extra
インゴと喧嘩した。何がきっかけだったかは覚えていない。何か文句を言われて、いつもならはいはいインゴ様ですものねなんて流した筈がどうも虫の居所がよくなかったのか、そっちだって、と言い返してしまった。
言い返したせいだろう、インゴもまた文句を言って、私も言い返して、を続けた結果どうしようもなくなった。お互い後に引けなくて膠着状態。
気まずさと苛立ちにもう知らない、と言い残してカフェを出た。折角合わせた休みのデートだったのに。
ホドモエの跳ね橋の上で右手薬指の指輪を外す。
手のひらの上のそれを暫く見詰め、物に罪はないよね、とそっとポケットに仕舞った。何も無くなった薬指が軽く感じる。
帰ったらあれ書こ。そして明日提出しよ。インゴと離れよう、いやもう別れたか。向こうもこんな女と縁が切れて満足しているだろう。
怒り冷めぬ頭のまま、家路を辿る。ほんの少しだけ、寂しさを覚えた。
◆
翌朝、出勤と同時にボス達の執務室へと向かった。私の手には昨日書いておいた書類。
執務室のドアを律儀に三回ノックして、返事を聞いてから入室する。いたのはエメットさんだけ。インゴは大体重役出勤だからそれも当然だ。
「おはよ。どしたの?」
「おはようございます。これを提出したくて」
はい、と差し出した書類。それを見てエメットさんは固まった。
私が差し出したのはダブルトレインへの異動願だった。
「……理由は?」
「インゴと喧嘩したんで」
「仕事に私情挟まないでくれる!?」
物凄い正論に「すみません」とだけ返した。
「どうしても無理なら退職願書いてきます」
「わかった異動ね」
「そんなあっさり」
「きみが辞めたらインゴ絶対キレるからダメ。…………異動いいけどすぐは無理。一ヶ月くらい待って」
「もう少し短くなりません?」
「…………無理」
「退職願って一ヶ月前でよかったですかね」
「待ってわかった!…………二週間……」
「…………」
「色々あるの!配置決めとか色々!!」
「ですよね。じゃあそれでいいです」
「何できみの方が上からなの……。……あれ、これインゴ知ってる……」
「わけないじゃないですか」
「インゴに確認取ってからにさせて」
「…………」
「すぐ済ませるから!」
「それでも二週間後にはダブルでお願いします」
「…………あ、インゴ?」
私のお願いを無視してライブキャスターを起動させたエメットさん。すぐにインゴの声が聞こえてくる。
「彼女がダブルに異動したいって」
『…………何故わたくしにそれを?』
「え……だって恋人じゃん……」
『仕事には関係無いでしょう。彼女なら相応の能力もあります。勝手になさい』
インゴの回答を聞いてエメットさんは私の方を見た。
「というかもう恋人じゃないです」
「は!?」
「別れました」
「えっ、ちょっと、インゴ……うわもう切ってる!嘘でしょ!?何で!?」
混乱するエメットさんにこの間カフェで喧嘩してそのまま別れたという話をする。
「それ……別れたの?」
「別れようとかは言ってないですけど追っかけられなかったですし。今の感じからしても別れたと思ってます」
「………………」
エメットさんは何かを考えるように眉間を押さえ、「……ひとまずダブルに異動だけ聞く。二週間後。細かいことは決まったらまた話す」
「はい。お願いします」
「でもインゴとちゃんと話して。嫌な予感しかしない」
「嫌です」
「即答やめて。…………そろそろ朝礼。戻る?」
「ああ、そうですね。失礼しました」
何とか受け取ってもらえてよかったわと事務室へ向かう廊下を歩いていると先にインゴを見つけた。こちらへ向かって来ているのでこのままだとすれ違うことになる。あんまり近付きたくないんだけど。
そう思いながら私は一応まだ上司だしなと挨拶をしつつすれ違った。といってもめちゃくちゃ小声で「……はよざいます」くらいのあれだ。インゴはちら、と私を見たけどそのまま歩いていった。小声過ぎただろうか。まぁいいか。向こうもこんなのと会話したくないだろ。
事務室についたら真っ直ぐ自分のデスクへ。隣の同僚に挨拶しながら座る。メールやなんかを確認しながらダブルの編成どんなのにしようかなと気の早いことを考えた。
そうこうしている内にチャイムが鳴って朝礼が始まる。不機嫌そうにしているインゴの隣でエメットさんが今日の予定やら何やらを話す。朝礼にインゴがいるのも珍しいな。重役出勤だしこういうのは面倒とかってあまりいないのに。
ふと、インゴと目が合った。咄嗟に逸らすと舌打ちが聞こえた気がする。気のせい、だよね?
