《立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花》

俺の許嫁は、この言葉を如実に表したような美しい女性だった。




出会った日の事は正直幼すぎてよく覚えていないが、彼女が俺の中で特別な存在となるのにそう時間は掛からなかったように思う。
当時は『きょうくん』と俺を呼び、覚えたての言葉をたどたどしく発しながら俺の後ろをついて回る姿は、さながら鴨の雛のようでとても愛らしかったし、人見知りの激しい名前が俺だけにふにゃりと気を抜いた笑みを向けてくれる瞬間は密かに優越感に浸っていた。煉獄家からそう離れていない苗字家に暇を見つけては通い、親交を深める日々の中で彼女を好きになるのは、極々自然の流れだった。


「婚約、ですか」


ある日、「お手伝いさんからお菓子をもらってくるから先に部屋で待っていてほしい」と名前に言われ、苗字邸の長い廊下を一人で歩いていた時。障子越しに聞こえてきた母上の声は俺の歩を止めさせた。障子の影には四人の大人がそれぞれ向かい合わせに座っている姿が映し出されていて、そういえば今日は珍しく父上も同行していたのだとここにきて思い出す。


「ご存知の通り、苗字は産屋敷一族の遠い血縁の家柄です。社会的地位の高い産屋敷はその割に情勢を知られておらず、内部は未だ謎に包まれています。苗字は謂わば産屋敷に繋ぐ架け橋として、何かと利用されやすい。そしてその矛先は、残念なことに今は名前に向けられつつあります」
「それで、周囲の目を欺くため、うちの杏寿郎と婚約を、と」
「…話が早くて助かりますな」


名前のお母上とお父上が紡ぎ出す言葉に、思わず息を呑んだ。

婚約。だれが。俺と、名前が。
話を嚙み砕くほど、経験した事のない高揚感で胸が熱くなる。

しかし、名前のご両親からの申し出を、父も母も良しとはしなかった。


「名前に不満がある訳ではない。あの子のような娘が嫁に来てくれたら、こんな喜ばしい事はないだろう。だが――」
「…私たちは既に、杏寿郎には炎柱継承という荷を背負わせてしまっています。お役に立てず心苦しいですが、親として、これ以上あの子の尊厳を奪う訳にはいきません」


両親らしい返答だと思った。
自分は父上の後を継ぐ事を荷とは思っていないというのに。俺個人を最大限尊重してくれようとする両親は、どこまでも愛情深い御仁だ。

しかし、それなら名前はどうなる。
ご両親の口振りからして、名前の身を守るため婚約は必要不可欠なのだろう。
ここで煉獄家が断ったとするならば、彼女は他の男と―――。


「今のお話、謹んでお受けします!!」


その先は考えられなかった。
ほとんど衝動的に障子に手をかけると、不躾に突入して開口一番、空気を震わす大声でそう放っていた。
目を見開きながら「杏寿郎」と俺の名を呟く母上、「盗み聞きした挙句、突然乱入してくるのは感心せんぞ」と動揺しつつも俺を窘めた父上、突然の大声に目を白黒させる名前のご両親に少し冷静になると、「立ち聞きしてしまい申し訳ありません」と頭を下げた。
我ながら子供らしからぬ態度だったように思う。しかし、この時の俺はとにかく必死だった。この機を逃せば彼女が手の届かぬ存在になってしまうと分かっていたからだ。
両家の両親の間に膝をつき、真剣な眼差しで俺は俺の意思を告げる。


「父上と母上のお気持ちは光栄ですが、俺は名前が好きです。この想いは一生変わることがないと今ここで誓います。名前に危害を加えようとする者がいるならば、俺が必ず守ってみせるとも!だからどうか、俺に彼女の人生を託してください!」



後日、煉獄家長男と苗字家長女の婚約が内定した。俺が齢六歳、彼女は僅か五歳だった。
そこから日を待たずして、世間に知らしめるべく大々的に執り行われた婚約の儀。そこで俺と名前は名実ともに許嫁同士となった。
苗字の財産や権力、もっと言うならば産屋敷との繋がりを目論み、我こそはと自らの子息を差し出していた邪な連中にはさぞ面白くなかったに違いない。あまりにも迅速な決定、偽造不可能な書面で交わされた正式な契約、恐ろしい速度で広まる世間の認識。取り付く島もなかっただろう。
ただ一つ。子を想う大人たちによって契約に追加された、互いに責任が持てる年齢になって初めて機能する《本人の意思尊重》という項目を、世間と名前本人に秘匿した事実を除いては。




