天女の旋律
眩い暁光に包まれて、ゆっくりと、穏やかに意識が沈んでいく様を肌で感じる。
なんてあたたかいのだろう。
”彼”は、”そちら側”へ導かんと微笑む母親にゆっくりとその腕を伸ばした。




はずだったのだが。


どういう訳か、目が覚めると見知らぬ部屋で寝かされていた。
これまで幾度となく死線を越え、感覚や勘の鋭さは洗練されていると自負している杏寿郎でも、今のこの状況は全く訳が分からないものだった。

自分は上弦の鬼との闘いで間違いなく命を落としたはずだ。最期の時、己の生き様を優しく労ってくれた母のあたたかな微笑みが瞼の裏に焼き付いて離れない。
そう、そうなのだ。自分は母と同じところへいくのだろうと思っていた。まさか全く覚えのない部屋で介抱されているとはこれいかに。

上体を起こすと、体にかけられていた毛布がするりと床に落ちた。毛布にしては少し軽すぎやしないか、とそこで一瞬思考を引き留められたが、今はそんな場合ではない。
辺りを見渡してまず目に入ったのは、枕元で綺麗に畳まれた炎柱の羽織だった。
ここは西洋の建物のような作りであることが分かったものの、杏寿郎が生前に時折目にする機会のあったものとは少し違うように思えた。大正は西洋文化を取り込んだ建物が増えた時代ではあったが、この場所にある調度品は今まで見てきたそれらとは少しずつ形も色合いも違っている。そして何より、カーテンが開けられた窓から見える外の景色。やたらと高い建造物に囲まれたこの場所は明らかに自分の知る日本ではない。


ふと、杏寿郎は頭の片隅で覚えていた微かな違和感の正体に気づく。
やけに視界が広いのだ。何故か、猗窩座に潰されたはずの左目が正常に機能している。それどころか、腹に開けられた大穴も、傷ついた内臓も、あの時受けた攻撃の痕跡は全身のどこにも存在していない。
ここが死後の世界だからだろうと思い至るものの、不思議とそんな気がしなかった。それは、自分が今まで寝かされていたこの空間から生きた人間の生活感が多分に感じられるからだろう。あの無限列車で自分は助かったのではないか、とそんな錯覚を抱かずにはいられない。そんなはずはないのだが。

何が現実で何が夢なのか最早分からなくなってきた。大抵のことに動じない杏寿郎にとって、それは大抵のうちに入らない稀有な事態だ。

とにかく、ここの家主を探さねば状況は変わらない。

恐らく近くにいるだろうと気配を探ると、思った以上に簡単にその答えに行きついた。
というか、先ほどからずっと微かに鳴っていた不思議な音色に今更気づいたのだ。どうやら相当気が動転しているらしい。


勝手の分からない部屋を許可なしに歩き回るのは気が引けるが、そうも言ってられずに音を頼りに扉を開けて廊下へ出る、
いくつかある扉のうち一つを探り当てると、杏寿郎は躊躇いなくその取っ手を回した。

その瞬間。今の今までずっと微かに鳴っていた程度のその音色が思った以上に大きく響き渡る。たった一枚の扉しか隔てていないにもかかわらず、だ。杏寿郎は常に見開いているかのように思われる大きな目玉を更にぎょっと丸めた。大正時代には今ほどの防音設備など存在していなかったのだから、驚くのも当然であるが。
それでも気を取り直し、改めて部屋の中を覗き込んでみる。刹那。


部屋の中央で真白の椅子に腰かけ、同じく真白の琴にも似た大型の楽器を爪弾く女性の姿に、杏寿郎は目を奪われた。


華奢な体で自分より大型の楽器を微笑を浮かべながら自在に操るその佇まいは貫禄があり、その指先が紡ぎ出す調べはあまりにも美しい。よく耳を傾けてみると、楽器の旋律を追うように澄んだか細い声で歌を口ずさんでいた。
そんな彼女の姿に、さながら天女のようだ、と思わずにはいられなかった。


やがて、こちらの視線に気が付いた彼女がはっと我に返る。同時に竪琴の演奏も止んだ。


「あ!目が覚めたんですね」


浮かべていた微笑みの代わりにくりっとした大きな瞳を安堵に丸めるその様は、演奏時の神秘的な印象とは異なりどこかあどけない。
彼女は椅子から立ち上がると、小走りで杏寿郎に近づいた。


「君が介抱してくれたのだな!礼を言う!」
「介抱っていうか…」
「まどろっこしいのは苦手だから率直に聞く!ここはどこだ!」


困った様子の彼女に構わず本題をぶつける杏寿郎の勢いに、彼女は今度こそ狼狽した。
髪色と服装も変わっているなら、性格も相当変わっている、と。自分を売り込むことがいかに重要視される音楽業界において、初対面の人には愛想よくを厳しく躾けられていたものの、顔を会わせて五秒で既に表情が引き攣っている。


「ええっと、ここは私の家です。昨日、帰ってきたらあなたが倒れていて…」


悪意こそ感じないものの、ただただ困ったように口を濁す彼女に杏寿郎は違和感を覚えた。
というか、そもそも見ず知らずの男が倒れていたらまず人を呼ぶべきではないのか。自宅に運び入れるはど不用心が過ぎる。初対面だがこの女性の危機感の足りなさに今後の行く末が心配になってしまった。


「これは勘だが、この家に君以外の人はいないのだろう?助けてもらった俺が言うのも何だが、見ず知らずの男を招き入れるのはあまり感心しない」


声を張り上げて喋る喧しいタイプなのかと思えば、ふと冷静に説教され、彼女は相変わらずの困った顔を硬直させた。
暫く視線を泳がせたのち、恐る恐るといった様子で杏寿郎に向き直る。


「救急車を、ですね」


呼ぼうと思ったんですけど。歯切れ悪くそう紡ぐ彼女に杏寿郎は小首を傾げた。
挙動不審な性格なのかと思っていたのだが、どうやら彼女は言いたいことがあるらしいと、人の感情の機微に敏い杏寿郎は察する。
視線を泳がせながら口をもごつかせる彼女を委縮させないよう、口を挟むことはせずにその言葉が発せられるのを待った。

が、ようやく意を決した顔を上げてこちらを真っ直ぐに見据えた彼女から今度こそ紡がれた奇想天外な一言に、今度は杏寿郎が狼狽する番であった。


「あの!あなたは幽霊なんですか!?」




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