また、夢を見た。


一切の彩りを失くした、ただ白と黒の世界。

和尚様の野太い声で紡がれるお経と、虚しく響く木魚の音はほとんど耳に入ってこない。
ただぼんやりと前を見据える”その女”の瞳は、どこまでも空虚なものだった。



ああ、二度目だな。通い慣れた邸宅がこんなにも無機質に感じるのは。
一度目は、九年前。そして、今が二度目。

頭の中で繰り広げられるなんの意味もない回想は、ただの現実逃避に過ぎなかった。



私が彼の姿を漸く視界に入れたのは、火葬前のほんのひと時だった。
これを逃したら二度と会えないのだからと、半ば閉じ込めるような形で彼と二人きりにされた。


棺の中で白い花に囲まれて固く目を閉じる彼は、その奥に宿る炎を燃やすことは二度とないのだと物語っている。
血の一滴も残さず綺麗に拭い取られ、死化粧を施された彼は、美しくもなんともなかった。
ただただ、「だれだ、このひとは」と、静かな感情のみが私の中を素通りしていく。

だって、あなたはこんな、たおやかな白い花が似合うような人ではなかったでしょう。
こんなにも儚く、希薄な人ではなかったでしょう。


それでも。
一縷の望みをかけるようにそっと触れた手は、悲しいほどに杏寿郎さんの手の形をしていて。そしてそれは残酷なほどに、つめたくて。
ああ、杏寿郎さんなんだ、と。
その時、私は初めて彼の死を認識した。


「きょうじゅろうさん」


涙の代わりに零れた呼び声。答えてくれる愛しい人は、もうどこにもいない。




***




目覚めた時にまずやってきたのは、どうしようもない虚無感だった。
ついに、夢にまで警告されるようになってしまったということか。


この世界にきて、一年と半年が過ぎた。
杏寿郎さんは満年齢ニ十歳となり、ついに享年と並んでしまった。


人生を変えるのに、二年なんて充分すぎる時間だと思っていた。浅はかな自分に、今は最早笑うしかない。
もう、私に残された選択肢など、真実を話して真正面から破談を申し込むくらいだ。これ以上作戦を練って小賢しい真似をするより、その方が余程堅実的だろう。ただし、それもその真実が『実は私は未来からやってきました』という突飛な案件でなければ、の話だが。


この世界で過ごすうち、だんだん前の世界での記憶が薄れてきてしまっていた。
私がどんなふうに煉獄家の嫁を志していたのか。前の世界での今頃、どんなことがあって自分が何をしていたのか。杏寿郎さんが亡くなった正確な日付すら、今ではもう――いや、これはこの世界にきた時から既に覚えてなかったかと、薄情にも過ぎる事実に自嘲する。


焦りが募る半面、このまま全て忘れてしまいたいとも思った。
《煉獄家に嫁ぐ者》という肩の荷を下ろし、ある意味で自由に生きた一年と半年というこの時間は、思った以上に幸せなものだったから。

彼の話に笑顔で頷けることばかりじゃなくなっても、時折意味不明な言動や理不尽な我儘で困らせても、そして、苗字家の息女に、煉獄家の嫁に相応しい行儀の良い女じゃなくても、杏寿郎さんは決して私に愛想を尽かさなかった。


『名前が嫁ぐのは煉獄家ではなく、俺だろう』

『君がなんの気負いもなく、ただ一人の妻として俺の隣で笑っていられるように』


何年も前、確かに言ってくれた言葉は、今でも違わないのだと、まるでそう言われているかのようで。否、事実、彼はきっとそう思ってくれている。
そんな彼に、このままずっと甘えていられたらどんなに幸せかと、どうしたら願わずにいられるだろう。


だけど私は、その甘えの先にある残酷な未来を、知ってしまっていた。
きっと、今世では、前世以上の絶望を味わうことになるだろうとも。

世間からの風当たりなど、もうとっくにどうでもよくなっていた。
ただ、繰り返したくない。杏寿郎さんがこの世から消えてしまう痛みを。鴉が直接訃報を伝えに来る”当事者”になど、なりたくない。
甘えていたい感情以上に、これ以上杏寿郎さんと共に時を過ごすのが、恐ろしくてたまらなかった。


脳裏に夢の中の光景が鮮明に蘇る。

真白の花々。真白の死装束。生気のない白い顔。白に囲まれた異空間で、髪の焔色だけは悲しいほどに鮮やかだった。
そして、花の隙間を埋めるように納められた山躑躅のハンカチ。《燃える思い》という花言葉が杏寿郎さんみたいだと思って、彼の無事を祈りながら入れた刺繍だった。棺には千寿郎くんが入れてくれたのだろう。ああまだ持ってくれていたんだ、と、当時はそんなことを考える余裕すらなかったことに今更気づく。あのハンカチの存在を思い出したのでさえ、この世界に来てからだったから。
本当は婚約者として葬儀の準備を手伝うべきだったのに、結局何から何まで千寿郎くんが取り仕切ってくれた。私より彼の方がよっぽど大人だ。

また、同じように何もかもを幼い千寿郎くんに任せ、氷のように冷たい杏寿郎さんに絶望するのだろうか。

考えるだけで全身が震えて、目覚めてからまだ一度も身を起こすに至っていない布団の中で縮こまった。


ふいに、胸元に手を当てる。
眠っている時でさえ肌身離さず身につけなければならない”それ”を、祈るような気持ちで寝間着越しにきゅ、と握りしめた。


ねえ、杏寿郎さん。あなたが死んでしまった時、私は本当に情けない婚約者だったの。
現実逃避をして、千寿郎くんを気にかけてやることもできなくて、杏寿郎さんの顔なんて自分からは到底見られなくて、弱った隙だらけの心を晒して醜い社交界の恰好の餌食になった。
最後だったのに、肝心な時に、婚約者らしいことは何一つできなかったのよ。
お願いだからもう、いい加減見限って。私と婚約さえしなければ、あなたはもっと素敵な人と一緒になれたはずだということ、いい加減わかって。
ほとんど懇願に近いその思いは、今日も恐らく彼に届かない。


いっそ全てを忘れ去って、《苗字の息女》でも《杏寿郎さんの婚約者》でも何者でもない存在になってしまいたかった。
そんなこと、胸元で握る”これ”がある限り、できっこないけれど。




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