二種類の点滴が伸びる、白く細い腕。一滴、また一滴と少量ずつ流し込まれる栄養剤と解毒剤は、本当に彼女の生命を繋ぎとめてくれるのだろうか。
寝台の上に眠る愛おしい彼女は、ぞっとするほど青白く、呼吸は今にも止まりそうなほどか細い。
「名前」と、何度呼びかけたか分からない名前を性懲りもなく呟く。当然のように返事は来なくて、らしくもなく負の感情に押し潰されそうになる。
そんな中でも、手を握ると、ほんのりと生の宿る熱が伝わる。それだけが、現状ただ一つの救いであった。




***




意識のない名前を半狂乱になりながら蝶屋敷に担ぎ込むと、すぐに事態を把握した同僚が治療に当たってくれた。
祈るような気持ちで彼女を託し、処置室の前で待つ事暫く。漸く出てきた胡蝶の、「一命は取り留めました」の言葉に泣きそうになった。


「服毒後すぐに吐き出させたのは正しい判断でした。そうでなければ今頃、間違いなく息を引き取っていたでしょうから」


蝶屋敷に運ぶ前、彼女を抱き起こしてすぐに迷わず彼女の口に己の指を突っ込み、舌の奥を押して飲んだものを吐き出させたのが咄嗟の行動だった。嫁入り前の女性にする事ではないだろうが、そんな事を言ってる場合でも考えている余裕もなかった。
しかし、それでも全ての毒を吐き出させる事は出来ず、最終的に「無事に目覚めるかどうかは、賭けになるでしょうね」と沈痛な面持ちをした胡蝶の言葉が全ての結果となった。


朝陽が昇る頃、駆け付けた名前のご両親に事の全てを説明した。

我が子に劇薬を持ち歩かせねばならない葛藤に長年苦しんできたのだろう、義母上はいつになく取り乱した様相で名前の眠る寝台に縋りつき、義父上はそんな妻の肩を抱きつつも俺に「面倒かけてすまなかったね」と力なく言った。


それから更に数時間後、遅れてやってきた和彦には、顔を合わせて早々、顔面を殴られた。

「お前がついていながら、なぜこんなことになったんだ」

そう言う彼の瞳には、確かな憎しみが込められていて。返す言葉もなく黙りこくる俺に、和彦は泣き出しそうな顔で、「……もし、姉上がこのまま目覚めなければ、俺はお前を絶対に許さない」――そう言い放つと、今度こそ俺に背を向けた。何かと俺に突っかかってきていた彼はそれきり、俺に一切の感情も向けなくなった。


名前は、蝶屋敷の預かりになった。
あの秘薬を開発した人物はとうの昔に亡くなっている上、藤の花の毒に関する専門知識は胡蝶の右に出る者はいないという故の判断だった。
「すまない、宜しく頼む」と頭を下げる俺に、胡蝶はふわりと微笑んだ。


「いいえ、私もいつかお会いしたいと思っておりましたから。《煉獄さんの大切なご婚約者様》に」
「…そんなにわかりやすいだろうか」
「ええ、それはもう。きよ達ですら、察した顔をしていましたよ」
「よもや…それは是非彼女にも見習ってもらいたいものだな」
「あらまあ。では、…目覚めたらしっかりと教えて差し上げなくてはなりませんね」
「………」
「きっと、元気になってくれます」




***




名前が昏睡状態に陥ってから、ひと月が経過した。
夜間の任務や警備をこなすとその足で蝶屋敷に通う日々。どんなに忙しくとも、生きている彼女を毎日この目で見るまでは安心できなかった。

病室に入って視界に飛び込むは、点滴に繋がれた婚約者の痛ましい寝姿。
「あの子、これをずっと大事に机に飾っているのよ。傍にあった方が安心すると思うの」――ある日、そう言って義母上が持ってきたのは、もう一年以上前に俺が贈った白鳩の簪。それは今も、昨日と変わらず寝台横の机で持主の目覚めを待っていた。
そんな様に、今日こそ「杏寿郎さん」とこちらに微笑みかけてくれるのではないか、という愚かな希望はあっさりと打ち捨てられる。


こんな思いをするのは、母上の死んだ時以来だろうか。


もう二度と目覚めない母上、残酷な現実に打ちのめされた父上、そのどれもを理解できずただ一人無垢な千寿郎。
自身の虚無感、悲しみ、寂しさは二の次だと思った。全ての感情を切り捨てて、今幼い弟を守れるのは自分しかいないのだと、ひたすらに現実と向き合う覚悟を決める。俺がどんなに打ちのめされても、有限な時間は無情に流れていってしまうのだから。

葬儀の直後、漸く名前と落ち着いて顔を合わせる事が叶った。
名前は俺の顔を見るが早いか、虚ろだった瞳をたちまち涙でいっぱいにし、嗚咽を漏らしてぼろぼろと泣き出した。
彼女と母上はまるで実の母娘のようだったから、到底受け入れられないのだろう。『母上も君にそんなふうに想ってもらえて、幸せだろう』――そう、慰めにもならない言葉をかけてその背をさすろうと腕を伸ばした、刹那。勢いをつけて首を左右に振った彼女に、思わず動きが止まる。

