ここはまるで、異空間だった。

一度に何千人といった単位が収容できるのだという大広間は、どこを見渡しても豪華絢爛な装飾品で溢れ、天井から幾つも吊り下げられたシャンデリアが大理石の床を眩く照らしている。
会場にいる人々は参加者から給仕の者まで皆、もれなく西洋風の華やかな衣装に身を包んでおり、それぞれが思い思いにこの非日常を満喫し実に賑やかだ。

まるでお伽話の中に迷い込んでしまったかのようだと思った。
着慣れた着物も今は自室の桐箪笥の中で、代わりに先日この夜会用に急遽仕立てた西洋風のドレスを身に纏っているという現状がまた、思い切り場所見知りする私を一層心細くさせた。
アール・デコという形状であるらしい撫子色のドレスは、腰より少し高い位置からシフォンなる軽く透き通った生地が幾層も重なり、ふんわりと足元まで覆いつくしている。これがもうひと昔前の流行だったならば、胸元を大きく開ける意匠になったのだと、数日前帝都の仕立て屋でその話を世間話程度の軽い口調でされた時には思わずぞっとした。洋装をする機会はあまりなかった自分が、いきなり西洋の服飾文化に馴染める訳がない。


数日前、友人が私に耳打ちした提案は、『夜会に参加してみないか』というものだった。
今いるこの場所はとある資産家が鹿鳴館を真似て建設した洋館で、定期的に若者たちを主役とした夜会やお茶会が開かれているらしい。特に男女の出会いの場として重宝されているこの夜会は、幼少期から許嫁がいるという理由が前提にしても不自然なまでに社交界と無縁だった私にとって、良い息抜きや刺激になるだろうというのが、友人の思惑だった。
ここで出会いを探してあわよくば乗り換えてしまえ、とまでは言わないが、人脈作りの一環として視野を広げてみるのも悪くないはずだとにっこりされてしまえば、納得はすれど断る理由はない。純粋に、相談相手が出来て嬉しかったというのもあるが。

私が夜会へ行くことに、父は最初当然良い顔をしなかった。が、一緒に頼み込んでくれた友人の巧みな会話展開が功を成し、今に至る。今や交渉術は男性だけのものではないのだと片目を落とした友人の、なんとも頼もしいことか。
夜会の主催者が父もよく知る家の当主であることと、入場には毎回入念な身元確認が行われるために変な輩はまず入って来られないのだという安全性の高さが最終的な決め手らしく、こうして本日無事に初めての社交活動を経験するに至ったのだ。


だが、しかし。
一緒に来た友人は今、入場早々に目当ての殿方と交友を深めるべく姿を消してしまった。気になる殿方がいるとは聞いていたけれど、まさかこんなに早く一人にされるとは。

内心ため息を吐きつつ、慣れない立食をする気にもなれず、壁の花に徹しながら周りをぼうっと観察してみる。
結婚適齢期の男女が多い場であるが故に、皆どこかぎらついた目で将来の伴侶となるべく人を見定めているようだった。誰よりも目立たんと競うように奇抜で華やかなドレス、西洋文化に倣いこの日のために習得したのだろう社交ダンス、荘厳な音楽に色めいた声たち。私の知らない別世界が、確かにここに在った。

私も許嫁がいなければ、今頃こうして結婚相手を探していたのだろうか。

前世ですっかり殿方に対する不信感が根付いてしまった私は、未来に夢を馳せるあの令嬢たちがひどく煌びやかな存在に思えた。
今更、私に結婚など向いていないのだろうと、ここにきて痛感する。
私は破談が成立した暁には西洋医学を学ぶために留学するつもりだ。婚約者を亡くした前の私のように周りから見くびられないためにも、強い信念や目標を持つ必要があるから。将来を考える必要もなかった私が唯一、信念を持ってやれそうなことは、それくらいだった。


