あれは、まだ婚約する前の事だったか。




その日、俺はいつものように母上と共に苗字邸へ足を運んでいた。
いつもと違うのは、俺の手に一枚の封筒が握られているという事。


座敷に通されるべく廊下を歩んでいた最中、待ちきれなかったとばかりに慌ただしく駆けてくる足音に頬が緩む。


「名前!」


思わず彼女の名前を呼ぶと、彼女は花が咲いたような笑みをこちらに向けた。


「きょうくん!いらっしゃいませ!」


彼女だけの俺の呼び名は、いつ何度呼ばれても特別な響きのようで、彼女の愛らしさを増幅する。
と、後ろから追いかけてきた名前のお母上が彼女を窘めれば、はっとしたように背筋を伸ばし、微笑ましげに俺たちの再会(と言っても三日前に会ったばかりであるが)を見守っていた母上に、「るかさん、こんにちは!」とお辞儀をした。挨拶を返す母上の瞳は俺を見る時のように優しくて、名前も母上の子供になればいいのにと少々飛躍しすぎた考えを当時から抱いていたのは俺の秘め事の一つだ。



母上たちは座敷で茶を飲みながら友人として近況を語り合い、俺たちは邸宅の中を自由に遊びまわる。数日置きに訪れるこの日常が尊くてたまらなかった。
名前が煉獄家に訪れる日も当然あったが、この頃は彼女のお母上に第二子の懐妊が発覚したばかりだった故に彼女の家で過ごす事が専ら多かった。
広い廊下や庭を存分に使った鬼ごっこやかくれんぼ。最近は、覚えたての知識を駆使して、一緒に絵本を読む事も多い。絵本、と自分で考えて思い出す。
――そうだ、と。最近与えられた名前の自室へと歩みを進める廊下のど真ん中、俺は彼女を引き留めると先程からずっと離さず持っていた封筒を差し出した。
俺の唐突な行動に、大きな丸い瞳をぱちくりと瞬かせた後、首を傾げる名前。


「これは、なんですか?」
「手紙だ!名前に書いてきた!」


それを聞いた瞬間、彼女の瞳がぱあっと輝く。


「きょうくん、すごいです!もう、じがかけるなんて!」


舌足らずにきゃっきゃと喜ぶ彼女は手紙を大事そうに胸に抱いた。
そう言いつつ、名前も少しずつ読む事は覚えているのだから、書けるようになるのも時間の問題だろう。それでも、こうして全身ですごいすごいと感激されれば嬉しくないはずがないのだが。
「読んでみてくれ!」と照れくささを誤魔化すためにもそう言うと、封筒から取り出した和紙の便箋を小さく不器用な手で広げる。
和紙の端から端まで目いっぱい使って書いたひらがな、たった六文字を、彼女は指を差しながら懸命に読み上げた。そして、最後の一文字に差し掛かると、ぱっと上気した顔を上げてふにゃりとはにかむ。俺の好きな、気の抜けた愛らしい笑顔だ。


「わたしも、きょうくんにおへんじ、かきます!」


そう言って躊躇いなく俺の手を取り、自室に引っ張っていく名前。その様は有無を言わさないそれで、もう既に決定事項のようだ。

結局その日は鬼ごっこもかくれんぼもせず、一日中彼女の部屋で読み書きの練習に付き合った。




そして時が経ち、夕刻前の帰宅時間。
呼びにきた母上たちに俺と名前が気づく事はなく。


「あら、まあ……」
「よく眠っていらっしゃいますこと」


何十枚もの和紙が散らばる部屋の中心、すやすやと安らかな寝息を立てる幼い少年と少女。
そして――、


『きみがすきだ』
『わたしもすき』


幼い筆跡で大きくそう書かれた二枚の和紙を下敷きにしたその寝顔は、きっと達成感でいっぱいだったに違いない。




***




「名前!!」


邸宅の庭を散歩していた名前に笑顔で手を振り、大きくその名を呼ぶ。
すると、声の大きさに驚いたのかびくっと海老か何かのように跳ね上がった後、あからさまに嫌そうな顔をこちらに向けた。
少し前は何があっても穏やかに微笑んでいたというのに、彼女も随分変わったものだ。そんな彼女も大層愛らしい。そう思うのは、己の感情に素直になった彼女がより一層魅力的に映るからで、断じてそういった性癖ではない。


