机の上に置かれた、一本の簪。
橙色と茜色の硝子玉がしゃらしゃらと複数個垂れ下がったその中で、たった一羽、翼を広げる鳩を模った白銀の銀細工。
まるで、夕焼けに染まる空を白鳩が舞っているようなこの簪は、言わずもがな、先達ての外出で杏寿郎さんからいただいたものだ。

帰宅後に取り外した際に漸く目にすることとなったそれを初めて見た瞬間、まず先に「めずらしい」と思った。
杏寿郎さんから今までいただいた着物や装飾品などの品々は花を模ったものがほとんどで、今回は鳥という、今までの趣向と全く違う意匠だったからだ。まあ、その今までの贈り物たちは、婚約破棄をお伝えした時に全てお返ししてしまったのだけれど。

その珍しい簪を贈られて早三ヶ月。
私はそれを返品は疎か、使うこともあまつさえ引き出しの奥にしまいこむこともできずにいる。

あれから更に、嫌ってもらえそうなことを手あたり次第試したけれど、もうお手上げだ。
誰だ、百年の恋を冷ますより簡単だと息巻いた奴は。私か。
そもそも私は、杏寿郎さんが誰かを嫌う話どころか、個人的な愚痴一つ聞いたことがない。それに気づいた瞬間、はあああ、と盛大にため息を吐いて項垂れた。どうして考え至らなかったのだろう。あの人の人の好さを私は甘く見ていたのだ。…それこそが、彼の最大の美徳なのだけれど。
そうしているうちにだんだん取り繕うことすらできなくなっていって、今の私はもう、かつて志した《炎柱の妻になる者》とはかけ離れた、随分と不安定な存在になってしまっていた。

一体何をしているのだろう、私は。
今世でやるべきことなどとっくに決まっているのに、未だその一歩も踏み出せていない。時間が有限であることを、痛いほどわかっているはずなのに。


そして、私が何もできていないことに警笛を鳴らすかのごとく、前世とまるで同じ時間軸の近頃。各地で鬼による被害が以前よりも増え、鬼殺隊全体の空気はどこか緊迫した状態が続いていた。
それは杏寿郎さんもまた然りで、担当している地区の警護をしながらも手強い鬼の情報が入れば数日掛けてその討伐任務に赴く。
当然、そこそこ頻繁に苗字邸へ通っていた生活もままならなくなる訳で、今では直接会うことができない日は以前のように手紙のやり取りで連絡を取り合っていた。


『拝啓 煉獄杏寿郎様』


この文面を書くたびに、不安に駆られる。”前”としていることが、何一つ変わっていないじゃないか、と。
やはり、結局は同じになってしまうのだろうか。未来は、変えることができないのだろうか。
倖せになりたいだなんて、もう贅沢は言わない。ただ私は、もう傷つきたくないだけなのに。

まだ真白の和紙とそれを見守るかのように鎮座した簪を交互に見やり、ため息を一つ。


「お嬢様、お客様です」


そんな時だった。障子越しにお手伝いさんから声がかかったのは。




”お客様”が待っているという、座敷に顔を出すや、思わず目を見開く。


「あなたは、夜会の……!」
「お久しぶりです、”お嬢さん”」


出された湯呑みに手を付けることなく、礼儀正しく正座をして私を待っていたのは、もう何ヶ月も前になる例の夜会で私をエスコートしてくれた青年だった。



気まずく思っていたのは私だけだったようで、彼は私を見るやあの時と何ら変わらぬ、人当たりの良い笑顔を浮かべた。


「あの、どうしてここが……」
「主催の跡取りですからね、参加者名簿を覗くくらい容易いですよ」
「…あ…たしかに……」
「しかしながら、不躾な事をしてしまった自覚はあります。申し訳ございません」
「い、いえ!それを言うなら私の方こそっ…!」


薄情にも既に記憶から薄れかけていたあの夜を再び脳裏に呼び起こす。
彼の身分はわかっていたのだから、一晩付き合ってもらったお礼くらい手紙で伝えればよかったのだ。
お礼どころか杏寿郎さんが半ば追い出すように遠ざけてしまい、さぞ不快な思いをされたことだろう。申し訳ないどころの騒ぎではない。


「ご心配なさらずとも、あの夜の事を責めにきたのではありませんよ」
「え?」
「時間が経ってもあなたを忘れる事ができなかった愚かな男が、あの夜の返事をもらいにきた…とでも言いましょうか」


青年の柔らかな視線がほんの一瞬、年相応の色を纏う。それは下卑たものではなく、どこまでも穏やかで、かつ返事はわかっているとばかりにほんの一匙の寂しさを混ぜたようなものだ。
けじめをつけにきてくれたのだろうと、その表情が何よりも雄弁に彼の心境を物語っていた。

