Sucreve

黒紅の誰そ彼





「……気持ちはわかります、けど、でも……」
やはり帰った方がいいのではないか。静かになったノボリさんに声をかけた。
「何故、ですか?何故、わたくしから離れようとなさるのですか?……わたくしのことを嫌いになってしまわれましたか……」
「ち、違います、違います、けど……」
ノボリさんのことが嫌いではない。ずっと一緒にいようなんて約束した間柄だ。嫌いであるわけなどない。
ただ、ノボリさんと元の世界を天秤に乗せた時、どうしても元の世界の方が重くなってしまう。私の人生はあくまであの世界のものだ。
「……では、何故わたくしを置いて行こうとなされるのでございますか」
俯いたままでノボリさんは言った。堂々巡りになってしまう気がして、今の自分には彼を納得させるだけの言葉が見つけられなくて、「……ごめんなさい」と何度も謝った。

  ◆

結局、私は元の世界に帰らないまま、ヒスイにいる。帰らない、というよりは帰れない、が正解か。
私が帰ってしまったらノボリさんは自殺でもしてしまうのではないかと不安になったのだ。それくらい、ノボリさんは憔悴していた。
このまま置いて行くわけにはいかないし、そもそもは添い遂げようなんて言っていた相手だ。無下にも出来なかった。
一緒に暮らすようにして、毎日愛を伝えて、決してあなたの事が嫌いになったわけではないと何度も告げて。そうして暫く経ったが、今度は私が憔悴することになった。ノボリさんの束縛がひどいのだ。
私が出掛ける時には必ずついてくるし、またノボリさんが出掛ける時はついていかないといけない。それも、手を繋いだ状態で。そうしないと「やはりわたくしのことが嫌いになってしまわれたのでは」と暗く濁った眼で私を詰るのだ。
最初の頃は時間の経過と共にノボリさんも落ち着いてくれるのではないか、と期待した。そうは言ってもノボリさんだって失った記憶が戻った方がいいに決まっている。ノボリさんの性格からして、嫌われていたようなことは絶対に無いはずだ。
だから落ち着いたらちゃんと話して、理解してもらおうとそう思っていたのだけどなかなかノボリさんの態度は変わらない。
どころか日に日にその不安は強くなっているようで、先述の通り眼も手も離してはくれない。
このままこんな息が詰まるような生活を強いられないといけないのかと思っていたある日のことだった。
「それでは参りましょう」
「はい……」
ノボリさんに連れられて村を出る。今日はノボリさんのキャプテンの仕事について行く。勿論手は繋いだままだし、その力は強い。
「いかがなさいました?」
「え?何、がですか?」
「……最近、あまり元気が無いご様子です。どこか悪いところがありますでしょうか」
「…………いえ、ちょっと眠いだけです」
「そうでございますか。体調が悪くなりましたら仰ってくださいませ。早めに切り上げます」
「……はい」
本当の事なんて言えやしない。あなたとの生活に疲れましただなんて。
けれどもしアルセウスが元の世界に帰してくれるという話をしなければ、ノボリさんと一緒になって、どのみちこうなっていたのかもしれない。
(……ここまでの束縛はないか)
私が拒否さえしなければ、あるいは。
外はとてもいい天気だった。抜けるような青空に沈んだ気分も少し晴れる。
「オオニューラを呼びますので手を離しますが……何処にも行かれませんようお願い致します」
「……はい」
もしも逃げ出したらどうなるだろう。一瞬過ぎった考えを止めるようにノボリさんは「……例え逃げても連れ戻させていただきます。どのような手段を使ってでも」と低い声で言う。その表情からは恐怖しか感じない。
私が動かないだろうと判断したのかノボリさんは私から手を離して笛を吹いた。
「にゃりん」
どこからともなく現れるオオニューラ。ノボリさんにすり寄ってから私にも寄って来た。何も知らないであろうオオニューラの行動に癒される。……私の手持ちはノボリさんに管理されている。一匹しか持つことを許されていないし、滅多にボールから出せない。中身がアルセウスだということもあるのだけど。
手持ちを一匹だけにしてくれと言われた時アルセウスを選んだら「……わかりました。但し、ボールからは出さないでくださいませ」と嫌そうな顔をされた。
調査に行く時だけは六匹連れて行ってもいいと言われているけれど、最近は何かしらの理由をつけて調査に向かう事も減らされてしまった。なのでなかなかポケモンと触れ合う機会が無い。
「にゃりん」
ごろごろ喉を鳴らすとオオニューラはすぐにノボリさんの方に戻ってしまった。ノボリさんがオオニューラを撫でるとオオニューラはノボリさんを舐め始める。「おやめくださいませ……っ」と慌てているノボリさんを見るとちょっと微笑ましく思う。
こういう風にふとした瞬間楽しいと思うことはあれど、心の陰が消えることはない。
腰につけているモンスターボールが小さく揺れる。……もしも、今アルセウスの力を使ったらどうなるのだろう。
元の世界へ帰ってしまえばノボリさんは絶対に手出しが出来ないのではないか。オオニューラと戯れるノボリさんを見ながらそんなことを考えた。
今なら、ノボリさんはオオニューラに気を取られている。今しかないとモンスターボールを握った。
「……アルセウス、元の世界に帰して!!」
モンスターボールを投げて、出てきたアルセウスに願う。アルセウスは「わかりました」と一言、言った。
それを聞いたノボリさんが血相を変えて私の方へ手を伸ばす。その手を振り払った瞬間私は光に包まれた。
真っ白な光で世界が塗り潰される。刹那、見えた最後のノボリさんはひどく傷ついたような顔をしていた。

