果てしなく深い、水底に沈んでいく。
身体にまとわりつく水が重くて、冷たくて、苦しい。
それでも、抗う気力は沸いてこなかった。

ああ、これでやっと解放されるのだ。この地獄の日々から。

あなたと出会わなければ、こんな結末にはならなかったのだろうか。
あなたの傍にいなければ。
あなたを愛さなければ。

見当違いな後悔たちが、墨を垂らしたかのごとく広がり、澄んだ水を濁らせていく。
こんなことを思うのは間違っていると、本当はわかっているはずなのに、そうでもしないと耐えられなかった。

否。
もういいのだ。
どうだって。
もう終わったことなのだから。


それでも、せめて。
せめて、神様。
生まれ変わったら、今度こそ、幸せな人生が送れるように。二度とこんな後悔をしなくていいように。
どうか、私をお導きください。


薄れゆく意識の水底で、私の名を呼ぶ愛おしく優しい声が、聞こえた気がした。




***




「ああ姉上、よかった!目が覚めたんですね!」


重たい瞼を無理やり持ち上げると、視界いっぱいに広がったのは、ひどく心配げに私の顔を覗き込む弟の姿だった。
状況が全く飲み込めずに、弟の顔を暫し無言でぼんやりと見つめる。

天井も慣れ親しんだ布団の感触も我が家のもので、私は今、自分の部屋に寝かされているということが分かったのだが、それでも困惑が隠しきれない。
だって私は、さっきまで”あの湖”にいたはず。
静かで一人になれる場所に行きたくて、家族に何も告げずに訪れたその場所で、私は足を滑らせて水の中に落ちた。
そして―――

そこまで考えた瞬間、ぞっとした。
なぜなら私は、あの湖で溺れて死んだはずなのだから。


何故、生きているのだろう。まさか、あんな人気のない場所でたまたま誰かが私を引き上げたとでもいうのか。
それがたまたま、私の身元を知る人物で、無事家に帰されたというのか。
そんな偶然に更なる偶然が重なるという状況、果たしてありえるのだろうか。
いや、実際ありえたのだろう。ありえたのだから私は今、こうして生きているのだ。


ああ、でも。
本音を言えば、あのまま死なせてほしかった――そんなふうに思うのは、あまりにも罰当たりなのか。



二月ほど前、私は婚約者を失った。

その人――煉獄杏寿郎さんは私の一つ年上で、婚約と言うのは幼い頃に親同士が決めた政略的なものだ。
私の家は鬼狩り組織、通称鬼殺隊の長である産屋敷家の、何代か前のご息女が嫁いだ遠い血縁の家柄だ。表向きは様々な事業に携わる資産家であるが、その裏では鬼殺隊の後方支援を担っている。そんな我が家と、鬼狩りの名門である煉獄家に婚約の話が持ち上がるのは、決しておかしな話ではなかった。親同士の仲が良好だった、という理由も大きいのだけれど。

しかし、彼は職業上ひどく多忙で、なかなか結婚まで話が進められずに幾度か祝言が延期になっているのが現状だった。
結果、結婚適齢期を迎えても一向に祝言を挙げようとしない私を白い目で見てくる人たちもいたが、当時はそんなに気にしていなかった。

しかし、そんな時だ。私の家に鎹鴉が、『煉獄杏寿郎の訃報』を伝えにきたのは。


その後はひどいものだ。
私は未婚の身でありながら世間の扱いはまるで未亡人。見せかけの同情や蔑みが集中した。
婚約者の死を悼む暇もなく、苗字の財産を狙った家から新たな縁談が殺到し、しまいには「鬼がどうの言っているおかしな家を選ぶから行き遅れたのだ」と心無い言葉を浴びせられた。
両親や弟はそんな世間の目から私を必死に守ろうとしてくれたけれど、束になった悪意とはどこまでも巧妙に防壁をすり抜ける。同調圧力とは末恐ろしいものだ。

そんなある日、私の脆い精神はついに限界を迎えた。
全てがどうでもよくなって、家族に黙って一人家を出ると、そのまましばらく宛もなく歩き、列車を乗り継ぎ、気づいたらあの湖に辿り着いていた。