そんな彼の誠実さを、どうしたら無下にできるというのだろう。


「自己紹介が遅れまして大変申し訳ございません。私は苗字名前と申します」


彼の前で確とお辞儀をし、正式な礼を取る。この方はきっと、私の口から名乗り、私の口から返事を聞きたいのだろうから。


「やっとお名前を聞くことが叶いましたね。…では名前嬢、あの夜のお返事を」

「……申し訳ございません。あなたのお気持ちに応えることは、できません」


心に決めた方がいるから、とは言えなかった。現在進行形で捨てようとしている私にそれを言う資格はないから。
彼ほどの殿方の想いに応えられない理由も不確かなままで、それでも断る意思だけははっきりしている私は、さぞひどい女だろう。

それでも彼は、私を責めたりしなかった。


「……ありがとうございます。これで漸く、数カ月間の呪縛から解放されそうです」
「そんなに思い詰めさせてしまっただなんて…」
「全ては私の往生際の悪さ故です。あなたが苗字家のご令嬢だと知った時、…いいえ、あの薔薇園で”彼”が現れた時、私は自分の想いが届かない事を既に理解しておりましたから」
「それは、どういう…」
「絵日傘ですよ。その後に現れた彼を見て何も勘付かない者がいるのならば、それは余程の無粋者でしょう」


かあ、と頬が熱くなる。この反応が何よりの答えだと言わんばかりに、彼は微笑ましげな視線を依然として向けていた。
暫し穏やかな空気が流れたのち、そのひと時の終わりも随分とあっさりと切り出される。


「さて、私の失恋話はここで終いです。目的は果たせましたし、あんまり長居してはあのご婚約者に叱られてしまうでしょうから。お暇させていただきます」
「やっぱり婚約者だって、ご存知でしたか…」
「それは、ね。苗字家と煉獄家で執り行われた婚約の儀は、十三年前の当時上流階級の家柄を随分騒がせましたから」


私と杏寿郎さんの婚約が世間にそんなに知れ渡っていただなんて、初めて知った。当時五歳だった私には、ひどく重たい着物を何重にも着せられて煩わしかった記憶しか残っていないから。
目の前の彼は私よりもほんの少し年上程度だろうに、随分と社交界に詳しい様子で感心してしまう。

それにしても、やはりあの時名乗らなくて正解だと思った。私の顔は社交界でほとんど知られていないとはいえ、あそこで名乗っていたら人づてにあっという間に広がってしまっていただろう。そうなるといよいよ立場が悪い。


「そう思うのなら、これ以上無駄話せず、さっさと帰ってもらえると助かるのだが?」


自分の判断にほっと安堵の息を吐いていた最中、座敷に響いた低い声は目の前の彼から発せられたものではなかった。
さあ、と血の気が引いていくのは最早反射だろう。恐る恐る声の聞こえた方向へ顔を向けると、そこには案の定な光景が広がっていた。


「きょ、杏寿郎さん」
「おや、見つかってしまいましたか」


額に青筋を立てながらも辛うじて笑顔で話す杏寿郎さんは、いつの間にか開けられていた入口の柱に腕を組みながら凭れかかっていて、一方余裕綽々と声を上げる彼に更に機嫌を悪くする。


「心配せずとも、きっちりフラれておきましたから、どうぞ心置きなく彼女を独り占めしてください」
「君に言われるまでもなくそうさせてもらう!そもそも、返事ならあの夜しただろう!」
「私は”彼女からの”返事がほしかったので」


なんだか普段の弟と杏寿郎さんのやり取りを見ているようだ。杏寿郎さんの立場がいつもと逆転していて、なんだかとても新鮮だった。


「あまり嫉妬深い男は女性から敬遠されてしまいますよ」
「君こそ、そんなに底意地が悪くて将来嫁が見つかるのか心配だな!」


………。何をそんなにムキになっているのやら、だ。


結局、杏寿郎さんの煽りに顔色一つ変えずに帰って行った彼を見送った後、杏寿郎さんの機嫌取りは私の役目となった。


「婚約している女性の家に押しかけるとは、なんとも非常識な輩だな!」
「まあまあ、疚しい気持ちがあって来たのではないのですから…」
「よもや、君はあの男の味方をするのか!」
「なんでそうなるんですか!子供ですか!何かあった訳ではないのですから、寛大に対処してくださいと申しているだけですのに!」
「無理だ!俺はあの男が個人的に好かん!」
「………えっ」


それは、杏寿郎さんが個人的に嫌いになった天然記念物が誕生した瞬間だった。
……ちょっとその秘訣、彼に聞きに行きたいのだけれど、だめだろうか。



『絵日傘ですよ。その後に現れた彼を見て何も勘付かない者がいるのならば、それは余程の無粋者でしょう』


彼の言葉がふと、脳裏に蘇る。
その時は喧嘩していたから同じ色の絵日傘が目に止まっただけ、となぜか言い訳の言葉は一切出てこなかった。

つまり、そういうことなのだろう。


(結局また”同じ”だ)


初対面の人にすら隠せない時点で、私に弁明の余地は残されていない。
実際に今、私は、彼との些細な言い争いも心地よく感じてしまっているのだから。

結局私は、前世と同じように《煉獄杏寿郎》を愛してしまう運命なのだ。




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