  ◆

アルセウスの光が消えた後、私は元の世界に戻っていた。自分の部屋の、ベッドの上に、ちょこんと座っていた。あまりに自然にそこにいたものだから一瞬何が起きたか理解出来なかった。
元の世界の時間は進んでいなくて、思ったよりあっさりと元の生活に戻った。全て夢だったと言われても納得するくらいに、ヒスイでの記憶は遠いものになってしまっている。
よく、最後に見た彼の顔が忘れられないとかあるけれど、意外とそうはならなかったし罪悪感もさして無かった。それどころか彼と離れられた事に心の底から安堵した。
ベッドで転がってスマホをいじる。今日は雨がひどく、休みでよかったなと思った。
台風の時期でもないのに風も強くて雷も鳴っている。昼間なのに薄暗い天気に、ふと時空の歪みを思い出した。あの中もこんな風だったなと。
ピンポン、とチャイムが鳴った。何か頼んでいたっけかと確認もせずにドアを開けて、後悔した。
「やっと見つけました」
びしょ濡れの姿でそこに立っていたのは、ノボリさんだった。咄嗟に閉めようとしたドアに足を入れられ閉められない。
「っ、な、何、で、どうして……っ!」
「申し上げたはずです。わたくしルート把握はお手の物。あなたさまという目的地がある以上、どのような手段を使ってでも必ず辿り着きます」
「そ、んな……っ、元の世界に帰ればよかったのに!」
「わたくしの目的地はあなたさまでございます。忘れた記憶など、二の次で結構。大事なものとして心の何処かに存在していれば良い。ですがあなたさまは違います。現在のわたくしの記憶にしかと焼き付いて離れません唯一無二の存在」
そう言うノボリさんの手はしっかりと私の手首を掴む。振り払いたいのに、力が強くてそれは出来ない。
「……っ、は、離してっ!」
「あの時手を離したのがいけませんでした。これからは何があろうと決して離しませんのでどうぞご安心くださいませ」
ノボリさんが笑みを浮かべる。滅多なことで笑う人ではなかった筈だ。そんな彼が、至極愉しそうに口角を吊り上げている。
ああ、本当に全て夢ならよかったのに。幾ら願っても叶えてくれる存在はいなかった。


end

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