晴れた夜空に広がる星屑を辿る。澄み切った空気を裂くように、石畳を踏む無機質な足音を鳴らすのは私だけで、隣を歩く杏寿郎さんのそれはその体躯に見合わずどこまでも静かなものだった。


『帰ろうか』


あの後、杏寿郎さんは一緒にいた殿方へ早々に話をつけて退散させると、いつもの太陽な笑顔とは似つかぬ、まるで怒りや悲しみを必死で抑え込んでいるような強張った笑みでそう言った。
結局自分で断ることができなかったあの方への罪悪感を引き摺りつつ、言われるがまま杏寿郎さんに手を引かれて会場を後にする。一緒に来た友人については気にしなくていいと先手を打って言われてしまったが、それ以降は息遣いすら感じないほどにひたすら無言だった。

しかし、不思議と前回のような恐怖心はやってこない。
彼に思うことがあって、恐らくそれに怒りも含まれていることは確かであるものの、その不透明さがなんだか迷子の子供のようで。普段あれだけ気早な彼らしからず、どこか私の様子を窺っているようで。


「あの、杏寿郎さんも来ていらしたんですね」
「……」
「洋装、とてもよくお似合いです」
「……」


とうとう気まずさに耐えかねた私が先に口を開くも、杏寿郎さんは何も言わない。夜会に潜入するためわざわざ用意したのだろう、初めて見る彼のスーツ姿は息を呑むほど美しいというのに、この口を飛び出す言葉はなんとも白々しいものたちばかりだった。


「……怒って、いらっしゃいますか」


つい口にしてしまった言葉に、は、と身が凍る。
何を言っているんだ私は。怒っているに決まっているだろう。破談寸前とはいえ、婚約者が親の同伴もない夜会に出席し、あまつさえ他の男と二人きりで過ごしていたのだから。体裁が悪いどころでは済まされない。

能天気にも過ぎる私の問いかけは今度こそ愛想を尽かすことだろう。
そう覚悟して杏寿郎さんを見上げた刹那だった。
洋装に合わせて白い手袋をした杏寿郎さんの手が、ストールを羽織る私の肩を掴んだかと思えば、そのまま力強く胸に引き寄せられる。


「すまない、…すまなかった」


唐突に繰り返される謝罪。肩口に顔を埋め、震える吐息が肌を撫でた。


「身勝手な理由で腹を立て、理不尽に君を傷つけた」


聞いたこともないその声音が、彼が今日までどんな思いでいたかを知らしめる。あの時の激しい感情が、跡形も残らずさらさらと夜風にさらわれていく。
身勝手なものか。彼の優しさに背を向けたのは他でもない、私だ。


「今夜は何を見ても決して君を責めまいと固く誓っていたというのに、このザマだ。…俺は、君の事となると情けなくも、器の小さい男になり果ててしまう」


自嘲気味にそう呟く杏寿郎さんに、胸がきゅっと締め付けられた。

違う、違うんです杏寿郎さん。そんなふうにあなたの心を縛りつけるほどの価値、私にはないの。
そう言ってしまいたいのにできないのは、私に傷つく覚悟が足りないからだ。臆病者、と心の中で自分自身に悪態を吐く。

それでも、かつてなく弱弱しい杏寿郎さんをこれ以上見ていられなくて、彼の背に掌を這わせたのはほとんど無意識の行動だった。
は、と息を呑んだのが肌から伝わった。


「私は、杏寿郎さんを器の小さい人だなんて思ったことありません。共に乗り越えようと言ってくれたのに、私はあなたの思いを踏みにじってばかり」
「!よもや……思い出したのか」
「はい。すみません、今まで忘れていて」
「いや、名前はあの時意識が混濁していたから、覚えていないのも無理はないと割り切っていた」


それは随分長い間虚しい思いをさせてきたものだ。
いつかとは立場が逆転したかのように、杏寿郎さんの背中をそっと撫でる。


氷のように冷たく、ぴくりとも動いてはくれなかった彼にそっと触れた前の世界での、あの時の絶望を、あなたは知らないでしょう。今、掌に伝わる体温を、鼓動を、私がどれほど尊く思っているのかも。
そして、二度と同じ絶望感を味わいたくないという、頑なな恐怖心を。


(この婚約が契約ではなく、愛情で結ばれたものだったらよかったのに)


そうならば、自分にもっと自信が持てたのだろうか。彼の想いを、素直に受け入れられたのだろうか。
あの日、無残に砕けた恋心は、今もそのまま私の心に破片を散らしたままで、二度と同じ形に戻ることはない。

でも、それでも。


「ねえ、杏寿郎さん。仲直りしましょう。さすがにあの喧嘩別れでは今後目覚めが悪いです」


少しだけ、ほんの少しだけでいいから、あなたの面影を残すくらいは、許されるだろうか。
どう足掻いても前と同じ生き方を選択する勇気はない、薄情な女の人生に。

撫でながら、冗談めかした語調で紡ぐ捻くれた台詞に、杏寿郎さんは空気を揺らすようにふっと笑った。


「なかなか素直じゃないな君も。…いいだろう、だがその”仲直り”とやらの方法は俺に一任してもらいたい」
「方法?」


答えは聞けなかった。
顔を上げた杏寿郎さんの一瞬、にやりと企みを帯びた笑みを見たが最後。目にも止まらぬ素早さで身を屈め、私の唇を奪っていた。

何が起きているのか思考が追い付かず、たった数秒が永遠に感じられるほどの時が強制的に流れる。

そして、漸く離れた杏寿郎さんが、はたまた蠱惑的な笑みを浮かべつつ、「これで君も少しは俺を意識してくれるんじゃないか?」と不純にも過ぎる動機を明かせば、さすがに我に返った。耳まで真っ赤になった顔を隠す余裕はない。


「!?なっ、な…仲直りはどこへ行ったんですか!?」
「今のが仲直りだろう。俺たちは婚約しているのだから、何の問題もあるまい!」
「何開き直ってるんですか!今の今までしおらしくしてたくせに!」
「俺の長所は切り替えの早さだ!」
「存じておりますけれど!」
「さすが、付き合いの長い許嫁なだけあるな!――では、そんな君にもう一つ有益な情報をやろう」


唐突に、耳元で囁く濡れた声音と、首筋をすっと撫でる指先に、ぞくりと背筋が震えた。
そして、その指はやがて髪に挿した薄桃の薔薇を払い落とす。


「俺は存外嫉妬深い男のようでな。その恰好は二度と、他の男の前でしない方が身のためだぞ」


……前言撤回。杏寿郎さんの器の小ささは、私の折り紙付きだ。




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