要約するとこうだった。
杏寿郎は上弦の鬼との闘いで命を落とした末、その魂が黄泉の国ではなく何故か地上に所謂幽霊として転げ落ちてしまったらしい。それも、今まで自分が生きてきた大正ではなく、令和という年号のずっと未来の世界に、だ。
俄かに信じがたい話ではあるが、目の前で美しい藤の花が描かれたティーカップを持ち上げふうふうと息を吹きかける彼女が嘘を言っているとも思えなかった。外に出ればすぐに確かめられるのだから、そもそも嘘を吐く理由もない。
彼女の名前は苗字名前と言った。この家は元々両親と三人で住んでいるが、今は海外出張中で不在との話だ。
一先ず、互いの名を名乗り合う程度に落ち着けたのは僥倖だと言うべきだろうか。
先ほど、あまりにも突飛な問いかけに思わず硬直した杏寿郎に、名前はやはり言うべきではなかったとばつの悪そうな表情で「とりあえずお茶でも飲みましょう…!」と気を利かせてくれた経緯から今の状況がある。
杏寿郎が寝かされていた部屋――居間に戻るとソファで座って待つよう名前は杏寿郎に言いつけた。案外落ち着いた彼女によもや自分は謀られているのではと思わないでもないが、暫くして台所の方から「あちちっ」という声やガシャーン!といった大きな物音が立ち始める。前言を撤回しよう。どうやら家主として冷静に振舞おうとしてくれていただけらしい。
台所から上がる喧しい物音は長らく止まず、名前の激しい動揺が如実に伝わってきた。彼女は嘘の吐けないタイプの人間なのだろう。やがて運ばれてきたティーカップはカップとソーサーがちぐはぐだったが、名前は恐らく気づいていない。
杏寿郎が大正の世から来たこと、その時代は人を喰う鬼が蔓延っていたこと、それを狩る仕事をしていたこと、その過程で命を落としたこと。
以上の話を、名前はひどく混乱しながらも最後まで聞き届けた。最初に充分な不思議体験をしているせいか、こちらも杏寿郎の言葉を疑う気はないらしい。
そして、先の通り今の時代についてや、杏寿郎が現在置かれている大まかな状況を今度は名前の方から話すに至ったのだった。
昨晩あったことを順を追って話す名前はあまり説明が上手ではなかった。だがしかし、そんな語彙力の乏しい名前の言葉を巧みに汲み取り見事情報整理を成し遂げることができたのは、杏寿郎の元継子が似たようなタイプだったからかもしれない。
「うむ、大体の話は分かった!それにしても苗字にだけ俺の姿が見え、触れることも出来るというのは妙だな。君は霊媒師か何かの家系なのか?」
妙だと思っていたのは名前も同じである。しかし、首を左右に振って杏寿郎の仮説を一瞬で否定する。
「いえ、うちは父が先祖代々音楽家の家系で、母方もそんな話は聞いたことないです…」
「よもや!音楽の才はご両親譲りだったか!」
思わぬところを掘り下げられたので、名前は面食らった顔つきになった。
「父は指揮者で、母はピアニストなんです」
「そういえばさっきの部屋にピアノもあったな!」
杏寿郎は名前がレッスン室と呼んでいた部屋を思い返す。
竪琴を爪弾く名前があまりにも美しくて気を取られてしまったが、あの広い防音室にはグランドピアノや音楽関連の書籍が詰まった本棚、黄金に輝くトロフィーやクリスタルの楯が所狭しと飾られた飾り棚などが配置されていた。
娯楽に触れる機会はあまりなかったことはさておき、能や歌舞伎の鑑賞が趣味であった杏寿郎は和楽器こそ親しみがあれど、数年の間に普及し始めた西洋楽器への知識は疎い。しかしながら、ピアノくらいならば目にする機会はあったのだ。
「大正時代にはもうピアノあったんですねぇ」
名前が感心したように言う。
「ああ、俺は行ったことはないが、帝都では演奏会も定期的にやっていたようだった」
