ただただ、虚しかった。
己の感情を曝け出さないよう日頃から努めてきたことが、こんなにも役に立つ日がくるとは思うまい。助かった、とも思う。私が、みっともなく泣き喚く訳にはいかないから。
「姉上」
「和彦。どうしたの?」
障子越しに聞こえてきた弟の声に答える私は平静だった。いつも通りに微笑みを携えて、あからさまに気を遣う可愛い弟にこれ以上心配かけまいとする。
「…その、客人が……」
非常に言い難そうなその声音に、ああなるほどと冷静に分析した。
杏寿郎さんの葬儀の後から、ひっきりなしに届いている縁談。その中には一方的に見合いをと突然子息を連れてくるような無礼な人もいて、それが普段から苗字家と親交の深い家柄だったりしたら追い返すにも一苦労なのだと、疲れた様子で向かい合う父と母の会話を立ち聞きしてしまったのはつい最近のこと。要は少しでも私が顔を見せれば方が付くのが早い、といったところだろう。
承諾の返事をしてすぐに客人が通されているという座敷へ向かう。
だがしかし、そこまで待っていた”客人”は私が想像していたような人物ではなかった。
「苗字名前さん、ですか?俺、鬼殺隊の竈門炭治郎といいます。煉獄杏寿郎さんがあなたに残された言葉をお伝えしにきました」
恐らく怪我をしているのだろう。ひどく顔色が悪いながらも真っ直ぐに私の目を見つめる彼の瞳は、現実から目を背け、耳を塞ぐことを決して許してはくれなかった。
聞きたくないです。そう言ってしまいたい気持ちを飲み込みつつ、周りの人払いをして彼にお茶を淹れる。「千寿郎くんに出してもらったのと同じ味がします」と何気ない口振りでそう言われると、私も上辺だけ取り繕った笑みで、「あの子にお茶の淹れ方を教えたのは私ですから」と答えた。
竈門くんは、私が何も聞きたくないのを察しているようだった。
少しでも場が和むように気を遣ってくれたのだろう。最初は彼自身の話と、それから今回の任務にあたる数ヶ月前、柱合会議に呼ばれた話、そこで杏寿郎さんに初めて会った話を聞かせてくれた。彼の中の杏寿郎さんは私の知らない《炎柱》の顔をしていて。この平和で新鮮な話をずっと聞いていたいと、弱い私はどこまでもそうして楽な方へと逃げようとする。
心の準備をする時間をたっぷりと置いて、やがて話は今回の任務について差し掛かった。
そして。
「『俺を忘れて、自由に、幸せに生きてほしい』―――これが、煉獄さんが名前さんに残した言葉です」
ああ、やっぱり聞かなければよかったと。愚か以外の何物でもない後悔をする。
他人の声で代弁される杏寿郎さんの言葉は、残酷だった。
杏寿郎さんの訃報を聞いたあの瞬間、胸に突き刺さった棘。それは瞬く間に鋭利な刃物に変わり、私の心を根こそぎ抉り取っていく。
辛うじて浮かべていた微笑でさえも失い、白くなった顔色、そして、その瞳に宿った色はなく、映し出されているものはただの《虚無》だった。
ねえ、どうしてそんなことを言うの?
物心ついた頃からあなたと結婚することだけを夢見てきた私に。
自由ってなに?
幸せってなに?
あなたを忘れたら。あなたをなかったことにしたら。
私は、自由になれるの?
あなたと出会わなければ。あなたの傍にいなければ。あなたを、愛さなければ。
私は、幸せになれるの?
教えてよ、ねえ。
***
「あの、なんで俺の名前……?」
困惑した竈門くんの声に、はっと現実に引き戻される。
走馬灯のように脳裏を駆けていった記憶に、全身には嫌な汗が伝っていた。
「名前さん、お顔が真っ青ですっ……!」
すみちゃんの慌てた声が意識の外側で聞こえる。
「大丈夫ですか……?」
竈門くんのその言葉は、今から数ヶ月後、杏寿郎さんの遺言を聞いて硬直している私にかけるそれと全く同じだ。
彼の瞳、声、言葉、何もかもが私を追い詰める要因にしかならなくて、耐えられなくなるのはあっという間だった。
「名前さんっ…!?」
数歩後退ったのち、踵を返して駆け出す。
行先はどこでもよかった。彼の姿が見えなくなるのなら。
三ヶ月も寝たきりで過ごしては、体力の限界が訪れるのは早かった。
病室に辿り着く目前、中庭の前で力尽きて座り込む。
蹲りながら荒い呼吸を繰り返した。いっそ泣き叫んでしまいたいのに、どこかに存在する自制心が泣くなと引き留める。
どうして忘れていたのだろう。いつ忘れてしまったのだろう。
どうして、今に限って思い出してしまったのだろう。
私は、杏寿郎さんのあの言葉に、何よりも傷つけられたのだということを。
結局のところ、近い未来にもう一度言われるのだろうあの言葉への当てつけなのだ。破談も、《煉獄家長男の婚約者》でいることをやめたのも。
それが叶えば、彼のお望み通り私は自由で幸せになれるはずだったのだから。――彼をもう一度、愛しさえしなければ。
私が過ごしたこの二年近い時は、”前”とはあまりにも様変わりしていて、知らず知らずのうちに楽観的になっていたのだ。
しかし、この時期に蝶屋敷にいる竈門くんを見て、確信した。してしまった。
この世界も結局、決まった流れ通りに動いているのだということを。
”前”のように、あと少ししたら杏寿郎さんは柱としてとある列車の任務に就き、命を落とす。
これが、彼の運命なのだと、現実を突きつけられているようで。
二度も同じことを経験しようとしているというのに、その現実に耐えられるだけの強さを未だに持ち合わせない私を嘲笑うように、今もこうして刻々と時が流れていく。
なぜ、私は全てを知っているのに、何も変えることができないのだろう。
―――煉獄杏寿郎!無限列車ノ任務ニテ、上弦ノ参と格闘ノ末、死亡!
あの日、要が発した残酷な言葉が蘇り、容赦なく脳を揺さぶる。
「……いやよ……」
無意識に絞り出された声。
もう、あんな思いはしたくない――思うことは結局一つだけだった。
ガン、と。力いっぱい己の頭を拳で殴る。
考えなければ。どうするべきなのか。
「……お前、起きたのか」
そんな最中、蹲る私の頭上に落とされた低い声。その声はここにいるはずのない人のもので、その気迫に思わずびくりと肩を震わせる。
恐る恐ると顔を上げると、そこにはやはり、よく知る焔色。
刹那。脳裏に駆け巡った思考は、最早思い付き以外の何物でもなかった。
正しいか正しくないかの二択だったら、確実に後者であるそれ。
私の最後の賭けであり、最終手段。
「お願いが、あります」
真っ青な顔で縋りつく私を、”その人”はただ黙って見下ろすばかり。
それでも彼が、この頼みを断れるはずがないと確信していた。
どんなに腐っても、その心は昔のまま、優しい《もう一人の父》なのを、私は知っていたから。
こんな時に”前”の記憶を利用するのは、卑怯なのだろうけれど。
苗字名前、失踪。
杏寿郎さんと家族にその情報が入るのは、数時間後のこと。
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