彼女が昏睡状態に陥った頃から、夢を見るようになった。
最初は、暗闇の中でただ一人、蹲って泣いている名前の夢。
今すぐ抱きしめて宥めてやりたいのに、そんな思いとは対照的に一歩も動く事のできない、なんとも歯痒い夢だった。
誰の手も借りず、一人でひっそりと涙を流す君に、泣かないでくれ、と願うのが精一杯で。
意識が浮上した蝶屋敷の病室、その寝台に眠る名前の眦から涙が伝っていない事に安堵する日々を幾度か繰り返した。彼女が謎の失踪を遂げる、その日まで。
そんな状況が一変したのは、数か月後。
上弦ノ参を相手取った任務で負傷し、俺自身が暫く昏睡していた時だ。
目覚めた数時間後に行方知らずとなったという最愛の人と、夢とはいえ会えたのが嬉しくて。同時に、腹立たしくもあって。そんな複雑で強大な感情がそうさせたのか、以前とは違って自由に動ける身体。それに気が付けば、行動は早く。
暗闇で泣いている名前に今度こそと手を伸ばしたその刹那――瞬きの間に場面が切り替わった。
***
派手に脱線した列車を背後に膝を突き、間もなく力尽きるであろう、《炎柱》。
その傍らには、大粒の涙をぼろぼろと溢す竈門少年と、押し寄せる感情の波に耐えるよう身体を震わせる猪頭少年。
これは、上弦と対峙したあの日、あったかもしれないもう一つの”現実”なのだと、どうしてか唐突に理解した。
不思議と音のない世界。
”俺”は今、大切な人たちに向けて最期の言葉を残しているのだろう。
千寿郎、父上、それから今まさに自分を看取ろうとしている後輩たち。
自分がどんな言葉を選ぶかは大抵予想できた。
ただ一人、名前への遺言を除いては。
彼女に残す言葉だけはどうしても出てこなかった。
いや、そんなはずは、と。夢の中で俺は俺に焦る。否、もしかしたら”当事者”である”俺”も焦っていたのかもしれない。
やがて、ああそうか、と。答えが胸の内に落ちた。
俺は、彼女の未来に自分がいないなど、想像した事がなかったのだ。
鬼とは無縁の世界で笑って暮らす彼女の傍らに自分を置く、ありえない未来をいつだって夢想していた。
幸せにすると誓った。守ると約束した。他の誰でもない、俺が、必ず。
俺はいつの間にか、彼女の前では《煉獄家の長男》ではなく、愛しい女性と添い遂げたいただの男に成り果てていた事実に。
無自覚だったその事実に、今更気が付いた。
やがて、力尽きた俺を見届けた要が青空の中を飛び去っていく。
ああ、いかないでくれ、と強く思う。
要からの訃報を聞いた彼女がどんな顔をするのか、想像するだけでも不憫でたまらなくなるから。
俺は、彼女に自分が死んだ後の事を、話した事がない。
決まって伝えていた言葉は、「いってきます」と「ただいま」。
死を覚悟して毎夜鬼を狩っていたというのに、妻となる最愛の人には、いつか来るかもしれない日の心の準備をさせなかった。彼女とのあたたかで倖せな未来に拘るあまり、先延ばしにいてきた、「愛している」の言葉も、結局、告げる事は叶わずに。
―――最低だ。俺は、本当に。
次に切り替わった場面を目の当たりにすると、俺は今度こそ胃が捩じ切れそうになった。
黒と白で統一され、仏壇の前で経を唱える坊主の野太い声と、木魚の淡白な音。誰の葬儀かなど言わずもがなだ。
そこで、どこに焦点を当てるでもなく、ただぼうっと、虚ろな眼差しを宙に彷徨わせる名前。
そこにはかつて、俺が泣かないから代わりに泣くのだと、大粒の真珠のような涙をぼろぼろと溢した彼女は、どこにもいない。
冷静に振舞おうとしている中で、その実誰よりも感情豊かで熱い情を持っていた彼女から、今度こそ感情を奪い去ってしまったのは、紛れもなく俺だ。
「きょうじゅろうさん」
滞りなく終了した葬儀。この部屋に取り残されたのは、喪服に身を包んだ名前と、死装束姿の物言わぬ抜け殻。あまりにも対照的なその色合いが、二人の永久の別れを示唆しているようで、あまりにも残酷だと思った。
泣かないでくれと思うのに、泣いてくれとも思う俺は、なんて傲慢な男なのだろう。
違うんだ、君が見ている”俺”は、”現実”は。聞こえるはずがないのに、分厚い硝子の向こうで必死に叫び訴える俺は、自分でも呆れるほど滑稽に映った。
そう、君はもっと。幸せになれたはずなんだ。
俺がこんなにも、不甲斐ない男でなければ。
***
それから見せられたものは、最早もう見ていられなかった。
俺が死んだ事で、彼女の家との繋がりを得んと彼女に近づく金と権力の亡者共。
仕来り通りならば、とっくに結婚していたはずの彼女に行き遅れだと罵詈雑言を浴びせる卑劣な社交界。
これが、俺の浅はかな覚悟が招いた、悪夢のような彼女の未来だった。
ある日、ふらりと家を出て行った彼女はそれきり。
何も映さぬ空虚な瞳で、まるで夢遊病のように徘徊し、列車を乗り継ぎ、また徘徊した。
やがて、辿り着いた美しい湖で、一瞬よぎった嫌な予感は見事的中する。
突如、ふらりと足がもつれた彼女。しかしそれは、本来ならばすぐに立て直せる程度のふらつきだった。が、しかし。
彼女はそのまま。全てを受け入れるように。頭から湖に落ちていく。
恐らく、彼女にとっては足を踏み外しただけの単なる事故。自決した概念はないのだろう。
だがしかし、これは、紛れもなく彼女自ら死を選んでいたのだと、残酷な事実が容赦なく俺の後頭部を殴った。
都合が良いのか、悪いのか。
彼女とを隔てる硝子壁がなくなり、一気に駆け出した俺は、迷わず湖の中へと飛び込む。
彼女の後悔と嘆きが、痛々しく耳に突き刺さった。
―――あなたと出会わなければ、こんな結末にはならなかったのだろうか。
そうかもしれない。
これは俺の不甲斐ないどころでは済まされない俺が招いた、最低な結末だ。
―――あなたの傍にいなければ。
そう思うだろう。無理もない。
けれど、それでも俺は、誰よりも君に傍にいてほしいと思うんだ。
―――あなたを愛さなければ。
そんな事、言わないでくれ。
この手を引き上げたならば、俺は。今度こそ、君に愛していると伝えるから。
だから、帰ろう、名前。
こんな最低な世界ではなく、後悔をやり直した俺たちの生きる世界へ。
天女の羽衣が靡くように落ちていく。
やがて、水底の闇の中で一人蹲る、誰よりも何よりも尊い人。
そんな彼女に必死で手を伸ばし―――刹那。
「名前」
乞うように名を呼び。その華奢で愛おしい身体を、今度こそ確と抱き締めた。
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