全然だめだ。
何の話かというと、それは最早言うまでもないだろう。


一向に婚約解消の話が進まない。


こんなはずじゃなかった。
両親の説得さえできれば、後は円滑に進んでいくものだと信じて疑わなかった。
そのために私は、婚約を白紙に戻した暁の身の振り方について考え、資料を集め、知り合いへの根回しまでもを療養中に全てこなしたのだ。
結果、見事その関門を突破したわけだが―――最難関は両親の説得ではなかったとなど、誰が予想できただろうか。


たった一回散歩に付き合ったからと言って、それで杏寿郎さんが満足するはずもなく。

毎日のように飽きもせずに苗字邸へ通い詰める杏寿郎さんは、回数で言ったら”前”の世界において杏寿郎さんが亡くなるまでの二年間でのそれを既に超えていて、寧ろ先日の一件で味を占められたと言っても過言ではない。
今朝だって、和彦を学校に送り出したところに現れた警護帰りの杏寿郎さんが、いつもの笑顔を浮かべながら私の掌に金平糖の包みを置いて帰って行った。餌付けのつもりか。

もしかしなくとも、このまま私が婚約破棄を破棄するまで(全くもってややこしい)この生活を続けるつもりなのだろう。冗談ではない。

そのせいで両親はすっかり破談をなかったものだと考えているし、今では邸宅に訪れる杏寿郎さんとそんな彼の相手をなんやかんやとするはめになる私の塩対応という温度差溢れる構図は苗字家に仕える女中さんたちの間で『熱烈な婚約者殿と照れ屋なお嬢様』としてちょっとした名物になりつつあるらしい。笑い話のようだが、全くもって笑えない。


一刻も早く、この不毛な争いを終わらせなくては。


真っ先に両親やお手伝いさんたちを懐柔し、手懐けるのは不可能な猛犬(弟)が学校に行っている時間帯に決まって苗字邸を訪れるという小賢しいことこの上ない杏寿郎さんに、何の策もなく打ち勝つのは無理だと、私は漸くそこに行き着いた。
私とて名門の娘だ。あまり舐めてもらっては困る。いつまでも大人しくやられていると思ったら大間違いだ。

そうと決まれば早速策を練らねばならない。

思い立ったが早いか、私は自室の文机に真白の紙と筆一式を取り出した。




***




一、説得する。
二、嫌われるように仕向ける。
三、揚げ足を取る。
四、逃亡。


こんなものだろうか。と、筆を硯に置き、見下ろした大判の紙一面には、以上の四案が掲げられている。
これはすなわち、婚約破棄に向けての戦略というやつだ。
小一時間頭を捻らせてたった四つしか浮かばなかったということはさておき。

改めてそれらを一つ一つ目に留めてみる。

四つ目は本当に最後の手段だ。どうしようもなくなったら、杏寿郎さんどころか家族すらも捨てて遠くに身を隠して生きるしかない。
ある意味これが一番の名案だと思うのだけれど、こんなに親不孝な選択は最後の最後にするべきだ。


となると、選択肢は三つ。


まずは一つ目。
真っ先に思いついた一番穏便に事を終える案なのだが、これは今の私にはまず無理だろう。どうすれば納得してもらえるのか、杏寿郎さんに関する情報が足りなさすぎる。両親に破談したいことを申し出た際にそうしたように、相手を説得するには相応の準備が必要だ。


二つ目。
これを書いてちくりと胸が痛んだ時、私はあまりの身勝手さに心底嫌気が差した。
嫌われる覚悟くらいあったはずだ。十年以上婚約しておいて、ある日突然自己都合で破談を突きつけるのだから。
この際、杏寿郎さんから『こんな女と結婚するなどこちらから願い下げだ』くらいのことを言われる覚悟で臨む他ない。
――が、この案はあまりにも抽象的である。確実に嫌われるためにも具体的にどうするか、もう少し考える必要があるだろう。


そして、三つ目。
揚げ足――つまり、一方的に破談を持ち掛けても取り合ってもらえないのだから、破談するだけの理由を杏寿郎さんから見つければいいのだ。
現状、これが一番実行に移しやすいように思う。あわよくば両親を再び味方につけることができたならば万々歳だ。
これに関して一番有力なのは、女性関係だろう。この手の問題は、真偽がどうあれ取返しがつかなくなることが多いと聞く。

それに、”前”から考えていなかったわけではないのだ。
所詮は恋愛感情の伴わない、親同士が決めたという私たちの婚約。結婚相手は私でも、杏寿郎さんには別に好いている女性がいたのではないか、と。
それならば破談の申し出を幸運と捉えてくれてもよかったのだけど、生真面目な杏寿郎さんのことだ、最初から割り切っているのだろう。結婚と恋愛は別、というやつである。

万が一上手くいかなくても、これはこれで杏寿郎さんについての情報を集められるのだから、無駄にはなるまい。
そうだ。名案ではないか。


(よし、これでいきましょう…!)




