まばたきひとつ淑女の嗜み

正しく言えば、わたしはその男を知っていた。...電波の上で得た、“情報”のひとつとして。

「...確かに片桐棗はわたしですが...どちら様でしょう?」
内心で貴方の正体は知ってますけどね、と呟きつつ、一先ずはそう訊ねてみる。
「ああ、そんなに警戒しないでください...貴女に危害を加えるつもりはありませんから」
目の前で胡散臭く笑みを浮かべる男を見据えて放ったわたしの言葉に、彼は表情を変えることもなくそう返した。...全く以て信用ならない。
「...申し訳ないのですが、この後用事があるので」
「おや、そんな風には見えませんが…見たところ、何か特別なものを持っているようにも思えませんし、其処の病院に入院中の誰かを見舞ってそのまま帰宅、この後は夕食の準備でも...といったところでは?」
せめても、と試みた逃亡は怒涛の如く並べ立てられた推理の前にあっさりと打ち砕かれる。勝ち誇ったように微笑むその表情が実に気に食わない、たとえ顔立ちの整った相手のそれだとしても。
「嫌に細かいんですね...それこそ、“ずっと見ていたみたいに”」
「...いえいえ、この程度は初歩の推理ですよ」
挑発的に相手を見つめ、軽く揶揄するように言葉を紡ぐ。...勿論、わたしが盗聴器や発信器の類いに気づかないということはありえないが。言外にそれを匂わせてちらりと相手の表情を窺うと、彼は一瞬むっとしたように表情を小さく歪ませたが、すぐに元のように笑みを浮かべた。...強行突破して逃げてしまおうかとも思ったが、わたしの持つ情報によれば確かこの男は相当の手練れだったはずだ。それに、通行量が少ないとはいえ衆人環境の中でそんなことをすれば間違いなく注目を浴びてしまうだろう。
...と、そこまで考えて、わたしは内心で盛大に舌を打った。わたしの思考の流れに気づいたように、彼は黙って笑みを深くする。
......困った。この男は、どうあっても自分を逃がしてくれるつもりはないらしい。はあ、と今度は相手にも聞こえるように大きくため息をつくと、わたしは逃亡を諦めて頷いた。
「...わかりました。貴方が先程仰った通り、食事の支度があるので...手短にお願いしますよ」
「ありがとうございます」
男はにっこりと笑みを浮かべる。...その様子は、やっぱり胡散臭いことこの上なかった。

○●○


着いてきてください、と言った彼の背を追って着いた先は洒落たバーだった。制服姿ではないとはいえ、わたしは未成年である。こういった場に出入りするのは少々気が進まないのだが...この男は忘れているのだろうか(というか、警察官(推定)が未成年をバーに連れ込んでいいんだろうか)。じとりと睨むわたしの視線に気づいたのか、彼は少し苦笑した。
「別に、飲まなければ大丈夫ですよ。...本当は別のところにしようとも思ったんですがね、何分足がないもので」
「それは...申し訳ないことをしましたね」
さも残念そうに言って小さく肩を竦める。どうやら彼は車で目的地に向かうつもりだったようだが、わたしがそれを丁重にお断りした。正体は分かっているとはいえ、こんな怪しい相手のテリトリーに無防備に近づくほどわたしは間抜けではないのだ。
「...それで、ご要件は?」
カウンターからは少し離れた席に腰掛けると、わたしは単刀直入にそう切り出した。
「せっかちな人ですね...まあいいでしょう」
彼はまた苦笑を零すと、真剣な顔つきで此方を見つめた。
「申し遅れましたが、僕は──」
「降谷零...いや、安室透さん、ですか?」
言葉を遮って彼の名前──偽名と本名の両方を口にすると、彼は驚いたように此方を見つめた。
「...何故それを、貴女はまさか──」
先程よりも低くなった声、纏う空気の温度が一気に下がったのが分かる。痛いほどに向けられた警戒心に、今度は此方が苦笑する番だった。
「ああ、...組織の手の者なんかじゃないのでご安心を。そんなに警戒心を剥き出しにされると少々傷つきます──最近わたしの動向を嗅ぎ回ってるみたいだったので、調べさせて貰っただけですよ」
そう言ってにこりと笑みを向けると、向けられた警戒心が少しだけ緩むのが分かった。それでも彼は納得してはいないようで、疑わしげに言葉を続ける。
「...貴女、一人で...ですか?」
言外にそんな訳が無い、と匂わせた男の様子にわたしはむっとして眉を顰めた。...この手の反応は慣れている、けれど何回繰り返しても気に食わないのは変わらない。
「あんまり舐めて掛かると足下を掬われますよ?...わたしの情報網を甘く見ない方がいい......それで、もう一度聞きますけど、ご要件は?」
相手を睨むようにしてそう言えば、目の前の男──降谷零はふっとその雰囲気を和らげた。見れば、先程までよりも自然な笑みを浮かべている。
「...流石ですね。これなら安心して頼めそうだ──改めて、俺の名前は降谷零、貴女を勧誘に来ました。──我々と共に組織を追いませんか、片桐棗さん」
「...改めまして、どうも、片桐棗です。...せっかくお誘い頂いたところ申し訳ないんですけど、今のところ特定の組織に所属して、というのは考えていないので」
丁重に断りの文句を述べると、降谷さんは少し驚いたように目を瞬かせ、やがてどこか納得したように頷いた。
「ホォー、...分かりました。貴女は何処までも有能なようだ。......たかが女子高生と侮っていたこと、済みませんでした。図々しいとは思いますが、我々からの依頼は......受けて頂けますか?」
「...構いません。どんなお話でしょう?」
鞄の中から愛用のラップトップを取り出して起動させる。
──“仕事”の時間だ。

170610.
Title:Rendezvous