Report 0

「え、旅…ですか?」
 
三階で資料の整理をしていると、突拍子もない事を言い出したプラターヌ博士。
その言葉に一瞬驚き、腕の中で山積みになっていた参考書を落としそうになった。
一息ついて落ち着きを取り戻し、大量の参考書をデスクに叩きつけるようにに置いて発言者の顔を睨みつけると呑気にコーヒーを啜っている。
 
詳しく話を聞こうと別なデスクに置いてある椅子を引っ張ってきて、デスクを挟んで彼と向かい合うように座る。
すると話を聞く気満々の私の姿を見てニコニコと満面の笑顔をこちらに向け、コーヒーカップをソーサーの上に静かに置いた。
 
「そう!旅だよ!」
 
目をキラキラと輝かせる彼はまだ幼い少年のよう。
おかしいな、この人私より何歳も年上なのに。
 
「旅…ですか」
 
再び同じ言葉を呆れるように呟く。
目を爛々とさせている博士とは正反対に私はジト目で彼を見つめる。
私の呆れた表情に反してプラターヌ博士はニコニコと楽しそうに身振り手振りしながら、あれやこれや語る。
テーブルに頬杖付いて、適当に「うんうん」と相槌を打つ。
 
「ん?ナマエは興味ない感じかな?」
 
私が話を聞いてないのに気づいた博士は、私の顔を覗きこんでくる。
セルリアンブルー色の瞳がこちらを見つめている。
 
「いえ…興味はありますけど…」
 
じりじりと距離を詰めてくる博士から目を逸し、なんとか言葉を繋げる。
かなりの至近距離で息がかかるのでは、と内心ドキドキする。
彼の瞳の中に戸惑っている私が映っているのが見えた。
こんなに近づいて来て博士は恥ずかしくないのだろうか。
 
もう近い、と博士の肩を押して距離をとった。
押しに弱いの分かっていながら時折こういう事する博士は間違いなく確信犯だ。
プラターヌ博士はふふっと笑うと、椅子に座り直した。
緊張から開放されて安堵の息を漏らす。
 
「じゃあ、決まりだね」
 
「えっ、もう決まりですか?」
 
先程の発言でもう決定事項になったらしい。
まだ行き先すら聞いてないのに、と聞くと行き先はもう決まっているとか。
 
「ボクはね、カントーに行ってみたいんだ!」
 
「カントー、ですか」
 
「きっとカロス地方では見ない、珍しいポケモンがいっぱい居ると思うんだ」
 
そういえば数年前、私が旅を始めた時もカントーのポケモンをプラターヌ博士から貰ったんだっけ、と思い出す。
他にもカントー地方にも生息しているポケモンにも何匹か出会ったが、それはほんの一部なんだろう。
きっと現地には見たこともないポケモンが沢山いるに違いない。
 
「今のところ全部で七百種を越えるポケモンが発見されているの、知ってた?」
 
「はい、聞いたことはあります」
 
「さすがボクの助手だね」
 
まだなったばかりですけどね、と苦笑する。
 
プラターヌ博士は席を立つと私にコーヒー淹れようとしたので、慌てて阻止する。
博士が淹れたコーヒーはマズイ、という事ではないが粉をこぼしたりお湯を誤って自分の手に注いで火傷するなりと、彼自身が散々な目にあった。
なので、次からはなるべく私が淹れようにしている。
しかし私が不在の場合は彼自身が淹れているらしく、時折調査から帰ってくると手を火傷していたりすることもあった。
給湯室で手を冷やしている彼の笑顔は引きつっていた。
 
席を立つと空になってる博士のカップに気が付く。
おかわりを希望されたのでついでに一緒に淹れようと下げる。
「やー、すまないね」とプラターヌ博士の声が後ろから聞こえた。
 
「でも、それなら他の地方でもいいと思いますけど…」
 
博士に背を向けたままだが、作業しながら先ほどの会話を続ける。
複数ある地方から何故カントーを選んだのかが疑問だ。
 
「数年前に、キミにカントー地方のポケモンを渡したのは覚えてるよね。あれはオーキド博士から譲り受けたものなんだ。知ってる?オーキド博士」
 
「カントー地方に居るポケモン博士ですよね。前にご縁があると聞きました」
 
「そう!とても尊敬する人物だよ」
 
後ろのほうでオーキド博士の学会の話など、あれこれ語り始めたがまたもや曖昧に相槌を打ちながらコーヒーを淹れる作業を始める。
丁寧に箱詰めされている中から2つ袋を取り出す。
チリ、と破って中からドリップバッグコーヒーを取り出し、バッグを静かに切り取る。
手先が不器用なのか彼曰く綺麗にミシン目に沿って切り取れないとか。
左右のフックを折り目にそって折り、私と博士のカップに取り付けてゆっくりお湯を数回に分けて注いだ。
本当は予めカップにお湯を入れて温めた方がいい、と聞いたが別に私と博士は気にしないため省略することが多い。
芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
 
「っと…話がそれちゃったね。ボクがカントーに行きたい理由はね、とあるポケモンをこの目で見てみたいんだ」
 
小難しい話が終わり、やっと彼が突拍子もない事を言った動機を話す。
「とあるポケモン」という単語にピクリと反応する。
 
「とあるポケモン?何と言うポケモンですか?」
 
博士のやっと反応してくれた、と嬉しそうな声が背から聞こえてきた。
 
「それはねー、まだ内緒」
 
「内緒、ですか」
 
拗ねるように返事をする。
 
後々教えてくれるのだろうか。
博士のことだから、メガシンカに関係あるポケモンなのかもしれない。
 
「やっぱり、ナマエの方が上手いね」
 
「…!博士いつの間に」
 
いつの間にか背後にいた博士に驚くも、博士のようにお湯をこぼさずに済んだ。
飛び跳ねた心臓を抑えるよう静かに息を吐いた。
 
「ゴメン、驚かせちゃったかな」
 
「もう…脅かさないでください。もうすぐ出来ますから」
 
お湯をこぼさないようバッグを取り外すと素早くゴミ箱に捨てる。
彼は意外にも甘党なのでミルクと砂糖を加えてあげ、仕上げにスプーンで軽く混ぜて完成。
零さないでくださいね、と小さい子に言い聞かせるようにカップを渡す。
しかし、博士はカップを受け取らない、その手は白衣のポケットに入れたままだ。
 
