「好き」だとか「嫌い」だとか、そういう感覚は割と本能で。この人のことは苦手だとか、この人のことは好きだとか。そんな何となくの臭いの嗅ぎわけだ。
だから、もしもこの世に赤い糸なんて超常現象みたいな、そんなものが存在するなら。運命というものが存在するなら。ビリリと俗にいう電流が走った様な、そんな感覚が走るものだと心のどこかで思っていた。ドラマや小説の様な大恋愛に憧れたわけじゃないけれど、それでも「恋」っていうのはどこかに転がっていて、運命の人とやらに私がいつか出会えた時。きっとこの人だという嗅覚が働くのだろうと、ただ何となくぼんやりと考えていたことは嘘じゃない。
だから。この人だけは違うんだろうと、私の嗅覚は確かに言っていた。
「奥井先輩、邪魔、です」
「結が大人しく俺に荷物を渡せば済む話だろ?」
高校に入学してから三ヵ月、私の荷物を奪い取ろうとするこの人は「奥井翼」センパイ。三年生の中でも目立つ人。いつも周りに誰かがいて、その中心で笑っている。私が知ってるのはそれくらい。入学して暫く友達になったカナちゃんが、かっこいい先輩がいるのだと話していた。のが、確か一ヵ月前くらい。その奥井先輩と廊下でぶつかったのが三週間くらい前。あの日の私は、クラス委員長として先生に頼まれた雑用をこなすために、荷物を持って廊下を渡っていた。それだけ。それだけのはずだった。あの日はちょっと段ボールから飛び出していたポスター用の紙やら何やらで少しだけ視界が悪くて、そのせいで前方不注意に陥っていたのは、確かに私の落ち度だと思う。それは認める。荷物を一気に運ぶのではなく、誰かにぶつかってしまうかもしれないというリスクを考えて、前方不注意にならない程度に小分けして荷物を運ぶべきだったのだ。
「あっぶな、大丈夫?」
ぽすっと、誰かとぶつかってしまった感覚と、上から降ってきた軽やかな声。やってしまったと思った時には時すでに遅く、ぎりぎり見える視界の端に映った上履きは三年生の色だった。先輩だというだけで威張る人はあまり得意ではないけれど、基本的に年功序列、上の人には敬意を払う質だ。その上、自分の不甲斐なさで、不注意で起こしてしまったその事故を情けないミスだと正直落ち込んでいた。けれど突然急に腕にずしんとあった重みがなくなって、比較的軽くなった腕の中と開けた視界に顔を上げればこちらをのぞき込む、キラキラとした人がこちらを見下ろしているのを見た瞬間、一気にポカンとした。
「いつもここ、一人で大荷物抱えてる女の子が歩いてるな〜って思ってたんだよね」
「す、すみません」
突然やってきた情報量の多さに、思考が停止する。ただ唯一理解したのは私自身が信頼を持って先生に頼まれた仕事を人に、しかも見ず知らずの先輩に手伝ってもらってしまったこと、だ。その上この先輩によればほぼ毎日この廊下を渡っていた私を見ていて、「荷物を持って歩いていること」を危なっかしいと思わせてしまっていたみたいなわけで。なんとそれの情けないことか。
「随分不服そうな顔じゃん。手伝ってやるって言ってるのに」
「………私に、託してもらった仕事を一人でこなせないなんて不甲斐なさ過ぎて」
「この量、女の子一人で持つの普通に無理だろ」
ケロリ、と無理だと突きつけられた言葉にカチンときて明らかに不機嫌さを前面に出してしまったのが間違いだった。人に言わせればそれは優しさなのだという。けれど、ただただ、任された仕事が自分の力では遂行できないこと、人の手を借りなければたかが荷物すら運べない、その事実がなぜだか無性にイラついた。できている、はずだ。だって私はずっと一人でこの仕事をきちんとできていたのに。先輩のそれが私に向けられた「優しさ」だということは分かっているけれど。理解と感情というものは随分と別の所にあるらしい。
「…別に、手伝ってもらわなくても私一人でできるのに」
「おーおー…生意気」
