「おはよう名前!いい天気だな!散歩でもどうだ?」
「急ぎの用事がありますので」
「継子から聞いたんだが、帝都で有名な甘味処がこの近くに支店を出したらしい!一緒に――」
「そこなら今度和彦と行く約束をしていまして」
「名前に似合いそうな帯留めを見つけた!」
「装飾品はたくさんありますので結構です」
「今日も名前は愛いな!」
「そうですかありがとうございますさようなら」
「名前――」
「なんなんですか毎日!柱は暇なんです!?」
『どちらが絆されるのか、見物だな』――そう、杏寿郎さんから謎の宣戦布告を受けて数日。
漸く苗字邸に押しかけてくる杏寿郎さんから身を隠す生活が終わると安堵していたものの、全くもって甘かった。
あの日、私との話がつくとその足で両親と会っていった杏寿郎さんは、槇寿郎様に代わって炎柱を襲名した報告と、後は一体何を話したのか、とにかく暫く話し込んではやけにあっさり帰宅していった。
…と思ったら、両親の元には”煉獄側”の婚約証明書が綺麗なまま返品されていた挙句、『やはりこの父の目に狂いはなかったか』『あんなに名前を想ってくれる殿方はこの先現れないわ』と杏寿郎さんへの元々高かった好感度が更に鰻登りになっていて、危うく数日また寝込むかと思った。
その後、あの人に何を言われたのか両親にしつこく問うと、特別なやり取りをした訳でもなく、ただ「必ずや彼女を説得してみせますので、見守っていてください」と笑顔で圧力をかけてきた(私的解釈)というので空恐ろしいったらない。まずは両親を懐柔するとは、案外姑息な手を使うものだ。
女中さんたちにも今まで以上に愛想よく振舞っていた(気がする)ので、彼女たちが私の味方でなくなるのも時間の問題だろう。
円滑に破談が進まないことを不服に思っているのは今や私と弟くらいだ。
――という幸先不安の劣勢状態で始まった婚約破棄計画。
あれからほとんど毎日、杏寿郎さんは苗字邸へ通い続けている。ある時は外出の誘い、ある時は贈り物を、そしてある時は謎の胡麻擂りと、いっそ感心してしまうほど毎日様々な用件で訪ねてくれていた。
ここ数日の間、家族も同然に邸宅の敷居を跨ぐことをお父様からあっさりお許しを受けた杏寿郎さんへ居留守作戦は無意味となってしまった以上、私は大人しく対応するしかない。が、これだけ冷たくあしらっているというのに、一体どれだけ精神が強靭なのだろうか。
「暇ではない!だが、毎日会いに行かねば君の心は掴めんだろう」
その執念深さにいよいよ堪忍袋の緒が切れた私の怒声も物ともせず、杏寿郎さんは恥ずかしげもなくそう言った。
…こんなことを言う人だっただろうか。少なくとも”前”の私は言われたことがない。しかも今自分たちがいるこの場所は自宅の庭で、いつ誰に聞かれるのかわからないのだから尚更だ。
思わず熱くなってしまった頬に慌てて首をぶんと振って冷ますと、今の発言は聞かなかったことにして平静を装いつつ杏寿郎さんの姿を盗み見た。
今日は珍しく非番なのか、いつもの隊服と羽織はなく着流しを身に纏っている。
いつ見ても精悍な顔立ちに湛えられた焔色の瞳は、頑なに拒絶する私を揶揄っているふうでもなく、どこまでも真っ直ぐなものだ。
ああ、杏寿郎さんだ、と思う。
”前”の杏寿郎さんと、”今”の杏寿郎さんを別の人として考えたいのに、ふとした瞬間、”前”に培われた情が頭をもたげて罪悪感が押し寄せるのだから、厄介極まりない。
「杏寿郎さん、まともに眠っていないでしょう」
「む、名前は鋭いな!」
「…鋭いも何も、お忙しい柱の方が毎日こんなところで油を売るには、睡眠時間を削るしかないと思っただけです」
快活に受け答えする杏寿郎さんとは対照的に、嘆息混じりに淡々と言葉を紡ぐ私と温度差が激しいものの、それも杏寿郎さんは気にならないらしい。
「それもそうだな!」と高々に声を上げる杏寿郎さんは寝不足とは思えないほど極めていつも通りで、今のように頭で考えなければ杏寿郎さんが少なからず無理をしているという事実には気づけそうになかった。
しかしそれは『私は』の話であり、本当に杏寿郎さんに相応しい女性ならば、無理を無理だとも思わないこの人のちょっとした変化には敏感にならなければならないだろう。私に彼の妻など、そもそも勤まるはずがなかったのだ。
「話はお終いです。貴重な非番なのですから、帰ってお休みくださいませ」
そっぽを向いてぴしゃりと言い放つと、流石に効いたのか杏寿郎さんは「むう」と言葉を詰まらせた。
婚約者の元に出向いて体調管理もままならず、任務に支障が出ましたなど話にならない。破談にしたい婚約者の立場以前に、鬼殺隊を支える家柄の娘として、今の杏寿郎さんの状態は見逃せるものではなかった。
「名前は俺に休んでほしいのか?」
「当たり前です!私のせいで任務や稽古に支障が出ては目覚めが悪いでしょう」
「自分のせいだという自覚はあるのか」
「そりゃあ――」
続きを紡ごうとして、硬直した。
明確に何とは言えないが、なんとなく、言ってはいけないことを言ってしまったような気がしたからだ。
恐る恐る、杏寿郎さんを振り返ると、その”嫌な予感”は確信に変わる。
「では、俺が早く帰って休めるよう、名前に協力してもらうとしよう」
にっこりと。こんなに爽やかな強制があるだろうか。
醸し出す圧の割には硝子細工でも扱うかのような柔い手つきで私の手を取った杏寿郎さんは、私に拒否権どころか意見する隙すら与えようとしないまま、門の外へ向かって躊躇いなく歩き出す。
――雨でも降らないかしら。
淡い願望を胸に仰いだ空は、そんな私を一蹴するかのように雲一つなく青々とした晴天だ。
杏寿郎さんに手を引かれながら、天すらもこの人の味方をするのかと、どこまでも続く青い空を私は憎らしげに睨みつけた。
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