白藤の彼は誰
まるで子供のように泣きじゃくるノボリさんにかける言葉が上手く見つからない。
何度も「気持ちはわかりますけど」だの「帰らないと」だのありきたりな説得を繰り返したけどノボリさんは一向に納得してくれなくて、私から離れない。
「…………」
もう、このまま無理矢理元の世界に帰ればいいんじゃないかと思った。荒療治にはなるけれどその方がノボリさんの為になるんじゃないかと。
ボールの中に入ったアルセウスを見る。あの子を出さないといけないのかと思ったが視線だけで理解してくれたのかアルセウスは小さく頷いた。きっとこのままでも問題は無いという意味だろう。ならば、と開こうとした口をノボリさんに押さえられた。
「っ……!?」
「……今、何をなさるおつもりでしたか?」
闇より暗い目をしたノボリさんの手は私の口をしっかり塞いでいて、まともに息が出来ない。
「ん、っ、む……っ!」
苦しくて暴れるとノボリさんは「申し訳ありませんが少々大人しくなさってくださいませ」とモジャンボを出した。
「モジャンボ、ねむりごなを」
ノボリさんの命令に従ってモジャンボがねむりごなをかけてくる。途端、強烈な眠気に襲われた。
アルセウスに助けを求めようとしたが出来なかった。見ていないでこのまま帰してくれてもいいのにと思ったがそうはしてくれなかった。
私がノボリさんに押さえつけられているからか。それともきちんと言葉にしていないからか。そんなことを消えゆく意識で考えた。
◆
深い深い眠りから最初に戻る感覚は聴覚だ。誰かが私の名前を呼んでいる。柔らかな声で。
それから感じるのは舌の上の苦味。カゴの実をすり潰したものを少しずつ与えられている。上手く飲み込めずに口の端から少し溢れたのを「申し訳ありません」と拭いてくれた。
少しずつ目を開けて、映ったのは見慣れた男の人。彼は私が目を開けると軽く額に唇を落とす。
「おはようございます」
「…………」
起きたばかりで声が上手く出ない。だけど彼はそれを咎めることもなく私の上体を起こして「お食事の時間ですよ」と口に食べ物を運んでくれる。
完全に眠気が醒めているわけではなくて、動かせるのは口とか目とかその程度だ。だからどうしても食べるのはゆっくりだし、時々溢れてしまう。勿論彼はそれを急かすでも責めるでもなく「ゆっくりで構いませんよ」とか「ああ、入れすぎてしまいましたか?申し訳ございません」と優しく言ってくれる。その声に私は大切にされているんだなと嬉しい気持ちになった。
「さて、次は身体をお拭き致します」
着ている物を脱がされて身体を綺麗にされて、また彼の腕に抱かれる。彼の腕の中はとても暖かく、落ち着く。……あれ、この人はどうして私の面倒を見てくれているんだっけ。
ふと疑問が湧いた。ここはどこだっけ。どうして私はこの人と暮らしているんだっけ。前にもこんなこと、考えなかったっけ?
次々と疑問が湧いて思考が輪郭を取り戻しそうになった瞬間、布を口元に当てられた。そのまま呼吸をすれば、掴めそうだった輪郭はとろとろと溶けていく。
その感覚は得も言われぬもので、ああ、きっとこれが幸せなんだと感じた。さながら天国にでもいるような、宙をたゆたうような心地よさ。もう何も考えたくない。考えられない。そんな穏やかだけど強い眠気。
「おやすみなさいませ」
優しい声を掛けられて、意識はすうっと消えていった。
end.
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