「その鬼は泥の塊のような異形でな、動きは鈍いが攻撃を通さんとする弾力のある肉体を持っていた。何より、そいつと共に行動する異能の鬼が降らせる雨が───」

「……あ、あの…杏寿郎さん」
「何か気になることでもあったか?何でも聞くといい!」
「…なぜ急にそんな話を?それと、今どちらへ向かっているんですか?」


苗字の邸宅を連れ出されてから約二十分が経過したところで、私は無言を貫いていた口を漸く開いた。

門を潜って間もなく始まった杏寿郎さんの一方的な自分語りは、前の私の知識を持っても知らないことばかりで、なぜ今更こんな話を聞かされているのか正直困惑していた。杏寿郎さんは、杏寿郎さんが鬼殺隊に入隊してから今日に至るまで、記憶に残っているらしい任務での出来事を詳細に語っている。
『あなたに微塵も興味はありません』と示すためにも最初は適当に聞き流していたものの、先程から目的地の見えない足取りと意図の読めない話にとうとう根負けした次第だ。これでは私は一体いつになったら帰れるのか、杏寿郎さんはいつご自宅で身を休めることができるのか、わかったものじゃない。邸宅から随分と離れてしまったこの並木道が、普段ほとんど通らない道であるということが一層私を不安にさせた。

目を合わせるのが気まずく、視線を泳がせながら問うた私に、杏寿郎さんはさも気にしていないふうににっこりした。


「名前に俺をもっと知ってもらおうと思ってな!だが、知っての通り俺は普段仕事に追われている!出先での食事などは手紙にしたためているから、後は任務での詳細しか話すことはないだろうと思い至った次第だ!」
「はあ……」
「それと、この散歩に目的地はない!有意義な時間を過ごすことができたら帰ろうと思っている!」
「えっ……」


散歩だったんですかこれ。
それを口にする代わりに、適当に付き合おうとしていた私の魂胆を見透かしているとばかりな、軽い脅迫混じりの言葉に頬が引き攣る。


こんな強引な人だっただろうか。

今世で杏寿郎さんの何かを変えてしまったとしたら、そのきっかけは間違いなく婚約破棄だ。
今の時点で前の世界での流れとは既に大きく異なっている。現状への経緯は当然のことながら、そもそも炎柱を襲名してからはその翌日に苗字邸へ報告に来てくれて以来、暫くこのように気軽に散歩という雰囲気では決してなかった。
杏寿郎さんは今、本来ならばとんでもなく忙しい時期のはずだ。甲の隊士として各地を任務で飛び回っていた生活から、広範囲の警備管轄地区を担い実家を拠点とするようになった今、煉獄邸からそう遠くない苗字邸には足を運びやすくなったといえど、相当無理をしない限りこんなふうに私と会う時間など作れるはずがない。
手紙のやり取りばかりだった”前”の杏寿郎さんが私を蔑ろにしていたのではない。今が異常なのだ。

この人は、一体何を考えているのだろう。
いくら討伐してきた鬼やその土地で食べた料理について話してもらっても、肝心な部分はわからないままなのだから、つくづくずれてるなあと思ってしまう。

しかしまあ、杏寿郎さんに付き合う現状に至る墓穴を掘ったのは他でもない私である。
今は私が意地を張れば張るほど、互いの帰宅が遠のくのは目に見えていた。


「質問は以上か?話を続けても良いだろうか!」
「散歩でも雑談でもお付き合いしますから、まずはこの手を離していただけませんか?」


まだ鬼の話を続けるつもりらしい杏寿郎さんに思わず苦笑いしつつ、未だ握られている手を少しだけ揺らして示す。
苗字邸を出てからも一向に解放される気配がなく、ずっと困っていたのだ。おおかた私が逃げ出すのを懸念してのことだろうが、さすがに目の前にいる杏寿郎さんから逃げられると思うほどおめでたい頭はしていない。

しかし、杏寿郎さんはあまりにもはっきりと、「ダメだ!」と大きな声を張り上げた。


「なっなんでですか…!今更逃げたりしませんし、子供でもないのに手を繋いでいたら目立つでしょう…!」
「迷子になったら困るだろう!」
「杏寿郎さん迷子になるんですか!?」
「いや、名前がだ!」
「喧嘩売ってます!?」


