「名前ちゃん、そこが終わったら休憩してくれて構わないからね」
「はい、ありがとうございます!先生」


午前の診療時間の終了が迫る、ちょっとした空き時間。
薬剤の並ぶ棚を整理していた私に、白衣姿の壮年男性がにこにこしながら声をかけてくれる。彼は、辺鄙な場所に位置するこの村唯一のお医者様で、おっとり穏やかな物腰をしている一方、医者としての腕も確かだ。人徳のある方、というのはこういう人を言うのだろう。

私は今、帝都からずっと離れたこの小さな診療所に先生の助手として厄介になっている。
数カ月前に蝶屋敷を抜け出して以来、家族や知り合いには誰一人として連絡を取っていない。恐らく私のことは失踪扱いになっているだろう。
縁あってここに流れ着くことが出来たのは幸いだったと心底思う。帝都から離れるほど鬼の被害が少ない傾向があるらしく、ここに鬼殺隊の隊士が立ち寄ったという情報は今のところ一度も入っていない。
《苗字家の息女》でも《煉獄家長男の婚約者》でもない、何の身分も持たないどころか姓すらも名乗れない私を、嫌な顔一つせず面倒見てくれる先生には感謝してもし足りないし、恩返ししなければとも思う。その一方で、捨ててきてしまったものたちへの罪悪感は、どうしても拭い去ることができないものでもあった。


薬品棚を整頓し、午後の往診に必要なものは先生の鞄に纏める。
その作業が終わると先程のお言葉に甘え、お昼休憩にさせてもらうことにした。
資料室から一冊本を借りて、休憩場所で朝先生のお弁当のついでに作ったおにぎりをもそもそと食べる。


「お疲れ様、名前ちゃん」
「あっお疲れ様です」


行儀悪く片手で本の頁を捲りながら食事をとっていた最中、午前診療の後処理を終えたらしい先生も休憩にやってきた。
「私ばかりいつもすまないね」とお弁当の包みを開ける先生に黙って首を振る。どうしてもお昼に品数のあるお弁当を食べる気にはなれなかったし、おにぎりはこうして片手が空くから有限な時間を有意義に使える気がしてお気に入りだった。


「相変わらず勉強熱心だねぇ」


感心したように先生が言う。



「そんなことないです。…それよりも、その……」
「ああ、以前君に聞かれた”腹部を大きく貫通する外傷”について、私ももう一度考えてみたが。…やはり、どう足掻いても助からんよ」


頁を捲る手が止まる。もしかしたら、という期待はたちまち萎んでいく心地がした。


「…そう、ですか……」
「どんなに医学が進歩しても、どうしても治せないものはある」


先生の断定的な答えを聞いても尚、「本当に助かる方法はないのだろうか」と考えてしまう私は本当にどうしようもなく往生際の悪い女だ。
こんなことを今更考えたところで、なんの意味もないのに。

目線を落とした本は、外傷についての専門書。
ここでお世話になることが決まった時、真っ先に私は資料室の本を貸してもらえないかと頼み込んだことが今に繋がっている。
村唯一の医者なだけあって、いろんな症例に対応できるよう所狭しと並べられた医学書の数々は、最初は到底私に理解できるようなものではなかった。この程度で『婚約破棄が叶った暁には海外へ渡航し、西洋の医学を学びたい』などよく言えたものだと、あの頃の自分に笑ってしまう。

目に見えて落胆する私に、先生は「力になれなくてすまないね」と力なく笑った。慌てて否定すると、話を逸らすべく一旦本を閉じ、お喋りに興じながら束の間の昼休憩を楽しむことにした。


ああ、そういえば、と不意に思う。
私が初めて医学で誰かを救いたいと思ったのは、瑠火様が亡くなられた時だった。
そして、その次は、杏寿郎さんのご遺体と対面した時。
結局のところ、私という存在を作っているものは過去も今も杏寿郎さんだということに気づいて、こっそりと自嘲の笑みを零す。


と、そんな最中、休憩中も構わず開けっ放しにしてある入口から入ってきた近所の子供の、ぱたぱたと慌ただしい足音で我に返った。


「せんせー!名前!」
「まあ、どうしたの?」
「弟がすぐそこで転んじゃったから、見てやってほしくて…!」
「あら…今行くわね。あ、手当ては私一人でもできますので、先生は休んでいてください」


子供も大人も全員が顔見知りのようなこの村。何かあれば誰かを気兼ねなく頼ることができる、人と人との繋がりが深く温かいこの場所は、”前”の世界で私が疲れ切っていたような、他者を貶め、財力と権力を競い合う醜い社交界とは似ても似つかなかった。
しかし、こんな恵まれた環境に身を置いても尚、思い出してしまう。

ああ、こんなふうに杏寿郎さんの怪我も手当てしたなあ、と。

懐かしむ資格、私にはないのに。
本当、滑稽すぎて笑えてしまう。




***




あの日から時を気にすることをやめた。
朝が来て、夜が来て、また朝が来る。ぬるくて心地の良い日常生活に浸りながら、時の流れに自然と身を任せる日々。

そんな中、”その日”は唐突に訪れた。


まだ夜も明けていない時分、何かに引き寄せられるかのごとく目が覚める。
なんとなくそうしなければいけない気がして、寝間着の上に肌掛けを羽織ると、診療所の近くに借りている小さな家を出る。

昇りかけた太陽。雲の狭間から覗く美しい朝焼け。
それを見て、あ、と思った。

”今日”だ、と。

今日に限ってたまたま目が覚めてしまうとは、なんたる皮肉だろう。

そして、どうしてこんなことばかり覚えているのだろう。
杏寿郎さんが死んだ日の、呆れるくらい綺麗な暁の空を。


ぼうっと、そのまま朝陽が昇り切るまで空を仰ぐ私。
その心は自分でも驚くほどに平静で、冷静だった。

望み通り、いくら時が経っても鴉にあの人の訃報を告げられることはなく。




「ねえ、聞いた?大規模な脱線事故が起きたんですって」
「怖いわねえ。どこの列車かしら」
「帝都の近くを走る大きな列車よ。確か名前は―――」


数カ月前に足掻いた《最後の賭け》が敗北したことを察したのは、それから数日後に入ってきた噂話だった。

私は、二度目の人生でもまた、最愛の人を失った。




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