正直、戸惑っている。
ほんの3日前、ただ伝え損ねたことがあったから。簡単な「ありがとう」を伝えずじまいで終わってしまうのはなんだか気持ちが悪かったから。だから、ここまできたそれだけだ。そんな誰にするでもない言い訳を心の中で反芻しながらやってきた3年生の教室がある階は、いくら図太いと良く言われる私の精神でもそれなりに居心地が悪い。周りを見渡せば上級生しかいないというのは、こんな気持ちなのか。別に悪いことをしている訳でもないのに、なんとなくここには長居してはいけないような気がしてくる。入学してそこそこの1年生が3年生の教室の前をうろうろとしているのが珍しいのか、先ほどから視線がちらちらとうるさいほどこちらに向けられているのだから、居心地がいいわけがないのだけど。あれから3日も経ってしまった、その癖自己満足のためにあの日のありがとうを伝えに行くのは逆に迷惑だろうか。その違和感を、今すぐできればここから逃げ出したい言い訳にしてはいないか、なんて、考え出せばこんなものきりがなくて。伝えたいと思うならさっさと伝えればいい。少なくともあの日、不本意ながらお世話になったのは事実なのだ。
「あれ、今日は荷物持ってないね」
不意に、軽やかな声が聞こえてきた。私より少し上の方、確かに3日前に聞いた声と全く同じであるその音に慌てて振り返る。紛れもなくそこに立っていたのは「奥井翼」センパイ。私が禄にお礼もできずにお別れした本人であり、今3年生の教室の前まで来る理由を作った人物でもある。「翼、だれその子」と通りすがりの3年生の声が一気に耳に入ってきた。当たり障りのいい返事をしながら周囲と会話をするその人に、奥井先輩を探しに行くと伝えた時の友達の反応に納得がいく。
――奥井先輩は、とても自然に輪の中心にいる人だ。
「それで、3年の教室の前で何してたの」
「……奥井先輩を探してました」
「探してた割には不服そうな顔してんなよ」
この人と関わってから何もかも上手くいかない。私はただ言いそびれたあの日のお礼を伝えに来ただけなのに。自分からアクションを起こす前に話しかけて貰ったことで出鼻をくじかれた感じがする。お礼をするなら、自分から。そんなタイミングなんてこの人に当たっても仕方のないことだと分かっているし、結局は自己満足を終えるための最適なルートを逸らされてしまった、というただの自分本位な八つ当たりなのだ。普段はこんなことでいちいちイラつくこともないし、そもそも予定が変わるというのは予定の範囲内で数パターンの予測を立てるのは常だというのに。どうも奥井先輩とは何かかみ合わない部分があるらしい。特に理由のない苛立ちで八つ当たりをしてしまう。それが、どれだけ情けないことか。
「……あのさ、込み入った話なら場所変えるけど」
ここだと目立つだろ、という先輩に問題ありませんと伝える。あの日のお礼を伝えるだけだ。あまり先輩の貴重な休みを奪う気はない。こういう時まで私一人のために時間を取ってもらうのは気が引ける。少しだけ廊下の端に寄ってもらって、今日ここまで訪ねて来た本題を切り出す。
「あの日は、手伝ってもらってありがとうございました」
「うん?いや、アレは普通に女の子一人で持つ量じゃなかったし」
お礼は伝えられた。けれど、ケロリと「気にしないで」と笑った先輩と視線がぴったりと合って、止まってしまう。目的は達成できた。達成はできたのだけど、あまりにもあっさりとした返事に、先輩にとってはなんて事のない出来事だったのだと理解する。お礼を言えなかったことを悔やみ続けてきたのが急に馬鹿らしくなってくる。
「……なんかむかつきますね」
「音無は喧嘩売りに来たの?」
このヤロウと眉を動かす先輩からわざとらしく視線を逸らす。どうしたものか、この人に対してはいちいち悪態を吐かなければ気が済まないらしい。普通に、会話をするだけなのに。きっと、この人も私がそれなりの言葉を返せばそれなりの返答をするんだろう。先ほどの様子から見ても、そういう人だと思った。他人と距離を測るのが上手な人。少なからず私も下手な方ではないと思っていたはずなのに、いわゆる「感じの悪い」コミュニケーションをとってしまう。「同族嫌悪」という言葉があるけれど、それに似ているような、違うような。もしかしたらそうなのかもしれないし、違うのかもしれない。そんなことは分からないし、分からなくてもいいけれど、多分きっと「何か」があるのだ。その「何か」を知るために、積極的にコミュニケーションをとってみようなんてことは一切思わないけど。
「っていうか、もしかしてお礼言うためにここまできたわけ?!」
「お世話になったのは事実なので」
本当はクッキーとか、購買で買ったお菓子とか、持って来るべきかと思ったけど。甘いものが好きかとか、どんな味が好きなのかとか、飲み物を買うにしろお茶はなのかジュース派なのか、水派なのか、冷たくても飲める人なのか、ぬるい方が好きな人なのか、とか。そういう情報を私は知らないから。返って迷惑になるようなお礼の品を渡して、先輩に気を使わせてしまうことがあったら、そもそも「時間の経ちすぎた」お礼も自己満足なのに、お礼どころではなくなってしまう。
「もしかして、アレ、ずっと気にしてたの」
ずいと、突然のぞき込まれた視界に後退りしそうになるのを抑える。ここで一歩引いてしまったら何かに負ける気がした。「アレ」の指すものは、お礼をするに至った一連の出来事なんだろう。
「先輩の時間を奪ったことに対する正当なお礼です」
……足りないかもしれないけど。ぼそりと付け加えた言葉を聞き届けた後、きょとんとした視線と目が合う。逸らすのも癪で暫くじっと見つめ合った後(それでも多分、5秒くらいだったと思うけど)、堰を切ったように笑い出した様子に思わずぎょっとする。笑われた理由も理解できないけど、何がそう面白くて笑っているのかも分からない。少し堅苦しい言い方をしたかもしれないけど、変なことは言ってないはずだ。多分。
「可愛いとこあるじゃん」
真面目か、とひとしきり笑ったあと突然ぐしゃりと撫でられた頭に吃驚する。この人は、人との距離感が分かっている人だ、と思っていたから。高校生にもなって撫でられたそれが、悪い心地でなかったことは認めるけど。急に縮められた距離感に驚いたのは仕方がないと思う。
「な、なんですか」
「でも俺は、別に手伝った時間を無駄だとか思ってないし。良くない?」
荷物が重そうだったから手伝った、それだけ。そう言われてしまえば反射的に返そうとした悪態も、喉元で止まってしまう。なぜなら、答えは単純だ。私もきっとそうするから。それだけだ。私もそれなりのお節介だと思うけれど、そうであるなら奥井先輩も大概だ。けれど、ただ、それだけ、たったそれだけの言葉で私が納得するには十分だった。
「俺の心配してくれたんでしょ。ありがとね」
ちなみにあの後の授業はちゃんと間に合ったよと、笑う様子に何となく、ギスギスに凝り固まっていた緊張感とか、不安とか、――もしかしたら、それを「心配していた」というのかもしれないけど。そういうのが、全部吹き飛んだ気がした。よかった、私一人の用事に巻き込んだせいで、害を被ったりしていなくて。
「次、ちょっと無理そうだな〜って思ったら奥井先輩を頼ること!いい?」
勝手に取り付けられた約束は、守れる気はしないけど。ケロリと、一斉に私のテリトリーに入ってくるその人を、不快だとは思わなかったから。「あと、結って呼んでいい?」とあっさりと許容範囲を広げてくるその人を、別にいいですよと受け入れてしまったのだ。