「なぜですっ……!」


悲痛な声を張り上げる少女の瞳には、少し離れたこの場所からでも確認できてしまうほどに涙が浮かんでいた。

『まずい状況に出くわしてしまった』

この場で声を潜める誰もがそう思っているに違いない状況の中、結局一歩も離れることはしないまま、少女の叫びにも近い声が続く。


「わたくしならばご婚約者よりもあなた様を愛し寄り添うことができます!何も今すぐ結婚してほしいとは申しておりませんのに、わたくしにはあなた様にお近づきになる機会すら与えられないのですか!?」


その言葉は、現状を理解するには充分なそれであった。
初対面の少女にここまで熱烈な想いを寄せられては確かに困ってしまうだろうものの、杏寿郎さんももう少し柔軟に話を聞くことは出来ないのだろうか。と、引き合いに出されている”婚約者”本人でありながら、呑気にそんなことを考えてしまう。


「はっきり言おう。俺は君をそういう対象として見ることは生涯ない。訪れない未来に期待をして、有限な時間を溝に捨てる行為は勧められないぞ」


いつものように快活な口調で早急に話をつける訳ではなく、頭ごなしに迷惑だと拒絶するでもなく、相手が理解しやすいようゆっくりと明確に、それでいて真摯に受け答えをするその様は、杏寿郎さんの誠実さを如実に表していた。


「ご婚約者が、生涯振り向かなくてもですか」
「それは想定していない!彼女は必ず婚姻を承諾してくれるだろう!」


少女はどういう訳か事情を知っているようだった。杏寿郎さんは見ず知らずの彼女に一体何を話したのだろうか。
しかし、それを深く考えることは叶わなかった。その言葉を聞いて、不覚にもどきりとしてしまったからだ。自信たっぷりな杏寿郎さんに呆れよりも先に、まるで図星を突かれたかのような息苦しさを覚えたからだ。

隣では「前もこんなことがありましたね」「その時も瞬時に断っていらっしゃいましたが」「ていうか煉獄さん、ご婚約者と喧嘩でもされているのかしら」などとひそひそ話している。喧嘩も何も、破談を突きつけている最中ですとは口が裂けても言えない。

やがて、少女は「…わかりました」と呟くと、杏寿郎さんに背を向けて両手で顔を覆いながら走り去っていった。あまりにも呆気ない、失恋の光景だった。


「む、複数に見られていると思ったら、君たちだったか!」


修羅場に出くわした気まずさに暫し立ち尽くしていると、その一瞬で私たちの前に移動してきた渦中の彼――杏寿郎さんが明るい表情で声を上げた。まさかバレているとは思っておらず、全員同じようにビクリと跳ね上がったものの、ほとんど盗み聞きをされていた割には杏寿郎さんは気にしていなさげだ。


「も、申し訳ありません立ち聞きするつもりはなかったのですが!」
「俺の方こそ見苦しいものを見せてしまったな!申し訳ない!」
「いえ!とんでもございません!」


示し合わせた訳でもなく整列して深々と頭を下げるも、逆に詫びられてしまえば代表で喋っている隠もあわあわとしながら首を左右に振る。
私は隣の子に合わせて頭を下げたまま、この嵐が去るのを静かに待っていた。まさか目以外を覆ったこの恰好で私だと気づきはしないだろうものの、近くにいられるとやはり落ち着かない。


「君たち、仕事はもう終わったのだろう?早く帰って休むといい!」
「お気遣い感謝いたします!見回り組がそろそろ帰ってくる頃かと思いますので、報告を上げ次第お言葉に甘えさせていただきます!」
「うむ!」
「それでは、我々はこれで…!」


よかった、何事もなく切り抜けられそうだ。さすが、会話の展開が早くて助かるというもの。
全員で今一度深々とお辞儀しては、踵を返してそそくさと退散しようと歩き出す。

――が、その安堵は本当に束の間だった。


「ああ名前、君は残りなさい」


何事もなく。そう疑いもしなかった私があまりにも浅はかに思えて、自分の頭のめでたさを心底呪う。

普段の快活なそれではなく、あまりにも静かに命じた杏寿郎さんに周囲がどよめく。
「名前って誰のこと?」「煉獄さん怒っていらっしゃる?」と心の声が駄々洩れで一同杏寿郎さんを振り返ると、当然彼の視線を辿って私に行き着く訳で。