『君の遊び場じゃない』


彼の言葉が不意を突いて脳内に反響し、私の心を凍てつかせていく。
役立たずと言われているようだった。私自身に価値はないと、そう蔑まれているようだった。
もう一週間以上経つけれど、あれから私は彼と会っていない。顔も見たくなかった。そんな思いが伝わったのか、愛想を尽かしつつあるのかは定かではないけれど、彼も以前のように無理やり邸宅の門を潜ってくるようなことはなくなり、今や数日に一度訪れてきては私からの門前払いに大人しく帰っていく日々が続いている。このまま破談に応じてくれたらいい。



「お嬢さん。浮かない顔をして、何かお悩みですか?」

「……え?」


いつの間にか床へと落ちていた視界に影が差したことを、声をかけられて初めて気がついた。
顔を上げると、黒いスーツに身を包んだ好青年が私の双眸を心配げに覗き込んでいて、その距離の近さに思わず息を呑む。
そんな私に青年は速やかに人一人分の距離を取ると、人の好さそうなかんばせに冗談めかした笑みを浮かべた。


「お嬢さんのような暗い顔をしているご令嬢は目立ちますからね。夜会は退屈でしたか?」
「い、いえ!そんなことは……ただ、」
「ただ?」
「慣れない場に少し気後れしてしまって…」
「なるほど。でしたら、今宵は私があなた様のお相手を務めましょう」
「お、お相手?」
「ええ。お嬢さん、お名前をお聞きしても?」
「え、あ……」
「ふふ、まあいいでしょう。ここでは名乗らなくてはいけない決まりはありませんからね。さ、参りましょうか」
「あ、あの、ちょっと…!」


やや強引な誘い方とはいえ、そうして仲良くなった青年は恐ろしく紳士的な人だった。
社交ダンスの心得がないと言った私にでは食事をと勧め、慣れない立食や料理に困惑する私に歩調を合わせつつ、優しく丁寧にマナーやどういう料理なのかを教えてくれた。その間に入る雑談は実に軽妙で、あれだけ憂鬱だった気持ちは次第に薄れていった。そんな私たちに割り込んできてはパートナーの交替を申し出た別の殿方をやんわりと追い払ってくれたし、逆に自分が令嬢から誘いを受けた時も相手を傷つけないよう最大限配慮した物言いで断り、私が前方不注意な殿方とぶつかりそうになった時には素早く回避させてくれた。かといって彼は私に出来ていただろう隙に漬け込むことは絶対にせず、許可なく体に触れたりは当然ながら、余計な詮索もせず、些細な会話のやり取りでその境界線を見極めてくれるような出来た人だった。
こういう人が、理想の殿方として世間の目を集めるのだろう。
ふとした拍子に瞼の裏に蘇る”あの人”の笑顔を何度も消しながら、そんなことを思う。


「少し、中庭に出ませんか?」


夜も更けた頃、彼はそう言った。


そうして案内された中庭は見事な薔薇園だった。
赤、黄、白、薄桃。月光と外灯の仄かな明かりに照らされた色とりどりの花々たちは、それぞれ夜ならではの美しさを振りまいている。
「うわあ」と年甲斐もなく感嘆の声を上げながら辺り一面を見渡す私の後を、微笑ましげについて歩きながら唐突に彼が切り出した。


「少しは気分転換になりましたか?」
「え?」
「初めてお見掛けした時、とても思いつめたような顔をしていらしたので」
「…ああ……はい、おかげさまで」
「それはよかった」

心から案じてくれていたのだろうその微笑みにつられてにっこりする。

ゆっくり散歩しましょうという彼の言葉に甘え、広い中庭を端から順番に探索することにした。
一口に薔薇と言ってもその形状は多種多様で、何十枚もの花びらが重なって圧倒的存在感を放つものもあれば、一輪に数枚程度の花びらが一枚一枚上品に開き綻ぶ不思議なものもあって、薔薇という植物の奥深さを知る。