***




夜会での一件以来、名前は俺からあからさまに逃げる事はなくなった。


「いらっしゃいませ、杏寿郎さん」


懲りずに突然訪ねた俺に、まるで婚約破棄を言い渡す前に戻ったかのように穏やかな微笑を浮かべる名前。その姿が不満だと言ったら、また怖がらせてしまうのだろうか。それとも、理不尽だと可愛らしく頬を膨らませてくれるのだろうか。


婚約を転機とばかりに、名前は日に日に女性らしい洗練された立ち居振る舞いを身に着けていった。俺の呼び方も『きょうくん』から『杏寿郎さん』へ変わり、舌足らずだった発音も矯正された。それこそ、冒頭の言葉が彼女のためにある言葉なのだろうと大真面目に考えてしまうほどに、婚約者の贔屓目なしに彼女は時を重ねるごとに美しくなっていった。

しかし、その一方、彼女は自分の意思を押し殺すようになった。女たるもの良妻賢母であれという世間一般の風潮、そして嫁ぎ先が≪鬼狩りの名門≫である事が重荷になっているのは明らかだ。
波風立てぬよう同じ笑みを浮かべながら俺の話を肯定する様は健気で可愛らしかったが、それ以上にもどかしく思う日々が続く。このままでは対等な夫婦になれない気がして、焦りにも似た感情で任務先から一心不乱に手紙を書いた。覚えたての字で互いに文を送り合った幼きあの頃のように、他愛ない言葉を数多の和紙に綴った。
婚約に至る背景を彼女に秘匿しているのは自分にも拘らず、この婚約を義務だと思わないでくれと、彼女に俺の想いを知って欲しくて着物や紅、簪など、その手の意味を持つ品を片っ端から贈った。恐ろしく鈍い彼女は、何一つ気がついていなかったが。


だから正直、久しぶりに名前の口から我儘を聞いた時は嬉しかったんだ。
それが破談の申し出だったという事は些末な問題で、俺にとって彼女のこの変化は好機に過ぎない。まあ、父上を通して一方的にそれを突き付けてきた事には正直焦ったが。
そもそも、『結婚をやめたい』と泣きつかれた事は過去にもある。その過去と同様、そこにどんな理由があれ本心でないとはすぐバレるというのに、まさか俺が承諾するとでも思っていたのだろうか。だとしたら心外だ。


(あの花をあんな目で見つめておきながら破談にしたいなど、説得力がないにもほどがあるな)


ふと、先日見た光景を脳裏に思い起こす。
俺との仲を取り持ちたかったのか邪魔をしたかったのか定かではない彼女の友人からの手紙によって知らされたあの夜会。男と一緒にいる彼女の後を気が狂いそうになりながら尾けた先で、外灯に照らされた薄闇の中でたった一つの花を真っ直ぐ見つめるその瞳には、俺と同じ色が映っていた。愛おしげに、悲しげに眦を細めるその様は、自信過剰だと誰に嗤われようが、彼女が何を想っているのか明白で。二人きりだった幼き世界が、未だここに健在しているようにすら思えた。
もっとも。名前が心変わりしようがしまいが、過去を思い出そうが忘れていようが、俺の知らない何かがあろうがなかろうが、今更逃がしてやる気は毛頭ないのだが。


顔を合わせて暫く黙ったままの俺に、名前が不思議そうに首を傾げる。
そんな姿にふと悪戯心が沸くと、俺は何も言わずに身を屈め、顔を寄せた。
すると、瞬時に何かを察した名前は、慌てて両手を俺の顔の前に突き出し、大声を張り上げる。今まさに彼女のそれを奪わんとした唇は、彼女の小さく柔い掌を掠めた。


「なっななな、なにをしてるのですか!」
「…わざわざ言わせたい癖があるとは、よもやよもやだな!」
「何の話ですか!そっそもそも、警護帰りに直接うちに寄らないでくださいと何度も申し上げているはずです!千寿郎くんが心配するでしょう!」


涙目になりながらそっぽを向いた名前。
想像通りの反応に口角が吊り上がる。好いた女性に意地悪をしたくなるなど、俺も大概だ。大概拗らせている、が、なんとでも言うがいい。
限界近くまで膨れ上がった彼女への好意は既に箍が外れつつあるが、それでもまだ直接伝える訳にはいかないのだ。少しの戯れ程度は許してくれと、心中で勝手に彼女へ言い訳をする。

前の彼女だったならば、拒絶することもせず、困った顔をしながらも俺の行動全てを容易く受け入れてくれていただろう。
必死で良い妻になろうと奮闘し雁字搦めになる彼女も大層愛おしかった。だが、俺は、今のように自由な彼女の方が好きだ。どうか、これからもそうでいてくれと希う。

願わくは、君の未来が幸多きものであらんことを。そして、そこにはいつまでも俺の存在があればいい。




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