二つ結びの女の子の後に現れた女性は、胡蝶しのぶと名乗った。

胡蝶しのぶ様―――鬼殺隊、蟲柱。蝶屋敷の主人。
私とて鬼殺隊の後方支援を担う家柄の娘だ。現柱の名前は心得ている。
ちなみに、一番最近柱に就任したのは甘露寺さんだ。誘われた茶屋で頬を上気させながら「名前ちゃんあのね、実はね、私、柱になったの!」と嬉しそうに報告してくれたのは記憶に新しい。前の世界では杏寿郎さんに継子はいなかったと記憶していたから、なるほど、ここに繋がるのかと納得もした。

そんな胡蝶様は今、寝台横の椅子に腰かけつつ、にっこりと上品な笑顔を浮かべている。


「目が覚めて本当によかったです。煉獄さんもご家族の方もとても心配していらっしゃいましたから」
「ご迷惑をおかけして本当に申し訳ないです……」


本来、任務で傷ついた隊士の治療や療養を目的とするこの場所で、隊士でも何でもない私が個室を占領しているなどあってはならない状況だ。それも、自ら投げ打とうとした命を助けるために。
これ以上ないほどに縮こまる私に、胡蝶様は笑顔のまま「迷惑などとは思っていませんよ」と優しく諭してくださった。柱として高い実力をお持ちな上、お人柄も素晴らしいとは、尚更頭が上がらない思いだ。

気まずさを誤魔化すべく、持ってきていただいた白湯の残りを啜る。
私が今、落ち着いて胡蝶様とお話ができてるのは恐らくこれのお陰だ。ほんの一口程度で先程の渇きが嘘のように声が出るようになり、意識も目覚めたばかりよりもずっとはっきりしたすごい白湯。ほんのり薬草の香りがしたことから、事前に目覚めたばかりの状態を予測していたのだろう。白湯、というよりは薬草茶、と言うべきなのかもしれない。


「あの、私はどうして助かったのでしょうか」


胡蝶様をおずとして見つめ、一番知りたかったことを自ら切り出す。
まさか、あの秘薬の効果に問題があったのだろうか。それならそれで大問題だ。きちんと使うべき時に役割を果たしてくれないのなら意味がない。
私の顔色で心情を察したのか、胡蝶様は「いいえ」とかぶりを振った。


「あの薬に問題はありませんでしたよ。小瓶に残った液体を調べたところ、確かに一瞬で鬼が体内に取り込む事が困難になるほどの強い毒性を持っていました。致死量は…あの小瓶の半分に満たない程度、といったところでしょうか」


恐ろしい劇物です、と顔を顰める胡蝶様。
胡蝶様はあの薬が存在する意味を既にご存知のようだった。


「本来、鬼除けに使う藤の花で人の命を奪うなど、あってはならない事です。そして驚いた事に、この話はお館様でさえもご存知なかった―――」


憂うようにそう言う胡蝶様は何を思っているのだろう。

あの薬を初めて渡されたのは記憶にすらほとんど残らないほど幼い頃だった。そういうものだからと疑問にすら思わず生きてきたものの、ふと、何年か前に杏寿郎さんに話した時の彼の沈痛な表情を思い出す。
もう空っぽの湯呑みに視線を落として暫し黙考していると、「話が逸れてしまいましたね」と胡蝶様が言った。


「苗字さんが助かったのは、煉獄さんがすぐに吐き出させてくれたからですよ」
「…え……」
「婚約者とはいえ、女性の口に指を突っ込んで嘔吐させるだなんて、なかなかできることではありませんよねぇ」
「………」


絶句。
微笑ましげににこにこする胡蝶様とは対照的に顔から火が出そうなくらい真っ赤になって硬直する私。

いや、本当に、何をしてくれたんだ、あの人は。命を助けてくれた人に抱く感想ではないけれど、それにしても、やることが極端すぎやしないか。


「それでも、目覚めるかは賭けでしたけれどね。見たところ後遺症も今はなさそうですし、私も漸く一安心です。…さて、では私はご家族と煉獄さんに鴉を送ってきますから苗字さんはゆっくりお休みください」
「えっ」


反射的につい声を上げてしまった。
胡蝶様だってお忙しいのだからこれ以上引き留めてはいけないのに、その一言でさあっと全身の血の気が引いていく。そんな私の様子に胡蝶様は首を傾げた。


「何か問題でも?」
「あ、あの……家族はともかく、杏寿郎さんへの連絡は様子見ではいけませんか「いけません」」


満面の笑みで言葉が被せられる。心なしかその笑顔が少し怖い。


「初対面でこんな事を言うのは恐縮ですが、苗字さんにも少し反省していただかなくてはなりませんからね。…煉獄さんほどの実力者ならば、多少手負いになっても自ら血鬼術を破り、鬼の頸を斬っていたでしょう。あなたも分かっていたのでは?」
「それは……」