そうして博識な彼の解説を受けながら、まるで迷路のような生垣の中を歩んでいく、そんな最中。

”その花”の前で足を止めたのは、弁解の余地もないほどに無意識のそれだった。


「………」
「それが気になりますか?こちらは絵日傘という品種です」
「絵日傘……」


彼の口から紡がれたその名前を、そっくりそのまま繰り返す。
私の視線を捉えて離さないその大輪の薔薇は、黄色い花びらの先に燃えるような緋が宿っていた。


(杏寿郎さんみたい)


胸中で思うよりもっと早く、きっと視界に入った瞬間からそう感じていたのだろう。
今まで単純に、綺麗だな、だとか、良い香りだな、だとか普通の感激でいっぱいだった私の心は、それらが全てなかったものになってしまうくらい、この焔色の薔薇に強烈に惹きつけられていた。

否、惹かれているのは本当に”花”なのか。


刹那。絵日傘から目を離せない私に、ふと、横からほっそりとした腕が伸ばされ、髪に触れた。
突然のことに驚いて我を取り戻した私は、しかしすぐに引いていったその手に困惑しつつも髪に残った違和感に気づき、恐る恐るとそこへ手を伸ばす。
どうやら髪に、花が挿してあるらしかった。青年は優しく眦を細める。


「あなたは花が似合うお人だ。女性に黄色い薔薇を贈るのは気が引けるので、お気に召したそちらの品種でないことはお許しください」
「え、あ、よかったんですか、お花摘んじゃって……!」


彼の唐突な行動に動揺して、なんとも色気のない返答をしてしまった。しかし、そんな私にも彼はおかしげに笑うばかりで、「ええ、いいんです」とこともなげに話し、そして続ける。


「ここはいずれ私が継ぐ施設ですから」
「……え!?」


それはすなわち、そういうことだ。
あまりにもあっさり明かされた彼の身分に慌てふためいていると、最初こそ面白そうに挙動不審な私を見守っていた彼が、ふと、「お嬢さん」と改まったふうに口を開いた。


「そろそろ、お名前を教えていただけませんか?調べることは容易いですが、できることなら私は、あなたの口から直接お聞きしたいのです」


甘さを孕んだその口調に、息を呑む。


「願わくは、私はお嬢さんと個人的に関係を深めたいと思っています」


世間知らずな自覚はある私だけれど、この言葉の意味を察せないほど鈍くもなかった。
あの人以外にそんなことを言われたのは初めてで、思わず頬が熱くなる。

しかし、どうしてか。これっぽっちも嬉しくはなかった。
こんなにも真摯に想いを伝えてくれているのにと、申し訳なさに押し潰されそうで、言葉を失う。


『共に乗り越えよう、共に最善を考えていこう、俺は名前とそんな夫婦になりたいと思っている』


幼い杏寿郎さんの声が、耳の奥を掠めていく。
ああ、なぜ、今思い出すのだろう。
素敵な殿方と生きる未来を、選択肢として与えられている今に限って。

否、選択肢なんて最初から存在していなかったのだ。
彼と楽しくお喋りする裏側で、”あの人”の影を消すことはとうとう叶わなかったのだから。それが答えである。


「あの、私……」


目を泳がせながら、断りの言葉を模索する。
目の前の彼のように相手を傷つけない言葉を選ぶことも、あの人のように明確かつ真摯に自分の思いを伝えることも、私にはどちらもできそうにない。どうしてこうも、不甲斐ないのだろう。


「返事は次回まで待ちましょう。ゆっくりでいいので、考えていただけませんか?私との将来を」
「残念ながら次回はない」


突然背後から知った声が響くが早いか、ふわりとドレスの端が揺れ動き、視界が黒で埋め尽くされる。
強い力で手を引かれ、息をする間もなく”その人”の腕の中に閉じ込められてしまったからだった。
薔薇の強い芳香が満たすこの空間で、今私は”彼”の匂いだけを感じている。


「俺が代わりに返事をしよう。――彼女と君が共に生きる未来など永遠に来ない、諦めてくれ」


もう二度と会いたくないと思っていたにもかかわらず、その久しい温もりを受け入れてしまうと、存外安心している自分がたまらなく情けなく、そして滑稽に思えた。




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