『杏寿郎さんがっ…泣かないから、代わりに泣いてるんですっ……!』

その言葉が胸に突き刺さった。
こんな彼女の姿を見るのはいつぶりだろうか。自制の効かなくなった子供のように感情を溢れさせ、怒っているような、悔しそうなその顔は紛れもなく俺がそうさせている。
そう思った途端、俺の中に様々な想いが舞い戻ってきた。
感情に任せて彼女を力いっぱい抱きしめ、『泣かせてしまって、すまない』と精一杯に絞り出す。

君は知らないだろう。
この時俺は初めて母上の死を受け止め、君の温もりを借りて密やかに涙した事を。
俺が置き去りにした感情を、君が掬い上げてくれた事を。
君に対する俺の恋情が、この時確かな愛情に変わった事を。
そして、素直で感情豊かな本来の君が、自然に、君らしくいられるような夫になると決意した事を。



長い婚約期間の中、互いの立場の重責に抑え込まれてしまった彼女の喜怒哀楽。あの出来事の後、高熱に浮かされながら『結婚をやめたい』と癇癪を起こして以降、俺の決意とは裏腹に、名前があのように感情を溢れさせる事はなくなった。
常に一定の温度を保ち、花のように美しく微笑む彼女が唯一その心を乱してくれた瞬間は、俺が怪我をして任務から帰って来た時だけだ。彼女が己の意思を殺すようになってしまった焦りは、その心配げな困った表情を見るたびに幾分か落ち着いた。我ながら最低ではあるが。

そして、転機は唐突に訪れた。
もう、一年と半年以上経つだろうか。
それは、熱病に侵されていた彼女を見舞ったあの日。怒でも哀でもない、ただただ悲痛なばかりの涙だった。恐らく、否、間違いなくあの時には既に何かが起きていたのだろう。
そうしてひびの入った感情を修復してやるどころか、彼女を挑発しそこに漬け込むような真似をした俺はとんでもない男だ。そして、その判断が間違っていなかったと今でも反省していない程度には、ひどい婚約者だろう。

俺の思惑通り、名前は日に日に喜怒哀楽を取り戻していった。
まずは怒。しつこく苗字邸に通い詰める俺に、ついに堪忍袋の緒が切れた時。
次に哀。義父上からの言いつけで隠として潜入した名前に、俺が理不尽な怒りを向けてしまった時。
楽。俺を振り回していたつもりなのだろう、悪戯を考える子供のように煌めいた瞳であちこち飛び回っては大量の贈り物を選んでいた時。

そして、喜。半ば無理やり簪を贈った時。


(あの時、君自身気づいていなかっただろうな)


「…ありがとうございます」そう小さく言いながら、ふにゃりと気の抜けた笑みを浮かべていた事を。それが、幼い頃、俺が最初に好きだと思った君の表情そのままだった事を。
ああ、喜んでくれたのだなと。その瞬間、今までの苦悩が報われた気がした。


あと少し、あと少しだったんだ。
あとは、破談を迫ってまで回避しようとしているW何らかの不安Wを解消してやる。
それができたならば、今度こそ自ら求婚しようと心に決めていた。なのに。


「……君が傷つく必要なんてなかったんだ」


あの時、君の刃が先に届いたとしても、殺される前に俺の術は解けていただろう。あの卑劣な鬼の血鬼術に再びかかるまでに、頸を斬る程度の実力はあるつもりだ。こう言っては失礼だが、君程度の腕力で刺された傷など、そうかからず塞がる。もしもその罪悪感で再び心を閉ざしてしまったならば、何度でも俺が取り戻す。だから。君が身を挺す必要など、なかった。

ああ、でも、それでも。
君は後悔など一つもしていないのだろう。
反省などこれっぽっちもせず、『杏寿郎さんが傷つかなくてよかった』と、まばゆいばかりの微笑みでただ安堵を述べるのだろう。


「守ると誓ったのに、逆に守られてしまうとは、何とも情けない」


握った手を緩め、指を絡める。こんなにも小さく、柔く、非力な手なのに。
あの日を悔いてももう遅いのだ。立ち止まっても、世界は変わらず時を刻む。どんなに無情な現実が突きつけられても、時は共に立ち止まって悲しんでくれやしない。それを体感した九年前、時の代わりに一緒に立ち止まって泣いてくれた名前は今、ここにはいない。あの日のように、行き場のない俺の心を救ってくれる事はない。


彼女の儚いぬくもりに誘われるように、今日も彼女の傍で短い微睡へと落ちる。


浅い眠りの中、夢では君に会うことが叶った。
その姿を目にして、ああ、と思う。

俺の、最愛にして、倖いの人。
どうか、どうか泣かないでくれ。




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