「博士?」
 
どうかしました?と首を傾げる。
視線の先に居る博士は先程の穏やかな表情から一変して、真剣な表情をしている。
その表情に思わずドキドキする。
 
「回りくどくなっちゃったね。本題に入らせて貰おうかな」
 
「…本題?」
 
今までのは前座にすぎなかったのだろうか。
だとすると長い前座だ。
 
「そう。ボクはキミとカントー地方を旅したいんだ」
 
「えっ!?」
 
カップを受け取ったと思うと、シンクの上に戻し私の両手を握る。
状況が把握できず、頭が少し混乱する。
博士の手が思ったより大きいとか、温かいとかそもそも何故握られているのだろうか、会話の内容と全く関係ない事がグルグルと脳内に渦巻いた。
 
「博士の一人旅じゃ…」
 
一番理解できなかったことを口にする。
 
「もー、ナマエは鈍いね。ボクは最初からキミを誘っていたんだよ」
 
「そうなんですか…って、でも!研究は…」
 
「研究?研究しに旅に出るんだよ、長期間のフィールドワークと思えばいいよ!」
 
いや他に色々とあるでしょう!と言いたかったが、この人は前からあちこち出歩いている人だった。
私がまだ子供で、一人旅している時も旅先で会ったりとかもした。
そんな彼を説得する方が難しいのかもしれない…
 
うむむ、と唸りながらも優柔不断な私は悩んだ。
その横でまるで悪魔の囁きかのように博士が誘惑してくる。
 
「ナマエ!見に行こうよ、一緒に」
 
でも…、と私は制止の声を漏らす。
まだプラターヌ研究所に配属されたばかりの私にそんな大役が務まるのだろうか。
 
「きっと素晴らしい体験になるよ!」
 
「確かに、そうだと思いますよ…」
 
見たこともないポケモンを調査できるのは私にとって勉強になるはずだ。
しかし、でも、と中々決断できずにいる。
チャンピオンの座を降りてここへ勤め始めたのにすぐに長期出張とはどうなんだろうか、と考える。
 
「…ナマエ、何をそんなに悩んでいるの?」
 
中々首を縦に振らない私に痺れを切らしたらしい。
握られていた手を離すと悩みの声ばかりを上げている私の顔を覗き込んでくる。
 
「私、まだ新人ですし…ここでもやることが沢山ありますし…その、いいのかなって……」
 
「……誰か、そんなこと言ったのかな?」
 
その問いに私は「誰も言ってません」と歯切れ悪く呟いた。
顔を離すとはぁ、と溜息が頭上から聞こえてきて居た堪れない気持ちになり俯く。
 
「ナマエ」
 
低いトーンの声で私の名を呟くと両肩に手を置かれる。
ピクリ、と肩が跳ねる。
お説教の予感に全身が強張る。
 
「キミはボクの助手、だよね?」
 
「はい」
 
「助手の意味、わかる?」
 
「ええと…博士の職務のサポートする人…です」
 
正解、と頭をポンポンとされる。
 
「ナマエはボクの助手なのだから、この旅に来てもいいんだよ。そのことを誰も咎めなんてしないのだから」
 
シンクに置かれた少し冷めてしまっているコーヒーを手に取ると自分のデスクへと戻っていった。
ギィ、と音を立てながら椅子に座る。
慌てて自分のコーヒーを手に取ると彼のデスクへ移動する。
静かにカップをデスクの上へ置くと移動させてきた椅子に腰掛け、改めて向かい合うようになる。
やはりコーヒーは冷めていて、息を吹きかけて冷まさなくても飲めるくらいの温度だった。
ゆっくりとコーヒーを啜ると温く、程よい苦味が口内に広がった。
 
「もし、この旅にキミが付いて行くことに非難する人が居たら、研究所追い出しちゃうかも」
 
さらりと吐かれた恐ろしい言葉に啜っていたコーヒーを吹き出しそうになる。
危うく溢しそうになったコーヒーをゴクリと喉を鳴らして飲み込むと、急いで飲み込んだせいか気管に僅かに入り込んでしまったらしい。
キリキリとした喉の痛みに耐えきれず咳が出てしまう、なかなか止まらない様子に博士は「大丈夫?」心配そうに声をかけられる。
 
「……それ、パワハラで訴えられますよ…」

なんとか落ち着いたものの、ガラガラ声だ。
まだ喉の痛みは残っている上涙目だ。
 
「……冗談だよ、流石に」
 
ニコニコと笑うと、博士もコーヒーに口を付ける。
冗談には聞こえません、と心の中でツッコミを入れる。
 
「また、旅してみない?」
 
「…旅、ですか」
 
この言葉、何度目だろうか。
チャンピオンになってからというもの、旅という旅をしていない。
カップをデスクに置くと、再び唸る。
振り出しに戻った気分だ。
 
「行こうよ!ナマエ!二人で!」
 
また目を輝かせる博士は、とても楽しそうに見える。
密かに旅に惹かれつつあるが、「二人で」という言葉がなにより魅力的に聞こえた。
 
「そう…ですね。カントーに行きましょうか!」
 
彼の誘惑に負けてしまった、これで良かったのだろうか。