もういちど、会いたいと思っていた人がいた。
ああ、あなたなのだろう。
夢の中の私は見知らぬ背中をぼんやりと見つめながら、そうおもう。
霞む視界に目いっぱい広がるは、黄と緋。紛うことなき、焔色。それは、今まで自分が目にしてきた何よりも美しい色だった。
焔色の彼がゆっくりとこちらを振り返る時。決まって私の意識は遠のいて現実へと呼び戻される。今日も顔を見れないんだ、と嘆息しながら瞼を伏せた刹那。次瞳に映ったのは、いつもと変わらぬ、自分の部屋の天井だった。
***
『ごめんね名前ちゃん…』
「ううん、仕事だもの。お母さんたちがいなくてもばっちりやるから任せて!」
幾度もの「ごめんね」を否定し電話を切った時、広いリビングのソファに腰掛けて思わずため息を吐いてしまった。
ゆっくりと寛ぐこともなく立ち上がると、廊下に出て三つあるうちの部屋の一つの扉を開ける。入室せずとも視界に飛び込んでくる大きな弦楽器――グランドハープに、音もなく歩み寄った。
真白のネックと支柱に綺麗な花の彫刻が施されたそれは、15歳の誕生日に両親から贈られた特注品だ。
世界で活躍する指揮者の父とピアニストの母。生まれながらに音楽の英才教育を受けていた私が、限られた選択肢の中で進んだ道は竪琴だった。何故親の下で指揮やピアノを極めなかったのか、とよく聞かれるけれど、答えは簡単だ。親ほどの才能に恵まれなかったから。
努力に努力を重ねてやっと合格した音大に通い始めて早3年半。出場するコンクールでは順調に賞を取り、親の七光りだという揶揄を一掃…はまだ難しいかもしれないけれど、そうするだけの実績を積んできたつもりだ。両親の顔に泥を塗らぬよう、毎日必死にレッスンに励んできた。誰よりも認めてほしかった父と母が娘の成長を見届けることなく世界で忙しなく活躍している背中を今度こそ追いかけるために。何不自由のない環境で目標に向かって日々奔走する私を、誰もが順風満帆だと言うのだろう。事実、私もそう思う。
……それでも、だ。時折、漠然とした焦燥感に首を絞められることがある。
『本当にこれが自分の人生でいいのか?』と。
ふと、今朝方見た夢を思い返した。
数年前からよく見るようになったあの不思議な夢は、なんとなくだけど、ただの夢とはどうしても思えなかった。自分の人生の在り方に疑問を抱いた時に限って見るからかもしれない。
あの夢が、焔色の彼が、全ての答えを持っている気がするのだ。別にあるのかもしれない、私が生まれてきた意味。
彼は、実在する人物なのだろうか。もしそうだとしたら、いつか会えるのだろうか。もし会えたとしたら、私のするべきことはなんなのだろうか。
このとりとめのない問いは、すぐ先の未来で答えを急かれることになる。
***
さて、現在私が置かれた状況を整理してみよう。
今の時刻は午後7時。一日の講義やレッスンを終えた私は、大学から徒歩圏内の自宅マンションへ帰宅中であった。
10月半ばのこの時間帯はもう真っ暗で、出来れば早く帰りたいのだけど、両手にぶらさがるスーパーのレジ袋が重たくてなかなか思うように足が進まないのがもどかしい。これは先ほど、いつも懇意にしていただいているご近所さんと出くわし、田舎からたくさん送られてきたからとお裾分けされたさつまいもだった。有無を言わさず次々と袋に詰めていくご近所さんに流石に遠慮したものの、結局断り切れずに大量のさつまいもを両手にぶら下げてえっさえっさと運ぶことになってしまった。
そして、いつもの倍時間をかけて漸くマンションの前に辿り着いたところで事件は起きた。…というか、起きていた。
入口から少し外れた暗闇の中で人が倒れていたのだ。
「えっ…え!?」
最初は見間違いかと思ってそのまま家に入ろうと思ったのだが、すぐにそれは否だと気づき、持っていた袋を投げ捨てて慌ててその人に駆け寄った。
「大丈夫ですか…!?」
ちょうど街灯の光が当たらない位置だったためによく見えないものの、倒れていたその人は一見若そうな男性だった。学ランみたいな衣服の上にマントのようなものを羽織り、腰には刀…恐らく木刀だろう、そんな少し変わった恰好をした人だ。
屈んで軽く肩を叩いて声をかけても反応はなく、救急車を呼ぼうとスマホを取り出したところで真っ暗な画面に絶望した。そういえば昨日、充電するのを忘れていたことに加えて朝はお母さんと電話していたから大学の休み時間に力尽きてしまったのだった。
そんな時、ちょうど通りがかった中年男性の姿を捉えた。「すみません!」そう大声を出して駆け寄る。幸い男性は一度で立ち止まり振り返ってくれた。
「どうされました?」
「あの、あっちに人が倒れてて!救急車呼びたいんですけど、スマホの充電が切れてしまっていて!」
そう言って男性を引っ張って彼の元へ連れていく。気が動転していて上手く話せないけれど、後は状況が伝えてくれるはず。
…と、思っていたものの。
「……えっと、倒れている人はどちらで?」
「………はい?」
すぐ足元で人が倒れているというのに、その男性は怪訝そうにこちらを見るばかりだった。
「…や、ここに……」
屈んで倒れた彼の背中を指さすものの、男性は一向に顔色を変えない。…新手の冗談だろうか。もしかしたら一刻を争うかもしれない急病人を前に。
彼と男性をおろおろしながら交互に見やっていると、やがて別の人が「どうしました?」と声をかけてきた。助かった。救急車はこの人に、と口を開こうとした瞬間だった。
「人が倒れてるってこの子が言うもんだから」
「…人?」
二人が辺りを一通り見まわしてから、今一度こちらに顔を向ける。その表情は二人とも同じ、怪訝そうなそれだった。
と、ここで漸くおかしいのは自分であることに、漠然と気づき始めた。
「み、見えないんですか……?」
恐る恐る聞いて返ってきた言葉は、「……君、大丈夫?」……うそでしょ。
私にはこんなにはっきり見えて、触れる感覚まであるのに?そんなことってある?
「何かありましたか?」
口の中がからからに乾いて冷や汗を流す私と、奇怪なものでも見るかのような眼差しの大人二人。そんな時、今度は懐中電灯を持ったマンションの警備員さんが二人の背後から現れた。警備員さんも倒れた彼を気にする素振りすら見せず、推測が確信に変わる。
二人が警備員さんに事情を説明していた最中、どうしたらいいか分からない私は倒れた人にもう一度視線を向けた。刹那。あまりの衝撃に、絶句する。
「!?」
懐中電灯の明かりが微かに当たった彼が、あの夢の――”焔色の彼”と同じ色彩をしていることに、今ようやく気づいた。