尾を訊ねると、電話口の相手──依頼人は笑みを含んだ声で言った。
『素晴らしかったよ。...流石は稀代の天才と謳われるだけある...次からもよろしく頼むよ』
「...それはどうも。こちらこそ、よろしくお願いしますね...次があれば。それでは、失礼します」
それだけ告げて電話を切る。画面を確認すると、既に午後六時近い時間になっていた。見れば確かに、辺りには夕闇が顔を覗かせている。そろそろ帰って夕食の支度でもしよう──そう思って歩き出したとき、背後から不意に声を掛けられた。
「──すみません、」
振り返れば、金髪碧眼で色黒のイケメンが仕立ての良さそうなスーツに身を包んで立っていた。...背後に立たれていたのに気配に気づかなかったことに驚きながら男を見つめる。
「...何の御用でしょう」
「...片桐、棗さん…ですよね。少し、お時間を頂けますか」
こちらをまっすぐ見つめたまま、男は綺麗に笑みを浮かべた。

170603.
Title:Rendezvous