朝礼も終わり、配置を確認した。午後からトレイン勤務だった。ならばせめてインゴと同じ周には乗りたくないぞと思ったらここぞとばかりに三周目、それも六両目に配置された嘘でしょちょっと。乗降の際に絶対会うじゃん。下手したらあいつこっちの車両に来るんじゃないか?すごいやだ。
…………付き合ってた頃は確かにそういうことが多々あった。インゴが七両目、私が六両目。インゴが来る時もあったし私から行くこともあった。「わたくしに呼ばれたと言っておきなさい」なんて言うインゴに甘えて。
職権乱用もいいとこだけど、挑戦者が来るギリギリまで一緒にいたりした。けど今は流石に無理っていうか嫌だ。何でそんなことにしたのあいつ。気まずいでしょちょっと。
午前の仕事は今ひとつ手につかなかった。そうして午後、トレイン勤務である。といっても呼び出しがかかるまでは普通に内勤だ。出来れば挑戦者が軒並み二周目で負けますようにと祈った。
◆
祈りが通じたのか結局トレインに乗ったのは一回だけだった。それも挑戦者は一両目で負けたのですぐ降りた。おかげでインゴとも全然会わなかった。……まぁ、視線は感じたけど。
向こうも出方を伺っているのか連結部分辺りから見られてるのは感じたし乗降の際も見られていた。話しかけては来なかったからスルーしたけど。
仕事も終わったー、と帰ろうとしたらライブキャスターが鳴った。見ればエメットさんだった。もしやもう異動OKとか?仕事早い。
「もしもし」
『まだギアステいる?』
「はい」
『良かった!あのね、インゴの様子見に行って欲しい』
「は?」
『インゴさっき帰ったんだけどすごく具合悪そうだったから』
「……何で私が」
『彼女だから』
「もう違います」
『とにかく!合鍵取りに来て。インゴの様子見に行って』
「…………」
私は少し考え、「わかりましたよ」と合鍵を受け取りに行った。
朝と同様、三回ノックをして返事を待ってから執務室に入る。
「よかった来てくれた!」
「私行かないとダメですかね?」
「勿論!本当、インゴ死にそうな顔してた。行ってあげて」
「…………慰められるかどうか微妙ですよ」
「それでも行って。…………インゴ、きみに会いたくてたまらないみたいだから」
エメットさんの言葉にちょっとだけ、胸が騒いだ。
◆
インゴの家(というかエメットさんの家でもあるけど)についた。借りた合鍵を使って上がらせてもらう。
何度も来ているので勝手はわかる。インゴどこだろ。
リビングには明かりもついていなかったので部屋かな?と行ってみた。軽くノックして隙間から覗く。部屋は真っ暗だった。
(…………エメットさんは帰ったって言ってたけどよく考えたらどこかに寄り道してたりするのでは)
一度帰って出掛けたとか、家にいない可能性もあるよな、と思った時だった。小さくすすり泣く声が聞こえた。
「……インゴ?」
いるの?と声をかけるとこれまた小さな声で名前を呼ばれた。いるらしい。
「電気つけるよ?」
手探りで壁のスイッチを探して部屋を明るくする。ベッドの上に布団の塊があった。
ベッドに腰掛けて布団の塊に手を乗せた。塊は震えていて、さっきの声を考えると中で泣いているらしいと悟った。
「インゴ?」
「…………」
「大丈夫?」
具合悪いの?とぽんぽんすると塊から腕が出てきた。かと思うとその腕は私を布団の中に引きずり込む。
「ちょっ……!」
「……、ごめんなさい……っ」
布団の中はじっとりしていた。そんな中で思い切り抱き締められるものだから暑くて息苦しい。
降って来た声はひどく震えていて、何故か私が泣きたくなった。
「インゴ」
「っ、ぅ、ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
泣きながら何度も謝るインゴ。暫しインゴの泣き声を聞いていたけど、私に縋りながら泣きじゃくるインゴを許してやるか、と頭を撫でた。
「インゴ、もう怒ってないよ。だから謝らないで」
「…………っ、ほ、んとう、ですか……?」
「うん。私も言い過ぎた。ごめんね?」
「わ、悪いのは、わたくし、ですっ」
「じゃあお互い様にしよう」
「っ、う、ぅうっ……」
「だからもう泣かないで」
「……ぅ、……っ、好き、です、好き……」
「うん。私も好きだよ。……だから一旦布団から出ようかすごく苦しい」
「す、みません……」
ほぼ密閉に近い空間で二人喋ったものだからまぁ苦しい。布団から顔を出すとインゴの顔は真っ赤だった。泣いていたせいもあるだろうけど。
「大丈夫?」
「は、い……」
袖で涙を拭きながらインゴが抱きついてくる。大型の獣みたいだと思いながらその背を撫でた。
「と、ところで、」
「んー?」
「……指輪、は……」
「え?ああ、……外して……えーと」
ごそごそと上着のポケットを漁る。同じやつ着ててよかった。
「あるよ。ちゃんと」
ほら、と手のひらに乗せるとインゴは至極安心したようだった。
「……今日、それがあなたの指から無くなっているのに気付いて血の気が引きました……」
「捨てようかとも思ったんだけどね」
「嫌、です。やめてください……」
「うん。捨てない。……ねぇ、もう一回はめてくれる?」
「喜んで」
私の手から指輪を取ると、そっと薬指にはめてくれた。泣きじゃくったせいで目も頬も真っ赤な彼がそれはもう愛おしくて。
「インゴ、大好き」
「わたくしもです」
抱きついたらその分しっかりと抱き締め返される。誰よりも何よりも落ち着く腕の中、幸せを噛み締めた。
こうして、珍しく長引いた喧嘩は終わりを告げたのだった。
end.
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