売るわけないだろう、はっはっは、と声高々に笑う杏寿郎さんに、ピキリと額に青筋が浮かぶのを感じた。発言に悪気がない分厄介極まりない。
私はこの人に一体なんだと思われているのか。

宣言通り、しっかりと握られたままの手に最初こそ抵抗を露わにしたものの、そんな私の意思表示を物ともしない杏寿郎さんにやがて私が妥協した。

こうなったら、手でもなんでも好きにすればいい。
重々しく息を吐くと、嫌がらせなのか何なのか一層固く握られた手に気づかないふりをしつつ、杏寿郎さんを見もせずに進行方向を向いたまま口を開く。


「お仕事の方は、いかがですか?」


取り留めのない話題に過ぎなかった。
このまま先程と同様遭遇した鬼の情報を聞き続けるよりは、私からある程度振った方が互いに退屈しないだろう。
前の杏寿郎さんはお仕事の話はほとんどしなかったので、今聞いたらどんな話が聞けるのか、純粋に興味もあった。

杏寿郎さんは「そうだな…」と、空いたもう一方の手を顎に当てて考える仕草を見せたのち、やがて再びこちらを見据えて(いるかはよく分からない目つきだが)答えた。


「なかなかに多忙な毎日だが、充実はしている!」
「それは何よりです」
「まだ柱となって日が浅いが故に不慣れなところもあるが、応援してくれている皆に応えられるよう引き続き努力精進を怠らない所存だ!」
「杏寿郎さんらしい、素晴らしい心構えだと思います」

「名前」


徐々に杏寿郎さんと話す肩の力が抜けていっていることに、この時の私は気づいていなかっただろう。

ただ、唐突に歩みが止まり、どこか甘さを孕む声で呼んだ私の名に、呼吸を忘れそうになった。
繋いでいた手を引き寄せられたせいで、いとも簡単に杏寿郎さんの腕に私の肩が密着する。
恐る恐る彼を見上げると、燃え盛る焔色の双眸が至極真剣に私を見下ろしていた。


「名前は、応援してくれないのか?」


彼はきっと、どういうふうに言葉をかければ私が誤魔化せなくなるのか、分かっているのだろう。
人の話を聞かずに何でも自分の意思だけで結論を出す人だと思われがちだが、こう見えて彼は周りをよく見ている。前の私との違いを、もっと明確に分析しているのだろう。


もうすぐ杏寿郎さんの人生から消える私が、『応援しています』などと、軽々しく口にしてはいけない。
それでも、真っ直ぐに私の瞳を貫く彼が、


「俺は、誰よりも名前にしてもらいたいのだが」


と、年甲斐もなく駄々をこねるものだから、つい流されてしまう。
この人は、いつだって―――、



『次はこっちにいこう!こちらの道は躑躅の花が見ごろだから、名前に見せてやりたい!』

『でっでも…あんまりとおくにいくと、まいごになってしまいます……っ』

『俺が道をおぼえているから大丈夫だ!それに、名前をご両親の元へ送り届けるまで、この手をぜったいに離さないとやくそくする!きみを不安にはさせまい!』

『……ほんとう?』

『ああ、本当だ!』




(あ……)


”今”も”前”も、いつだって、彼は真っ直ぐだ。どこまでも真っ直ぐで、どこまでも誠実な人だ。
遠くまで続くこの躑躅並木の真ん中で、手を繋いで立ち止まる私たちと、とある幼き少年少女の幻が不意に重なった。

私は私の人生から、きちんとこの人を消すことが、できるのだろうか。
偽りだらけの私が、偽りの幸せを手に入れるためだけに、こんなにも綺麗で心地良いこの人を。


「杏寿郎さん」
「うむ」


「炎柱就任、誠におめでとうございます。ますますのご活躍と武運長久を、切にお祈りしておりますね」

「!ああ、ありがとう」


あまりにも嬉しそうに笑う杏寿郎さんが、ただただまばゆい。

だから私は、せめて、紡いだこの言葉が真実として、浮かべた微笑みが嘘偽りのないものとして眼前の杏寿郎さんに届くよう、心の中でひっそりと願いをかけた。




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