ぶくぶく。ぶくぶくぶく。

果てしなく深い、水底に沈んでいく。
身体にまとわりつく水が重くて、冷たくて、苦しい。


出なくては、ここから。
だって、呼んでいる。あの人が。私を。


「名前、聞こえているか?」


聞こえているのに、はいと言えない。指一本動かすことは疎か、記憶やそれに伴う感情までもを読み取られて、私を操る鬼にそれらを土足で踏みにじられる。
それでも、私の姿、私の声で発せられる安い言葉の数々を杏寿郎さんは決して鵜呑みにしなくて、それだけで泣きそうになった。


「これは全て俺の不甲斐なさが招いた結果だ、本当にすまない」


意識の水底へと真っ直ぐに届けられる、杏寿郎さんの低く心地の良い声。
今まで散々困らせてきた、今回に至っては完全に足手まといになっている私に、どうしたらそんな言葉がかけられるというのだろう。


――いいえ。あなたは、最初からそういう人でしたね。

幼馴染だから、婚約者だから。そんな肩書以前に”私”という個人を真っ直ぐに見つめてくれる、とても誠実で優しい人。どんな時でも決して揺らがない、強くて真面目な人。
そんなあなただったから、私は愛してしまった。一度目も、二度目も。否、例えこの先、何度時間を巻き戻そうとも、何度生まれ変わろうとも。

私はもう、とっくの昔に、あなたに絆されていた。


冷たい水に囚われる中、杏寿郎さんの赤い瞳を縁取る金色の輪がきらきらと煌めていて。夜の闇をまばゆく照らす、暁光のようで。その尊さに溢れる涙が、”現実の私”の頬を濡らす。
彼の炎が闇を祓うかのごとく、水底でもがく私を引き上げた。

奇跡的に取り戻した束の間の自由。その使い道は考えるまでもない。
大切なあなたに傷をつけてしまうくらいならば、私は喜んで死を選ぼう。

だって、もう二度と会えないはずだったあなたと、もう一度同じ時を生きることができた。
破談だ破談だと散々騒ぎ立ててしまったけれど、嫌われるどころか、前世よりもずっと距離が近くなった。
私は、確かに幸せだった。
もう、じゅうぶんだ。

それでも。


「杏寿郎さん、ずっと、お慕いしております」


最期にこの想いを告げることだけは、どうか許してほしい。
そう思ってしまう私は、やっぱりどこまでも自分本位で、浅ましい人間なのだろう。




***




とても悲しい夢を、見た気がした。




重たい瞼の隙間から覗く、ぼやけた視界。
あ、生きてる──と、やけにあっさりした言葉がまず最初に思い浮かんだ。

最期だと、そう思っていたのに、私はまた生き永らえてしまったらしい。否、死に損なった、と言うべきなのだろうか。
見慣れない天井。白と木目の壁。陽の光が差し込む窓と白いカーテン。そして、私に繋がれた点滴の管。

どこだろう、ここは。

自分がどういう状況にあるのかまるで分からなくて、半ば焦りながらきょろきょろと視線の動かせる範囲で周りを見渡す。

――あった。唯一見慣れたもの。
自室の机に置いているはずだった、白鳩の簪。

なぜここにあるのか、という疑問は後回しで、知らない場所と一緒に残されたそれに気が動転して、思うように動かない手を必死に伸ばす。
物と物の距離の感覚が掴めなくて、見えてはいるのにほとんど手探りに簪を掴み取り―――刹那。
ガタン!と大きな音を立てて、そのまま身体ごと寝台から落下した。


「――大丈夫ですかっ……!?」


物音が思いの外響いたのだろう。数秒経たずして部屋に駆け込んできた人物に、びくっと身が跳ね上がる。
青い蝶の髪飾りをした、二つ結びの女の子だった。
女の子は、布団ごと床に突っ伏している私を見るや青褪める。


「点滴が抜けているので、動かないでください!」


そう言ってすぐさま私の傍まで歩み寄り、ぽたぽたと薬剤が垂れ落ちる点滴針を素早く回収した。私が下手に動くと、この針を踏んでしまう危険性があったからだろう。年は私とあまり変わらないように見えるのに、随分しっかりした雰囲気をしているなとぼんやり考えた。

次いで女の子は私を抱き起こすと、再び寝台の上へと移動を介助してくれる。
その際、手に握りしめた簪を一旦離すよう言われたけれど、せっかく掴んだそれを手放すことを脳が拒否していて、結局返事もできず離そうともしない私にそうさせることを諦めたようだった。


「あ……」


寝台に戻されたことで漸く少し落ち着き、「あの」と切り出そうとしたものの、ひどく掠れた声しか出て来なくて言葉を詰まらせた。
落ちた布団を拾い上げ、軽く埃を払っていた女の子は、そんな私に気づいて口を開いた。


「ここは蝶屋敷です。私はここで一応看護婦としてお手伝いさせていただいている者です」


蝶屋敷。蝶屋敷って、苗字家がよく物資を届けている、あの。
上手く働かない頭で必死に言われたことを噛み砕いていると、再び布団を私の膝にかけながら、「一先ず、人を呼んできますからこのままお待ちください。危ないので一人で動かないでくださいね」と、まるで子供に諭すように言い聞かせると、彼女はだめになった点滴を手にやや急ぎ足で部屋から出て行ってしまった。

再び静けさを取り戻した空間で、ふと我に返るや握りしめた簪に視線を落とす。
幸い傷一つついておらず、綺麗なままのそれに今度こそ漸く安堵すれば、ほう、と息を吐いて簪を胸に抱きしめた。

いつからだろう。この白鳩が、こんなにも愛おしく、宝物のように思えるようになったのは。
結局もらった日から一度も使っていないけれど、やっぱりどうしても目の届かない場所にしまうことはできなくて。部屋によく訪れる母や女中さん、弟にはもうとっくにばれていただろう。

この簪は、母が持ってきてくれたのだろうか。
とすると、ここにはやはり、杏寿郎さんが運び込んでくれたのだろうか。
そもそも、なぜ私は助かったのだろう。
私が自決を選んだこと、杏寿郎さんは間違いなく怒るに違いない。気が重いなあ、あの人が怒ると本当に怖いからなあ、と、現実逃避じみた思考が様々の《なぜ》や《確信》に滲んでいく。
それよりも考えなくてはならないことがあるはずなのに、都合よく脳が拒否している。慕っていると伝えてしまったことに関しては、早急に言い訳を考えなければならないのに。否、言い訳なんて今更いるのだろうか。そんなばらばらの考えが脳内で渋滞を起こしている。


そんな最中。
今度は随分と静かに扉が開く。反射的にそちらを見ると、そこでは藤の花の精霊だと言われても納得してしまうような美貌の女性が、ほっとしたような優しい微笑みを携えていた。




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