「何なんですか今日は…」
「今日は手紙を持ってきた!」


嘆息混じりに言う名前にきちんと封筒に入れられたそれを懐から取り出す。
彼女の視線は明らかに『手紙なら鴉に預ければいいものを』と言っている、が、ここは知らないふりをした。


「……なんだか、懐かしいですね」
「うん?」


手紙を受け取った彼女は、封筒の表面を指先でするりと撫でながらそう呟いた。


「昔、よく直接手紙を持ってきてくれたではないですか」
「む…よく覚えていたな!」
「いや、鬼殺隊に入隊する直前までそうしていましたからね……私の記憶力をなんだと思ってるんです……」


不服そうに視線が持ち上がると思わず吹き出す。「それもそうだ!」と笑い飛ばすと、やれやれとばかりに再び嘆息が聞こえてきた。


「それじゃあ、初めて書いた手紙の事は覚えているか?」
「ええ…それいつの話してるんですか……」
「君は確か四歳頃だった!」
「覚えてるわけないじゃないですかそんな子供の頃なんて!」
「それもそうか!」


たった一歳しか違わないとはいえ、幼少期はそのWたった一歳Wが意外と重要だったりする。現にこうして俺が覚えていて彼女が覚えていない思い出があるのだから。
こればかりは仕方ないと諦めている反面、少しだけ寂しくも思っていた。幼少期の記憶がもっと鮮明だったならば、彼女はもう少し俺からのあからさまな好意に自信を持っていただろう。
心の中で吐いた小さな嘆息から切り替えようとした刹那、「でも」と彼女が何かを思い出したように切り出した。


「確か、私に文字の書き方を教えてくれたのは杏寿郎さんでしたよね」


その言葉に、思わず目を見開く。
瞳の中心が揺れるのを肌で感じた。


「よもや、覚えているのか?」
「覚えているといいますか……本当に曖昧ですし夢みたいに断片的なもので。…あ、その後も、同じ部屋にいながら文通ごっこをしていた気がします」


名前の記憶は正しかった。
あの日は結局眠ったまま母上に連れて帰られてしまったが、後日、文字を書く楽しさに目覚めた名前が同じ部屋の中で手紙を書き綴っては交換するという、所謂文通ごっこが遊びの一つに加わった。目の前にいる以上、話した方が余程早いというのに。今思い返すとおかしな事をしていたものだ。


――でも、そうか。覚えていたか。


そう考えると途端、喜びが腹の奥底から込み上げてきた。

名前はもうあの頃のように『きょうくん』とは呼んでくれないし、婚約前の古い記憶などほとんど残っていない。
それでも、こうして時折昔話をすると、思うのだ。俺は確かにこの初恋の女の子と生涯を共にしてきたのだと。過去も、今も、そして、これからも。


「では、今日は昔に倣って、その手紙の返事を名前の部屋で待つ事としよう!」


おかしな事をした、と先程は思ったが、訂正だ。良い遊びをしたと、少年時代の俺を褒め称えたい気分である。思い出の再現と称して彼女の部屋で共に過ごす口実ができたのだから。
善は急げと部屋に向かう俺に、青ざめた顔をしながら「え、ちょ、ちょっと!」と慌てて追いかけてくる名前。
だが残念ながら俺はこうすると決めたら即実行する男だ、諦めてくれ。

可愛い彼女の猛抗議を背中に受けながら、俺は最高潮に良い機嫌を隠しもせず、その歩みを更に速めて目的の場所へと向かった。




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