名前の瞳から零れ落ちた一筋の涙。
それは、こんな月のない夜でも確かな輝きを宿す、この世の何よりも美しいもので。ひどくあたたかな感情が触れなくとも伝わってきて。愛おしいな、と純粋な想いばかりが熱く胸に込み上げてきた。


「きょ、じゅろ、さん……」


ひどくか細く、今にも消えてしまいそうな儚い声だったが、それは、間違いなく彼女の叫びだった。
十二鬼月に支配されながら、こうして僅かでも意識を引き戻せたのは奇跡だ。彼女は今、はらはらと涙を流しながらも命令に抗えず、短刀を握りながらこちらへと歩み寄ってくる。ああ、早く抱きしめてその涙を拭ってやらなければ、俺がそうせず誰がするというんだ。
強い意思が封じられた腕を動かす。日輪刀を握りしめる感覚が戻り、全身に呼吸を行き渡らせる。しかし、脚は未だ地に縫い付けられたまま。このままでは彼女の攻撃の方が早い。どうする。どうしたら彼女を救ってやれる。

彼女の刃が俺に届くまで、あと一歩だった。

それを受けるべく上体と腕だけで日輪刀を構えたものの、名前は足を震わせながらその場に立ち止まった。「なにしてるの、ねえ」鬼のやや苛立った声が届く。
俯いた名前はひどく葛藤している様子で荒く呼吸をし、やがて、短刀を手放した。
そして、震える手で胸元を探り、首から下げられた小瓶を力任せに引きちぎる。
それは、大いに見覚えのある小瓶だった。

―――刹那。嫌な予感が胸を過ぎる。


「やめろ名前…っ!!」


俺の叫びも虚しく、名前はこれで最後とばかりに俺の瞳を真っ直ぐに見つめると、微笑んだ。すべてのしがらみから解放されたような、清い微笑み。


「杏寿郎さん、ずっと、お慕いしております」


よりによって今一番聞きたくなかった言葉。それを一方的に言い放つと、彼女は瓶の中身を一気に呷った。

口にした者を死に至らせるという、劇薬を。




***




この一瞬で、走馬灯のように過去の記憶が駆け巡った。
それは、俺が最終選別を受ける直前の事。
話しておかなければならない事がある、と修行の合間に煉獄邸へ訪れた彼女は、胸元から小瓶を取り出した。それは、藤色の液体が揺れる美しい硝子瓶だった。


「これは?」
「藤の花を高濃度にして作ったと言われる薬です。ただしこれは、治療や鬼殺に使うものではなく、…人を…いえW私Wを、殺すためのものですが」


突然彼女から告げられたあまりにも物騒な話に思わず硬直した。
俺の反応を予測していたのだろう、彼女はやっぱり、と言わんばかりに苦笑いしては、再び真剣な眼差しに戻して話を続ける。


「苗字家が産屋敷家と遠い血縁であるというのは、周知の事実でしょう?実態が掴めない産屋敷とは違い、苗字は社交にも積極的で表立って生きておりますから、鬼共からしても目立つのです。つまり、万が一鬼に拉致された際にはこれを飲んで自決しろというのが、代々苗字に生まれた者に施される教育の一つでした。これは、将来を共にする方にのみ明かすという決まりで、私たちもあと数年で夫婦になることを考えまして、僭越ながら最終選別の前にこうしてお時間をいただいた次第です」


自分の命がかかった話だというのに、彼女はあまりにも淡々としていた。
俺の方が冷静でいられなくて、汗を握る拳を震わせながら彼女の綺麗な横顔に縋るような視線を向ける。


「話が飛躍しすぎていないか?実際、君自身は産屋敷家の情報を何か持っている訳ではないのだろう?」
「ええ、今のところは。ですが、…血の記憶、というものがあるのです」
「血の記憶…」
「鬼の始祖が苗字の者を捕らえた時、何をしたら手っ取り早く情報が引き出せると思いますか?」
「……」
「血に問うのです。まず体内に取り込み、分析して血や細胞からほしい情報を得ようとするでしょう。そうなったら、お館様の居所が知られることに繋がりかねません。それだけは避けなければならないのです」
「だが、毒を飲んで死んだところで結局は取り込まれてしまうだろう」
「最初に申し上げましたように、この毒は藤の花で出来ています。これは元々、鬼が取り込めない体にするための薬です。強い薬なので、結果として服用者は死んでしまうだけのこと」
「だけ、ではないだろう!なぜそんな冷静なんだ!何かあったら家のために死ねと言われているのだぞ君は!!」


当然のごとくそれを受け入れている彼女に無償に腹が立った。珍しく怒鳴りつけてしまったというのに、彼女は困ったように微笑むだけで何も言わない。
言いたいことがあるのだろうが、この子は言わないのだろう。自分の意思を押し殺してまで、俺についてこようとする健気な子だから。自分ばかりが彼女に感情を押し付けている気がして、途端不甲斐なさが己を襲った。

重い沈黙が漂う。
やがて、口を開いたのは俺だった。


「わかった、話してくれてありがとう」
「…はい」
「だが、俺が絶対にそんな薬使わせない。君を死なせたりなど絶対にしない」
「……」
「…誓わせてくれ、俺が名前を守る、と」




***




あの時の誓いを、破ってしまった。違えてしまった。
それも、産屋敷家のためでなく、俺のために。


刹那、もがき苦しみだした下弦を認めるのとほぼ同時に、自由を取り戻した四肢で奴の頸を斬り落とす。
半分は名前と同化していたのだったか、まさか藤の毒を自ら食らうとは思うまい。
断末魔を上げながら灰と化す鬼には目もくれず、その場に倒れ伏した最愛の人を抱き起こした。俺は今、ひどく情けない顔をしている事だろう。


「名前、頼む、死ぬな」


噎せ返るような藤の花の香り。脱力した華奢な体と、生気のない白い顔が、月明りの存在しない夜でもやたらと鮮明に俺の瞼に焼き付いた。




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