朝と夜を繰り返し、季節は巡る。
春がきて、夏がきて、秋がきて、冬がきて、そしてまた、春がきて。


これは、季節を遡った、とある春の昔話。




「おれのお嫁さんになってほしい!!」


深々と、桜舞い散る中。
少年は、一回り大きな手で少女の両手を包むように握り、食い気味にそう叫んだ。赤く色づいた毛先をその衝撃でぴょこっと跳ねさせて。
一方、少女――幼き日の私はというと、突然出された大声に目を白黒させながら、彼より大人の拳一つ分ほど小さな身体を更に縮こませている。

そんな様子に気づいた彼――杏寿郎さんは、「すまない!おどろかせるつもりはなかった!」と幼くもよく通る声で、やや焦りながら弁解した。


「結婚とは互いをおもいあう男女がずっといっしょにいるためにするものらしい!おれたちにぴったりだとおもわないか?」
「うん……?」


昔から頭の良い子供だった杏寿郎さんと、平凡な私。唐突に始めた杏寿郎さんの話はこの頃の私には少し難しくて。


「つまり、だ!おれはきみが好きだ!名前は?おれのこと、好きか、きらいか」
「わっわたしも、きょうくんすきです!」


好きか、嫌いか。単純な二択は私にもわかりやすくて、即答する。
杏寿郎さんの勢いに負けじと食い気味に答えると、杏寿郎さんはまるで太陽のようにぱあっと晴れやかな笑顔を浮かべた。


「じゃあきまりだな!名前、大きくなったらおれのお嫁さんになってくれ!」
「はいっ!わたし、きょうくんのおよめさんになります」


その言葉はなんとなく照れ臭い言葉のような気がして思わずふにゃりとはにかんでみせると、杏寿郎さんはぎゅうっと私を抱きしめた。
あったかくて、加減を忘れた強い力が少しだけ苦しくて、杏寿郎さんのふわふわの髪がくすぐったくて。


「きみを必ず幸せにするとちかう!」


ああ、これがしあわせっていうんだなあ、と、この時私は少しだけ大人の気分を味わった。


これは、幼い少年と少女が、≪幼馴染≫から≪婚約者≫になる前の、ささやかなほんの一幕である。




***




は、と。半ば飛び起きるように目が覚める。
背中にじっとりと汗が滲む中、真っ先に目元へ指先を這わせたのは最早反射だった。

伝う雫はなく、乾いたままのそこに少しだけ安堵する。

泣いたら最後、今度こそ私は人としての何かを失ってしまうだろうから。
夢の内容を頭の片隅、目につかないような場所へと追いやりながら呼吸を整える。大丈夫、私はまだ大丈夫、と。

杏寿郎さんが死んだあの日から、どんどん自分の取り繕い方がわからなくなり、長きに渡って先生や村の人たちを心配させてしまっている私は、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
元々よそ者の私にこんなにも親切にしてくれるここの人たちに報いるどころか、気を遣わせてしまっているなど本当に最低だ。

もう、一周忌を過ぎたというのに。




込み上げる思いを押し殺し、一心不乱に歩みを進める。この気持ちが少しでも晴れるのなら、場所なんてどこでもよかった。
いっそ仕事をしていた方が気が紛れるというのに、今日に限って休診日だなんて、私の間の悪さは本当に何なのだろうといっそ笑ってしまいたくなる。


ひらり、はらり、と、優雅に桜の花びらが舞い散る。まるでさっき見た夢の中のように。
すっかり色を失った私の心とは裏腹に、どこまでもうつくしく咲き誇る桜並木に導かれるまま、ただただ足を動かし続けた。
そんなことを数十分と続けていく。


―――刹那。


あまりの衝撃に息を呑んだのが先か、瞠目したのが先か。


(ここ、は)


人通りの極端に少ないこの場所。一面に広がる透き通った湖を、私は確かに知っていた。


ああ、なんという皮肉だろう。
”前”の自分の死に場所に、よりによって今、訪れることになるなんて。


心が疲れ切った私が、列車をめちゃくちゃに乗り継いで当てもなく彷徨った果ての場所。
あの頃は桜なんてとっくに枯れてしまっていて、そもそも景色を見る余裕すらなくて。
それでも、虚しい気持ちはあの時よりも寧ろ強いはずなのに。


凪いだ水面。どこまでも透き通ったそこに映る、満開の桜と青い空。

どうして、こんなに綺麗なのだろう。



『もうじき君を妻として迎えられると思うと、胸が躍る』

『俺は存外嫉妬深い男のようでな』

『君がなんの気負いもなく、ただ一人の妻として俺の隣で笑っていられるように、俺が君を守ると誓おう』

『きみを必ず幸せにするとちかう!』


『君の奥底で眠らされている、俺の”最愛の人”だ』



ただ一人の声が頭に反響する。
太陽のような笑顔、慈しむような微笑み、蠱惑的に吊り上げられた口角、真摯で誠実な眼差し、額に青筋を浮かべて静かに怒る姿。
長い間見てきた様々な杏寿郎さんの顔が一気に脳裏に流れ込んできて、ついに、ぐしゃりと視界が歪む。
頭の片隅に追いやったはずの夢は、今や容赦なく脳裏を駆け巡っていて、最早制御することができなくなっていた。

感情を殺すなど、前の世界では容易いことだったはずなのに。
景色のうつくしさに、凝り固まった心が、解されていく。


《義務》なんかじゃなかった。

とっくの昔に、私たちの想いは通じ合っていたんだ。

最初から杏寿郎さんは、”私”だから結婚したいと言ってくれていた。

私も、最初から杏寿郎さんだから結婚したいと思っていた。


でも。


(今更、遅いよ……)


どんなに後悔しても、もう手遅れなのだ。
どんなに恋焦がれたところで、最愛の人はもうこの世にいない。
どんなに希ったところで、愛しい彼のぬくもりは二度と手に入らないのだから。


こんな時でさえ、瞳に溜まった雫を溢さんと必死に足掻いている私は、滑稽以外の何物でもなかった。
いっそ、この湖に飛び込んでしまえば、また過去に戻れるのだろうか。そんな、出来もしないばかなことを考える。


もっと、素直になればよかったのかなあ。
ねえ、私、ちっとも幸せじゃないよ。
後悔だらけだよ。
ねえ、杏寿郎さん、


「あいたい」


声にならない声が、虚しく宙を彷徨う。
鼻の奥がつんと痛むのを誤魔化すように、再び景色に視線を移した。移そうとした。


湖の向こうで咲き誇る大きな桜の木は相変わらず綺麗で。
私の心とは対照的に空は晴れ晴れとしていて。
ここに足を踏み入れた時と何ら変わらない。


だから、これはきっと気のせいだ。


後ろから私を抱きしめる、温もりも。
首筋をくすぐる、ふわふわとした尊い感触も。
視界の端に映った、愛おしい焔色の髪も。


そう、これは、きっと。


「夢じゃない」

「……っ!」


「帰ろう、名前」


恐る恐る水面に視線を落とす。
透き通った湖には、呆然と立ち尽くす哀れな女と、それを至極大切げに抱きしめた婚約者の男が、まるで鏡のようにはっきりと映し出されていた。




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