どういうことだ、と言いたげな視線の集中豪雨に、意地でも杏寿郎さんを向かんとしていた顔が引き攣っていく。

やがて、杏寿郎さんが痺れを切らして一歩踏み出した。
こちらに近寄る気配を察し、慌てて距離を置こうと振り返った、が、時既に遅し。


「俺は婚約者と話があるのでな!ここは速やかに外してもらえないだろうか!」


私を逃がさんとばかりに腰をがっちり腕を回して捉え、その様子を唖然と見つめる数人の隠に有無を言わせぬ笑顔を向けながら、わざわざ”婚約者”の単語を強調する杏寿郎さんに、この場でそれ以上を詮索しようとする者などいるはずがなかった。
「はっはいぃっ!」と飛び上がるように慌てた返事をしては、脱兎のごとく逃げ出す彼女たちの背中を見送ることしかできない私は泣きそうだ。




***




沈黙が気まずいを通り越して、痛い。

あれから杏寿郎さんは無言で私を横抱きにしてその場を後にした。
凄まじい移動速度に危うく吐きそうになりながらも辛うじて「どちらへ」と質問を絞り出したところ、「君は自分の家の方角も知らないのか」とかつてなく冷たい答えを吐き捨てられた。
よく目を凝らしてみると確かに邸宅の方向へ進んでいる気がするものの、そもそもこの場所に訪れるのは初めてかつ土地勘のない私にそれが察せるはずがない。わかりやすい嫌味をありがとうございます。

言わずもがな。
これは、確実に怒っている。それも、前回の比ではないほどに。

正直、途轍もなく怖い。怖いけれど、何故こんなにもご機嫌が悪いのか理解できなかった。
しかし、そのあからさまな不機嫌とは裏腹に、私を抱き上げる腕は私が落ちないようしっかりと支えられていて、その手つきも驚くほど丁重だ。ますます訳が分からない。

やがて、私でもわかる自宅付近の林の中で、漸く下ろしてもらうことが叶った。
暫くぶりの地に足をつけた心地に脳がすぐに適応できず、足元がふわふわと覚束ない。


「煉獄家に入る覚悟が決まった……という訳ではなさそうだな」
「はい?」


ふらつきから体勢を立て直していた時、唐突に掛けられた台詞に思わず聞き返してしまう。
が、その危機感の無さが、全ての敗因だった。


「っ痛…!」


片手のほんの指先で捕らえられた顎は、いとも簡単に杏寿郎さんと強制的に目線が交わる角度に持ち上げられてしまう。
咄嗟に逃げようと身を引いた私の手首は、それを逃がすまいとした杏寿郎さんの瞬発力に適うはずもなく、ミシ、と嫌な音を立てて骨が軋んだ。


「名前。俺は今、猛烈に腹を立てている。悪いが、言葉を選んでいる余裕はない」


こちらを見下ろし影を落とした杏寿郎さんの瞳はまるで獲物を捕らえた猛禽類のようで、息をも忘れる重圧感に思わず震え上がった。


「鬼殺隊は君の遊び場じゃない。生半可な気持ちで戦いに関わるなど、言語道断だ」


その一言に、杏寿郎さんの怒りが全て込められていた。

――なに、それ。

確かに潜入を引き受けた動機は不純だ。反論の余地もない。
けれど、なぜそこまで言われなくてはならないのだろうか。
なぜそこまで否定されなくてはならないのか。

なぜ私は、こんなにも傷ついているのか。


杏寿郎さんは私が単なる暇つぶしで、遊び感覚で無責任に任務へ同行したとでも思っているのだろうか。
あなたは私を、”そんな女”だと思っていたのか。
これまで《未来の炎柱の妻》として必死に生きてきた人生は、一体なんだったのか。


遣る瀬無い思いがせり上がってきて、喉が締まるかのように苦しくなる。
ぽたりと瞳から零れ落ちた大粒の雫。ぼやけた視界の先で、杏寿郎さんがどうしてか狼狽えたように見えた。気づいても、気遣う余裕などあるはずがなかった。

パン!と、乾いた音が響く。
反射的に振り上げた反対の手で、杏寿郎さんの頬を思い切り張り飛ばすと、手首と顎を拘束する手が緩んだ隙に彼から大きく距離を取った。
わざと避けなかったのだろう、わざと拘束を緩めてくれたのだろう、この時の私はそんな簡単なことですら考え至らないほど冷静さを失っていた。


「あなたなんて、大嫌いです!!もう二度と私に近づかないで!!」


ありったけの憎悪を滲ませた瞳で無表情の彼を睨みつけ、感情任せに幼稚な罵声を浴びせた私は、その後彼の顔を一切も見ずに踵を返す。
送ってもらったお礼言い忘れたな、などといういつもの呑気な思考は最早存在していない。
ただただ悔しくて、虚しくて、一秒でも早くこの場を立ち去りたくて、がむしゃらに足を動かす。


「名前」


縋るように呼ばれた名前と、こちらに届かず空を切った腕。
全てを拒絶するように意識を遮断し、私は彼から逃れるべくひたすらに走った。




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