うっかり苛立ちに任せて吐き出した悪態は、勿論目の前で私の荷物を奪い去ったその人に聞こえていない訳がなくて。――しまった、と思った。その「優しさ」が嬉しくない訳ではなかったのに。仕事一つひとりでできない自分の不甲斐なさに苛立って、八つ当たりをするなんて。ピクリと、名前も知らなかった先輩の青筋が立つのが分かる。人の恩を仇で返すような人間に、流石にこれ以上構ってはこないだろう。我ながら可愛げのない発言だと思う。最初はただ、手伝わせてしまうことが申し訳ないと思っていただけだったのに。ただ、先輩の手を煩わせてしまうほどの仕事ではないと思っていただけだったはずなのに。情けない。「ありがとうございます」の一言すらいえない自分が、そんな当たり前の事すらできない自分が。
「で、これどこ運ぶんだっけ。資料室?」
「え、あの、」
「何?酷いこと言ってごめんなさい〜って顔?先輩は優しいからちゃんと言えたら許してあげる」
何だこの人。この時の正直な気持ちを述べるならこうだ。見ず知らずの人間の手伝いを買って出て、その上その人間に悪態を吐かれたというのに、怒って何処かへ行くでもなく手伝ってくれるのだという。
「……そこまでして手伝う意味が分からない」
「おーい聞こえてるからな」
可愛くないだなんだと、横でぶつぶつと文句を言うくせに結局「ありがとう」の一つも言えない後輩の荷物をその人は未だに抱えている。妙な人だと思った。第一印象はそんな人。結局階をひとつ降りたところにある資料室まで荷物を一緒に運んでくれたのに。じゃあねと、自分の教室へと戻ろうとする姿を見て、慌てて引き止める。咄嗟に制服を掴んで引き止めたのはいいけれど、何を言おうか決めていたわけじゃなくて。何?と振り返った先輩と視線だけが合う。逸らしてしまったらもう何も言えなくなるような、そんな気がして、喉の奥から出てこない言葉を何とか音に出そうと口だけを開く。ごめんなさいも、ありがとうございますも、そんな当たり前のことがたったの一度も言えていない。そんなことは分かっているのに。
「……な、名前は」
「奥井翼」
「………………あり、がとうございます」
そういうことを知りたかったわけじゃない。やっと絞り出た「ありがとう」は伝えるべき「ありがとう」ではなくて。いつもなら、ちゃんと言えるのに。どうしてだか、凝り固まった意地がそれだけ音にしてくれなくて。
「……名前は?」
「え、」
一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。質問された言葉は何を言われているのか理解出来るのに、その意味を理解するのに少しだけ時間がかかる。逸らさないままの視線をじっと見つめてどれくらいか。とても長い間見つめていたような気がするけれど、多分きっと本当に流れた時間はたった3秒くらいなんだろう。
「音無、結です」
引き攣るように絞り出した自己紹介は随分と不格好で、質問の意図に関しては未だに理解出来てはいなかったけど。結ね、と満足したように一言、私の名前を反芻すると昼休みの終わりを告げる五分前のチャイムが鳴った。キンコンカンコンという、いつもの音のタイミングの悪さに、自分の意地の固さに何度目かわからないむしゃくしゃを起こす。ここまできて、また私のせいで──奥井先輩まで授業に遅刻させるわけにはいかない。掴んだ制服を自分の不甲斐なさに苛まれながらそっと離す。
「遅刻するよ」
離した指の行き場を探っていれば、奥井先輩の戻らないのという言葉に、戻りますよと強めの語尾で返せばケラケラと笑う声が返ってくる。次、遅刻すると面倒な先生なんだよねと、どうやら私が動き出さない限り戻るつもりのないらしい様子を見て慌てて資料室から出れば、走れと背中をぽんと叩かれて駆け出す姿を慌てて追いかける。追いかける必要なんて、特になかったのに。結局、ありがとうも何も言えないままただ、授業開始のタイムリミットに目掛けて走り出してしまったのがその日、ほんの3週間前。あまりの不甲斐なさに、2階下の3年生の教室までお礼に向かったのはそれから3日ほど経った後だった。
──それからだ。それから、多分。私の嗅覚が働かなかった、毎日が始まったのは、きっと。