日澤(ひざわ)源司(げんじ)にとって、今日と明日は消化試合も同然だった。 だから、できるだけ早く終わってほしいと願っていた。 明日から冬休みということで、クラスメイトはみな浮き足だっていたが、彼はひとり、自分の席で沈痛な面持ちのままだった。周囲からは心配の声があがっていたが、今日に限っては、それすらも耳に入らない。 「ゲン、今日はうちにくるんでしょ」 チャイムが鳴りおわった瞬間、教室の入口から、見慣れた顔の少女が入ってきた。彼女は明らかに不服そうで、胸もとでかたく腕組みをしている。 ゲン自身も、彼女に負けない不快さを感じていた。とにかく、この少女のことは嫌いだった。 「何しにきたんだ。学校では関わらない約束だろ。おまえの家には俺ひとりでいく」 この発言がそうとう癪に障ったのか、少女はぎっと目をつりあげて叫んだ。 「あたしだって、好きで迎えにきたわけじゃないもん。パパが一緒に帰ってくるようにいうから、嫌々きただけだよ」 「余計なお世話だ。おまえじゃあるまいし、迷子になんてならねえよ」 ゲンはさっさと席を立ち、教室をあとにした。背後で少女が何事か喚いているのが聞こえたが、一切気にとめずにさっさと歩いた。 「おい、 望月(もちづき)がなんかブチ切れてるぞ。いいのか?」 友人たちが困惑ぎみに追いかけてきたが、ゲンは「ほっとけ」と一蹴した。それくらい、彼にとって彼女── 望月(もちづき)瑠璃奈(るりな)はどうでもいい存在だった。 「今日から親が家をあけるから、あいつの家に預けられることになったんだよ。それだけ」 「ああ、それで教室まできてたのか。朝から不機嫌な理由がわかったよ」 「おまえら、たしか『いとこ』なんだっけ?」 その質問に、ゲンは一瞬眉をひそめた。その質問は、人生で一番嫌いだった。 「好きでなったんじゃねえよ。偶然いとこに生まれて、たまたま学校が同じになっただけだ」 すると、友人たちは顔をみあわせ、それからケラケラと笑った。 「おまえ、本当に望月のこと嫌いだよな」 「逆に、好きなやつなんているか?」 「片町(かたまち)なら、いつも隣にいるだろ」 「あれは例外だろ。ほかのクラスメイトには、普通に嫌われてるっぽいし。なんか魔法が使えるとかガチでいってんだろ? やべえよ」 あまりに話が長いため、ゲンはいよいよ頭に血をのぼらせて、一同をふりかえった。 「いい加減、その話はやめろ!」 その剣幕のすごさに、友人たちは一瞬で黙った。ゲンは怒りをたぎらせながら、校門をでて友人と別れ、いつもとは反対方向の道へと歩を進めた。大嫌いないとこ、望月瑠璃奈の家へとむかうためだった。 「やあ、源司(げんじ)くん。ひとりできたのかい?」 「はい。俺、ひとりのほうが楽なんで」 家につくと、瑠璃奈の父親がむかえにきた。ゲンは玄関で軽く挨拶すると、通された自室がわりの部屋で、さっさと制服を脱いで着替えた。 日澤(ひざわ)源司(げんじ)と 望月(もちづき)瑠璃奈(るりな)は同い年のいとこだった。ゲンの母の姉が瑠璃奈の姉で、住んでいる家もそれほど遠くはなかった。しかし、このふたつの家はあまり仲がよくなかった。瑠璃奈の母は、自分の家族をおいて海外生活をしているのだが、ゲンの母はこれが許せないらしかった。 ──瑠璃奈ちゃんは、まだ小学生なのに。旦那さんだって、大変でしょうに。あの人はいつも自分勝手よ。自分の好きなことばかり優先して、ひとの迷惑ってものを考えないんだから。 これが、ゲンの母が口癖のように唱えているおきまりの文句だった。一方で、ゲンも瑠璃奈のことは好きではなかった。何せ、彼女は物心ついた頃から筋金入りの変人だったのだ。ことあるごとに自分を「魔女」などと自称し、わけのわからない専門用語もどきをひっぱりだしては、そのうんちくを語りだす。ゲンがその発言を否定しようものなら、大声で泣きだすため、手のつけようがなかった。小学校に入学してからは、さすがに泣くことはなくなったが、あいかわらず異常な妄言は治らず、当然のことながら学校では浮いた存在となっていた。できるだけ関わりを避けるため、ゲンは学校では彼女と一切口をきかず、血縁者である事実も隠すように努めていた。