***




思い立ったが吉。私は今、煉獄邸の門の前で一人佇んでいた。
ここへ訪れるのは、槇寿郎様に婚約破棄をお伝えしにきた時以来だ。
”前”の私も、ここへ足を運んだ回数はそう多くはなかった。槇寿郎様があのような状態であるがゆえに用もなく出入りするのは迷惑だと思ったからだ。実際、定期的に様子を見に行っている父は何度も追い返されている。
前の世界において最後に訪れた煉獄邸は無論、杏寿郎さんの葬儀だった。


「なんだか不思議なかんじ…」


もう二度と立ち寄ることはないと思っていたのに。
苗字邸とはまた違った厳かな門構えに、私は本当にこの家の嫁としてやっていけるのだろうかと委縮していた幼い頃が今となっては懐かしい。


(いけない。懐かしむためにここへ来たのではないわ)


危うく目的を見失うところだったと慌てて邪念を振り払い、さて、と辺りをきょろきょろと見回す。
いつまでも門の前にいたら目立つだろうと、散歩中の近隣住民を装って煉獄邸の周りをゆっくりと歩きつつ、”それ”を探った。

やがて、そう経たずしてお目当てを聞きつける。



「それにしても、また腕を上げたな、甘露寺!」


煉獄邸に来た目的は、簡単に言ってしまうと偵察だった。
杏寿郎さんの声はよく通る。そのため室内でもどの部屋にいるか程度はわかるだろうと、その場所を探っていたのだが、思いがけない幸運だ。
この塀を隔てたすぐ先の庭に出ているのだろう。これなら何をしているのか、ある程度把握することができる。
しかも今、早速知らない名前が出なかったか。


(甘露寺……?)


「そ、そんなぁ〜!私なんてまだまだです……!」


愛らしい女性の甘やかな声音に、思わず息を呑む。
今杏寿郎さんと会話している彼女――甘露寺さん(仮)の明らかに好意のこもった声に、ばくばくと煩く心臓が脈打った。
最初の杏寿郎さんといい、お二人は随分親しげだ。


これは、これは。
早速、見つけてしまったかもしれない。
杏寿郎さんの真の想い人を―――。


しかし、膨れ上がった期待は杏寿郎さんの次いだ一言により、一瞬にして萎んでしまった。


「たった二月で己まで昇進したんだ!俺も師として鼻が高いぞ!」
「そんなぁ…そんなに褒めてもらえるだなんて、照れちゃいます……えへへ」


(な、なんだ……お弟子さんだったのね)


お弟子さんというか、今は継子の方なのだろう。
そういえば、杏寿郎さんの話にも度々出てきていた。すごく食通な印象で、洋食店や流行りの甘味処といった情報に詳しいお人だと思っていたけれど、なるほど、女の子だったのなら納得だ。
しかし、納得の半面、女の子が杏寿郎さんの稽古についていけるのか甚だ疑問である。

どんな子なのだろう。

そんな興味が天にでも届いたのか、ふと近くの塀の木目に微かながら隙間が空いていることに気づいた。まだ破損の範疇には至らない、経年による僅かな綻びである。
私はこれ幸いとばかりに隙間に片目を寄せて覗き込む。私は今、今まで生きてきた中で一番体裁の悪いことをしている自信がある。だがそれがどうしたと開き直ってしまう程度には、今世の私はいろいろと吹っ切れていた。


そしてその刹那、目にした光景に思わず息を呑んだ。


真っ先に目に飛び込んできたのは、春を告げる妖精を思わせるような色彩とその美貌。真白の肌を色づける薔薇色の頬。
そんな美しい顔立ちに愛らしい笑みを浮かべたその少女は、鬼殺隊の隊服(なぜか少々奇抜な意匠であるが)を身に纏っていなければ、天使か天女か、その類であろうと誰もが勘違いするに違いない。
そんな彼女と、杏寿郎さんは二人並ぶとすごく目立つものの、だからこそひどくお似合いであった。
彼女の纏う見覚えのある羽織――炎柱就任前の杏寿郎さんとお揃いに違いないそれが、尚更二人をそう見せている。

あながち、先程の推理は間違っていないのかもしれない。

甘露寺さんの方はわかりやすく頬を紅潮させていて、杏寿郎さんに好意があるのは明白だ。
こんなにも可愛らしい女性が自分を慕ってくれる状況を、いくら杏寿郎さんでも何も思わないはずないだろう。
師弟間に芽生える恋愛感情など、物語の世界では王道だ。


これは、勝利の見込み有り、なのでは。


先程失った希望が、再び奥底から湧き上がってくる。
それと同時にちくりと微かに胸が痛んだけれど、そんな痛みはなかったものとして慌てて自分へ暗示をかけた。

一度家に帰って、策を改めて練るべきではないだろうか。隠密に、慎重に。


そう思い至ると、本日は潔く退散するべく塀から離れてくるりと踵を返した―――

のがいけなかった。


「名前さん?」


その先には、明らかに学校帰りという出で立ちで、ひどく驚いたようにあどけない焔色をぱちくりと瞬かせる杏寿郎さんの弟君――千寿郎くんが立ち尽くしていて。
さあ、と全身の血の気が引いていく私が、「せ、千寿郎くん…」と声を漏らしたが最後。


「名前さんっ……!」


大きな瞳に今にも零れ落ちんばかりな涙をたっぷりと浮かべて、こちらへ駆け寄り抱き着いてきた千寿郎くんは、確かに実弟と同じくらいに可愛い。
だがしかし、今そうされるのはあまりにも都合が悪すぎる。
いつもならば真っ先に抱きしめ返していただろう腕はぶら下がったまま、私は自分の間の悪さを心底呪った。




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