胡蝶様の言う通りだ。杏寿郎さんはお強い。私が想像しているよりも、遥かに。
それでも杏寿郎さんだって人間だ。怪我をしたら痛いに決まっているし、当たり所が悪ければ、命など簡単に失ってしまう。…実際、そうだったから。
要は、自分の命と引きかえてでも、私自身の手で彼に傷を負わせたくなかった。そんな私の行動は、ただの独りよがりかつ我儘に過ぎない。


「どちらにせよほとんど毎日お見舞いに来られているのですから、様子見したところで効果はありませんよ」


一瞬滲ませた怖い雰囲気をしまい、再び穏やかに話し出した胡蝶様に思わず息を呑む。


「毎日、ですか……?」
「ええ。ですから早く元気なお顔を見せて安心させてあげてください。そしてきちんとお説教も受けてくださいね」


茶目っ気を交えたその言葉に苦笑いしつつ、今胡蝶様が座っている椅子に杏寿郎さんが腰掛けている姿を想像する。
私が眠っている間、彼はどんな思いでそこにいたのだろうか。その心中を考えると、杏寿郎さんから説教を受けるのは仕方ないことのような気がして、少しだけ心の準備ができた。
しかしながら、説教を受けたところで私はきっと一生反省しないのだろうけれど。それは今、胡蝶様には黙っておくことにした。



「あ、あの、ではせめて…」
「まだ他に何か?」
「面会が来る前に、その……湯殿をお借りしても……?」


あまりにも図々しくて非常に言い難いけれど、重要なことだ。清潔な寝間着に着替えさせてもらっているし、この感じは眠っている間も相当気を遣っていただいたのだろう。それでもやはり気になるものは気になる。
申し訳なさげな私に対し、胡蝶様は心配そうに眉を下げた。


「目覚めたばかりで入浴は危険なのですが……」
「だ、大丈夫です!あまり長くここにお世話になるわけにもいきませんし、荒治療なくらいがちょうどいいので!」
「…歩けます?」
「歩きます!」


黙考。


「では、一人介助をつけますから、何かあったらその子を頼ってください」


やがて、情けをかけてくださったのか単に諦めたのか、譲歩案とばかりに承諾してくれた。
貴重な人員の時間が私のせいで拘束されるのは気が引けるけれど、有難いお申し出に今日だけお言葉に甘えることとする。


「はい!ありがとうございます!」
「まあ、三ヶ月も寝たきりでしたし、女性は気になりますよね」
「……え?」
「え?」


何気ない一言に危うく聞き流してしまいそうだったけれど、さすがにそうもできないくらいの衝撃を受ける。

今、胡蝶様は何と言ったか。


「あの、三ヶ月って……」
「あら…先程、アオイが言っていませんでしたか?苗字さん、三ヶ月間も昏睡状態だったんですよ」


説明不足で失礼しました、と謝罪されていた最中、私の背筋は凍り付いていた。




***




蝶屋敷で看護婦さんをしている少女に少々手を借りながらも、なんとか湯浴みをすることが叶った。
新しい寝間着に着替え、開いた窓から吹き抜ける風に既に半分以上乾いた髪を当てながら廊下をゆっくりと歩く。

その間も湯浴みの時も、ずっと同じことを考えていた。

三ヶ月。
それは即ち、杏寿郎さんの死期が目前に迫っているということ。
そして、ひどく焦ったのが、その死期について、もう正確には思い出せなくなっていること。

眠りすぎて記憶が混濁しているのだろうか。
それでも、もう時間がないということだけは嫌でも理解してしまうからこそ、余計に焦りが募る。


(病室に帰ったら一度、落ち着いて整理しなきゃ…)


――そんな思いを神様は嗤っていたのだろう。


「あ、いたいた!おーい!すみちゃーん!」


突如背後から聞こえてきた男の子の声。
なぜか、初めて聞いた気がしない、その声。
隣で私を軽く支えながら歩く看護婦の少女、すみちゃんにつられて、振り返った。

刹那。

湯浴みで温まった身体は、”彼”の顔を見た瞬間、たちまちその熱を失っていく。
まるで凍えたように震える唇で、その名を紡いだのは無意識だった。


「……かまど、くん」


然程離れてもいないのに大きく手を振ってこちらに駆け寄ってくる赤茶色の髪の少年。
私は、この少年を知っていた。


竈門炭治郎。

杏寿郎さんの、最期を看取った人。




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