死ぬつもりで水辺に近寄ったのかと聞かれたら、否と答えるだろう。
そんなつもりはなかった。ただ、一人になりたかっただけ。
しかし、うっかり足を滑らせて湖の中に落ちてしまった時、死んでしまうのも悪くないと思ったのもまた、紛れもない事実であって。
だからこそ私は、たちまち水を吸って重くなる着物をどうにかすることも、もがいて助けを求めることもせず、あのまま水底へ沈んでいったのだ。



「姉上?大丈夫ですか?」


思い出せる限りの情報で自分の置かれた状況を整理していると、再び弟の声で意識を引き戻された。
そうだ。もうこれ以上、この子を心配させてはいけない。たった一人の、大切な弟なのだから。
虚ろな瞳に精一杯の笑みを浮かべて、小さく頷く。


「ええ、心配かけてごめんなさい」


漸く口を開いた私に、弟の顔に少しばかり安堵の色が広がっていった。

何はともあれ、私は生き長らえてしまった。
これが天命だったのだろう。


「私はどれくらい眠っていたのかしら。湖から引き上げてくださった方の連絡先は控えてくれてる?」


勝手に家を出た挙句に水死体寸前になって見つかるなど、後で両親から大目玉を食らうに違いないものの、それは今は考えないこととする。
一先ず、私を助けてくれた人にはお礼をしなければと、詳細を聞くべく鉛のように重い上体を起こしながら尋ねた。が、すかさず私の背に手を添え介助してくれていた弟が、怪訝そうに私を見つめだす。その問い掛けに正直、困惑した。


「……湖?なんの話をしているのですか……?」
「え?」


まさか、私が湖に落ちたという経緯を知らないのだろうか。
思わず聞き返した私に、弟は安堵だったそれから再び顔色を悪くさせた。「まさか、覚えていないのですか?」と。

覚えてないもなにも。…なんだと言うのだろう。
しかし、次いだ一言に今度こそ目を見開く。同時に、とあることに気づいた。気づいてしまった。


「姉上は、熱病で三日ほど寝込んでいたのですよ」


弟の顔が、出かける直前に見たそれよりも、幾つか幼いことに。
二年ほど前、流行りの熱病で三日間意識不明となっていたという、過去の記憶に。



「………和彦、あなた今いくつ?」


お願い、十四歳だと言って。そんな淡い希望は、見事に打ち砕かれる。


「十二、ですけど…」


本当に大丈夫ですか、と涙目になる可愛い弟に構う余裕などあるはずもなかった。
だって、…ええ。誰が信じるというのだろう。


死んだら過去に戻ってしまった――などと。




***




どうやら、夢でも冗談でもないらしかった。

あれから必死でぼうっとする頭を働かせて、二年前、熱病に侵された時のことを思い返した。
その後の流れはまさに二年前の一件と全く同じで、こんな夢物語のような現状を更に現実へと確信付ける。

例えば、私が目を覚ましたと聞いて、泣きながら部屋に飛び込んできた両親。そこまで詳細は覚えていないにしても、恐らくかけられた言葉も一字一句違うことはなかった。
その後、お手伝いさんが甲斐甲斐しく身体を拭いてくれたこと、目覚めたばかりだということで出された食事は、ひどく味気ない流動食だったこと。米粒が残らないまでに擦り潰されたお粥はなかなかに食べにくく、二年前と同じ量をごめんなさいと言って残したこと。
それから、度々世話をしに来てくれるお手伝いさんは、中には数ヶ月前に退職してしまった人もいて、ああ、本当に過去へ戻ってしまったのだな、と妙に冷静に納得しだしてしまっていた。


それなのに。
何故、これに限って思い出せていなかったのだろう。


「お嬢様、杏寿郎様がお見えになりましたよ」


その日、私の見舞いに”彼”が来てくれたことを。



忘れていた己を責めつつ、心臓が煩く鳴り、返事どころではなかった私の意思に反して、大きく襖が開かれる。


「名前!来るのが遅くなってすまなかった!」


そこには二カ月前、さよならも言わせてくれずにこの世を去った婚約者――煉獄杏寿郎さんその人が、あの時と何ら違わぬ、ひどく焦った面持ちで佇んでいた。




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