「帝都!なんだかファンタジー漫画みたいですね!」
大分余裕が出てきたのか、非現実的なこの状況を楽しみ始めた名前。
「今は帝都と言わないのか?」
「ん〜…東京ですよね?首都…かなぁ」
首都って言う人もあんまいないかも、と呟く名前の曖昧な物言いに杏寿郎は苦笑する。
「自分の国だろう」
「私、音楽以外の分野は基本ダメで……歴史なんかは音大でも講義受けなきゃなんですけど、………」
その先は彼女の表情が言葉で語るよりも雄弁だった。
先人がどれだけ苦労して時代を築き上げようと、後世を生きる者の大概はそんなものだろう。断じて先代達を蔑ろにするつもりがあったわけではないが、杏寿郎も煉獄邸に保管されていた歴代炎柱の書は一度も目を通さなかった。自分に必要な知識か否か、それを判断するのは本人だ。
しかし、たった今己のちょっとした話に目を輝かせた名前がどうにも可愛らしく思えてしまって、他にも彼女が新鮮に感じる話題はないだろうかと脳内でつい模索してしまった。
危うく和みそうであったが、今はまだそんな場合ではないと先に気づいたのは名前の方だった。
「あっあの、…れんごく、さん?」
「ああ、煉獄杏寿郎だ!」
空気を揺らす大声にローテーブルを一つ隔てただけの距離にいた名前の鼓膜が破れかけた。杏寿郎としては名前があまりにも自信なさげに自分の名前を呼ぶので、忘れられたのかと今一度名乗ったという気遣いのつもりであったが、実際珍しいどころではない苗字を呼ぶのに躊躇ってしまっただけである。
未だ耳鳴りがする両耳に触れて労わりつつ、一瞬飛びかけた話題を戻すべく今一度杏寿郎に向き直った。
「煉獄さん、私まだあなたに言っていないことがあるんです。もしかしたら、私だけが煉獄さんを見えたり触れたりできることに、何か関係があるのかもしれません」
そうして名前は杏寿郎に今朝方も見た夢の話をする。
自分は杏寿郎を知っていたのだと。杏寿郎も実は何か知っているのではないか、と。
だが、答えは呆気なかった。
「知らん!」
名前はあからさまにがっくりと肩を落とした。ここ数年の疑問が漸く解決すると思ったのに、と。
そんな名前に杏寿郎は追い打ちをかける。
「そもそも、君の夢に別の時代で生きていた俺が干渉できるはずがないだろう」
「そうですよね、そんな気がしてました…」
人生の不思議体験など、大正時代に亡くなった剣士の亡霊が目の前にいるという案件のみで充分どころかおつりが来る。
やはり、あの夢は名前が見た名前の夢に過ぎないのだ。
自分はこれからもあの不思議な夢にもやもやし続けなければいけないのか、と落胆していた名前に再び杏寿郎は口を開いた。
「それでも、偶然にしては出来すぎだ。何かあるというのは間違いない。そして、もしも俺が成仏出来ない理由が君にあるのだとしたら、それを解決せねばならん」
そう。ここは本来杏寿郎がいるべき場所ではない。死んだ者は皆等しくあの世に逝く。黄泉の国で先に待っている母親と再会するのは不謹慎ながら嬉しくもあるし、何より杏寿郎が元いた世界――大正ではまだ戦いは終わっていない。死んだからと言って呑気に羽を休めるつもりは毛頭なかった。
もし、もしも、だ。共に生きた仲間たちが最後まで杏寿郎を心の中にその存在を置いてくれるのならば。最期までその背中を押してやるのが己の責務だと、杏寿郎は既にそこまで整理がついていた。
まだ自分の目で確かめた訳ではないが、この時代に鬼はいないという。つまりそういうことだ。それならば尚更――。
「という事でだ!暫く世話になる!」
杏寿郎のあまりに性急な決断を名前が理解したのは、紅茶から立つ湯気がすっかり消えた頃だった。