生命の儚さというものを初めて身近に感じたのは、杏寿郎さんの母君であられる瑠火様が流行り病で亡くなられた時だった。私が十歳の時だ。
優しく、たおやかで、強かな女性だった。
『鬼狩りの一族に嫁ぐということは容易ではありません。優しいあなたには辛い思いをさせてしまうでしょう』
煉獄家の妻たるもの、母たるものを私に説いてくれた瑠火様は、いつも決まって慈しむような眼差しで私を案じてくれていた。
その意味がわかったのは、瑠火様の葬儀を終えた後だった。
死ぬとはどういうことなのか。
煉獄家に嫁ぐとはどういうことなのか。
母親の死に涙一つ零さず、ただひたすらに父親と幼い弟を気遣う杏寿郎さんの姿を目の当たりした時、言葉に出来ない強大な不安が私に襲い掛かった。
そうして、私にまで気遣いを向けた杏寿郎さんに、私は今度こそ感情が決壊した。
いろんなことを彼に言った気がするけれど、細かくは覚えていない。それでも、不安だけは私の幼い心にくっきりと爪痕を残した。
周りを気遣うばかりな杏寿郎さんに何もしてやれない自分が、不甲斐なくてたまらなかった。
そんな私なんかがなれるのだろうか。
この優しくて強い人の妻に。瑠火様のような強い母に。
思い始めたら止まらなくなって、思い詰めすぎたのか今度は私が体調を崩すようになった。瑠火様が亡くなったばかりだというのにこの体たらく、いよいよ婚約者失格だ。私は彼の隣に立つに相応しくないと、卑屈な思いばかりが先行する。
「結婚、やめたいです」
ある日、泣きながらそう切り出した。
高熱を出して寝込んでいた私を見舞いに来た杏寿郎さんの心配げな顔に、もう限界だと思った。
私が思い悩んでいることは、杏寿郎さんはとっくに気がついていたらしい。瑠火様の死がきっかけになっていることも。
熱に浮かされながら勢いに任せて懇願にも近い言葉を吐きだした私に、杏寿郎さんは優しく私の上体を起こすと、そのままぎゅっと抱きしめた。
私の言葉が突発的なものであることを分かっていたのだろう。否定も肯定もせず、赤子をあやすように背中をぽんぽんと撫でる。
しかし、そうされることが却って私を更に追い詰めた。頭に血が昇り、離してくれと身を捩るものの、既に彼の力に遠く及ばない私には到底敵わない。
「私は煉獄家にふさわしい立派な妻にはなれないんです!杏寿郎さんが鬼殺隊に入ってしまうと思うと怖くてたまらないし、いつか生まれてくる子供へあなたと同じように生きろだなんて言えない!ほんとは鬼狩りなんて関わりたくない、関わってほしくない、どんなにずるくても、生きていてほしい……私は、瑠火様のようにはなれないの……っ!」
瑠火様はどんな思いで死地へ赴く夫を毎夜見送り、愛する我が子を死なせるかもしれない未来へと導いていたのだろう。聞きたくても、一生答えを知ることは叶わない。今まで、瑠火様がいてくれたことで私は安心しきっていて、どこか他人事だったのだ。
鬼殺隊に関わる者は皆、戦いの果ての死よりも先にあるものを見据えている。それができない、どこまでも自分本位な私が、煉獄家の嫁など、片腹痛いにもほどがある。
悲鳴にも似た声は最早ただの癇癪だ。彼の婚約者云々以前に、女子としての品格すら疑われるだろう。情けないを通り越して、惨めだった。
しかし、それでも杏寿郎さんは嫌な顔をするどころか、「そうか、そんなふうに思ってくれていたのだな」と、また優しく笑った。
「名前が嫁ぐのは煉獄家ではなく、俺だろう」
その言葉はあまりにも当然とばかりな口ぶりで、私の根本的な概念を容易く揺さぶった。
子供をあやすような手つきは、いつの間にか慈しむようなそれに変わっていて。背中から伝わる呼吸を、心音を、生きているのだと確かめるように上からゆっくりと撫でおろしていく。片手は私をしっかりと支えながら背中を撫で続け、もう一方では思わず顔を上げた拍子に眦から零れ落ちた大粒の涙を指先で拭い去った。
「母上になろうとなんかしなくていいんだ。将来子供に鬼殺をさせたくないなら、それでもいい。俺は剣士になるのをやめるとは言ってやれないが、名前のその想いは永久にこの胸へ刻もう。俺は君が不安にならないほど強い男になってみせる。君がなんの気負いもなく、ただ一人の妻として俺の隣で笑っていられるように、俺が君を守ると誓おう」
愛おしげに、太陽のような笑顔を向けてくれる彼のまばゆさに、目が眩む。
そんなふうに言われてしまったら、私は―――。
いつの間にか涙は止まり、すっかり大人しく腕の中に収まっている私に、そして彼はこう続けた。
「不安を話してくれてありがとう。これからも思うことがあったならそうしてくれると有難い。そして、その時はまた共に乗り越えよう。共に最善を考えていこう。俺は名前と、そんな夫婦になりたいと思っている」
***
ああ、彼は、私を役立たずだからと憤った訳ではなかったのだ。
”鬼狩りの妻”にならなくてもいいと、かつてそう言った杏寿郎さんはどんな思いで一人その記憶を保持していたのだろう。
今日に至るまであの日のやり取りを幾度となく裏切ってきた私に、何を思っていたのだろう。
高熱で限界だった脳は、あの日の記憶をあまり鮮明には残してくれなかった。
その曖昧さに負けて絶対に忘れてはいけなかったこのやり取りはいつしかすっかり抜け落ち、鬼殺隊に入隊した杏寿郎さんがどんどん遠いところに行ってしまう焦りへと瞬く間に上書きされてしまったのだ。
彼を初めて愛おしいと感じた日は、その尊さが曖昧なまま漠然とした恋心として育まれ、そうして出来上がった不安定で脆い恋心は、彼の殉死という耐えがたい現実に瞬く間に砕け散った。
そして、今更あの日の記憶が鮮明に蘇ってしまった今。
あの日よりもずっと鍛え抜かれた腕の中に私を閉じ込める彼に、私は一体どんな情を抱くのが正解なのだろうか。
→次
(MENU)
(BACK TO TOP)