そうした態度が功を奏したのか、瑠璃奈の側もゲンに関わろうとしなくなった。 ただしそれは、同じ場所にいなければの話である。 「なんでそういう態度なわけ?」 部屋の扉をあけると、そこには瑠璃奈がいた。いつの間にか帰宅していたらしい。 「おまえと関わって、いい目にあったことがないからな。まともに相手してほしけりゃ、その虚言癖を治してこい」 昔の瑠璃奈なら、この時点で怒り狂うか、火がついたように泣きわめくはずだ。だが、このときの彼女は違った。 「別にいいよ。あたしの話、聞きたくないのなら話さない」 「虚言癖」という言葉がでた瞬間、瑠璃奈は態度を硬化させ、さっと踵を返して玄関へと走りさっていった。 「パパ。あたし、あかりのところにいってくる」 玄関から、そんな話し声が聞こえた。彼女を拒絶しない数少ない人間である、友人の片町(かたまち)燈(あかり)の家へでかけたらしい。 ゲンのほうも、こんな居心地の悪い家にとどまる気は毛頭なかった。着替えて荷物をまとめると、自分も外へいこうと廊下を歩きはじめた。 廊下の途中には、瑠璃奈の部屋があった。不用心なことに、扉は半びらきになっている。もちろん、こんな場所には用事もなければ興味もない。だが、何気なく部屋をみたゲンは、そこにおかれているものをみて思わず足をとめた。 部屋には学習机のほかに、背の低い、小さなテーブルがあった。そして、その上には古ぼけた本数冊と、水晶玉、ブレスレット、走りがきのメモなどが無造作に散らかっていた。古書に書いているのは明らかに日本語ではなく、模様のような不気味な象形文字だった。 あまりの異様さに、ゲンはしばらくその場で固まり、その風景を眺めた。昔からおかしいとは思っていたが、彼女のおかしさは想像以上に進行していたらしい。 あまりの馬鹿馬鹿しさに、ゲンは頭をふり、さっさとその場を離れようとした。 そのときだった。 キイン、と一瞬だけ、鏡が金色に輝いた。 そして次の瞬間、金色の鏡面から手があらわれ、足があらわれ、とうとう、人間の全身が飛びだした。それは少女で、見知らぬ顔をしており、かなり変わったいでたちをしていた。大きなつばのついた帽子に埋もれた小さな白い顔。薄い布地のケープから伸びる華奢な腕。それから、異様に長く、派手な鎌形の杖──どこをとっても「奇抜」としかいいようがなかった。 奇抜な少女は土足のまま軽やかに床に降り立つと、ぎっと眉をつりあげ、テーブルの本や水晶をじろじろ眺め、最後にゲンに気づくと、低い声でこう尋ねた。 「あんた、ここの人?」 それは間違いなく「質問」だったが、ゲンは動揺のあまり、口をあけたままその場に立ちつくすばかりだった。少女は質問の答えを得られないことを悟ったのか、次は内容を変えた質問をよこしてきた。 「ここは『夢』じゃない。そうよね?」 今度もまた、ゲンは答えられなかった。びっくりしすぎて声すらでなかったし、でたところで答えられる質問でもない。というより、彼女の話の内容を理解できない。 少女はゲンが黙っていることを咎めることもなく、きょろきょろと部屋の中をみまわした。 「ここ、強烈な魔力を感じるわ。でも、あんたの力じゃなさそうね。みたところ、『従者』でもなさそうだわ。ああ、ただの人間なんかに会ってしまうなんて、最悪!」 彼女は軽蔑したまなざしをゲンにむけ、それから偉そうな態度でびっとゲンをゆびさした。 「ま、ちょうどいいから、あんたを『協力者』に任命するわ。拒否権はなしよ。あたしの姿をみた以上はね。あたし、いたずらに他人に姿をみせたくないの。これからはあたしの指示に従いなさい」 「何が指示だ、ふざけんな。それから、おまえは誰なんだよ」 ゲンは呼吸に怒りをこめ、やっとのことで言葉を搾りだした。が、それは想像よりもはるかにか弱い、小さな声だった。 「答えたくないわ」 少女は間髪入れずに返答し、その後少し考え、こう続けた。 「でも、それだとあたしを呼ぶことができないわね。じゃ、区別用の名前だけ教えてあげる。『ノエル』よ。それ以上は教えられないわ。あたし、誰とも関わりたくないもの」 「ノエル」はあいかわらず尊大な態度のまま、ぐっと胸をはってゲンをみおろした。彼女は背が高く、明らかにゲンよりは年上にみえた。